マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

マクロスやロボット大好きなブログです。二次創作などを主にやります。

公式ではなく非公式です。

鍋島直茂

2017-09-12 01:01:15 | 戦国武将・戦国姫図鑑
鍋島直茂
【諱】
直茂
【苗字】
鍋島
【朝臣】
藤原
【生没】
1538年ー1618年
【通称】
孫四郎
【父親】
鍋島清房
【母親】
華渓
【養父】
千葉胤連
【兄弟】
鍋島信房
小河信俊
龍造寺康房
【義兄弟】
千葉胤信
【正室】
慶円
【子息】
鍋島勝茂
鍋島忠茂
伊勢龍(鍋島茂里室)
千鶴(多久安順室)
彦菊(諫早直孝継室)
【養子】
鍋島茂里
龍造寺高房
娘(大田茂連室)
【解説】
在地豪族であり少弐氏の一族である鍋島清房の子として生まれる。
主君龍造寺家兼の命令で、西千葉一族(下総の千葉一族と同族)千葉胤連の養子となる。
が母の実家であり祖父である龍造寺家純が龍造寺氏の勢力拡大を警戒した少弐氏の家臣馬場頼周に殺害され。
主君家兼が逃亡する事態が発生、龍造寺氏と少弐氏が対立関係になると千葉氏との養子関係は解消された。
家兼が亡くなってから数年後、従兄弟である龍造寺隆信が現れ隆信の母慶誾尼が直茂の継室になる。
従兄弟かつ義兄弟になったことで、隆信から厚い信任を得て家を支え宿敵の少弐氏を滅ぼす事になる。
大友宗麟が侵攻して来ると、隆信に籠城を進言し、同時に安芸毛利氏に大友領への侵攻を要請した。
今山の戦いでは、家中が籠城派が主流になる中で夜襲を進言。
自ら夜襲隊を指揮して大友親貞を討ち取り戦意を消失させる。
この勝利により鍋島家の家紋を剣花菱から大友家の杏葉へと替えることになった。
少弐氏の残党を全て滅ぼし、有馬・大村氏を降伏させると、隆信は息子政家に家督を譲り直茂はその後見人になった。
島津と通じた筑後柳川城主の蒲池鎮漣を肥前へ誘い出して誅戮し、隆信の命令で柳川城攻めをした田尻鑑種を督戦、蒲池氏が滅んだ後に柳川城に入り筑後国の国政を担当する。
隆信の期待と直茂の存在を警戒をしてからか、実質の左遷になった。
沖田畷の戦いで隆信が島津氏に敗れ戦死すると、直茂は自害しようとした。
が家臣に止められて肥前に退き、政家を輔弼して勢力挽回に務め一方の島津側は、隆信の首の返還を申し出てきたが、直茂は受け取りを断固拒否し、強烈な敵対を示した。
一時は島津氏と手を組むが、直茂は豊臣秀吉と通じた九州征伐を促し接近するやいなや豊臣方についた。
一連の動きを秀吉は高く評価し、龍造寺氏とは別に所領を安堵し政家に代わって国政を担うよう命じた。
そのため、国政の実権は直茂が掌握し、嫡男勝茂と共に豊臣姓が下賜された。
関ヶ原の戦いでは、息子の勝茂が当初西軍に属して積極的に参戦した。
が直茂は東軍勝利を予測しており、先ず尾張方面の穀物を買い占めて米の目録を家康に献上 合戦直前に離脱し恭順することになる。
恭順する証拠に小早川秀包の久留米城を攻略次いで立花宗茂の柳川城を降伏開城させ更に直茂は、他の東軍諸将と共に島津への攻撃まで準備した。
この計画は破綻するが、功績により所領安堵された。
龍造寺高房は直茂の傀儡だと感じ幕府に自らが実権を持っていると訴えるが一門の龍造寺信周や龍造寺長信らも鍋島氏への禅譲を積極的に支持した。
その結果高房は直茂を恨み夫人を殺して自決するが、未遂に終わり佐賀から去や不遇な死を遂げる。
なお子孫は会津藩士として存続する。
1618年、直茂は没する。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 明日はうますぎ | トップ | 明智光綱 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿