注意:セリフには創作も含まれますが、出来事は史実に沿ってます。
【紀尾井坂の変】
西南戦争が終わった翌年の西暦1878年(明治11年)5月14日。
福島県令(福島県知事)山吉盛典が福島に帰る際に挨拶をしてきて、利通はこれを受ける。
話は2時間に及び、退室しようとした山吉盛典に30年計画について述べる。
日本国最後の内戦.西南戦争などの含めた士族の叛乱を鎮圧するのについやした10年。
次の10年の無い征整理・殖産興業の時期、最後の10年間の後継者育成の時期そしてその2期までを自分の手で力を注ぎたいと言う抱負を語る。
それを終えると利通は自宅から明治天皇に謁見するため赤坂皇居(現在の皇太子徳仁親王殿下が住んでいる東宮御所)に向かった。
「奸賊大久保め・・・・・・・」
利通が乗る馬者をずっと見つめる者・・・・・・
石川県士族.島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一そして元警視庁巡査で島根県士族浅井寿篤。
憎悪を向けるような目で馬車が通り過ぎるのをずっと見ていた。
そして運命の午前8時30分。紀尾井坂清水谷(現在の参議院清水谷議員宿舎)・・・・・・
そこに利通が乗る馬車が通りかかった・・・・・・・
その時。
「奸賊大久保!!石川県士族島田一郎。」
「同じく長連豪!!」
「お前らは何者・・・・・・」
ザシュ
島田らが利通が乗る馬車を襲撃、御者中村太郎を刺殺する。
中村を殺すと島田らは乗車していた利通を馬車から引きずり降ろした。
「無礼者!!わしを内務卿大久保としっての所業か!!」
「奸賊に問答無用!!」
そう言って島田らは利通を次々に刺し殺害する。
この時利通の頭を指した刀は地面に突き出たと言う。
また16ヶ所の傷の半数は頭に集中していた。
「お・・・・大久保さん・・・・・・・」
事件後.前島密(郵便制度の父)が事件現場に訪れた。
密が目にした光景は利通の遺体が惨かった光景である。
この時密は「肉飛ぶ骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するのを見る。」と表現した。
その後島田らは自主し伊藤博文・黒田清隆らに斬奸状を手に自首した。
斬奸状は新聞各社に送り込まれるが黙殺され、石川県人30名が逮捕された。
島田らは7月26日に判決が出て斬罪、死刑即刻執行され斬奸状を起草した陸は終身禁固刑(大日本帝国憲法発布で特赦釈放)の判決が言い渡される。
この事件をきっかけに政府高官は近衛兵(近衛師団)の護衛がつくようになる。
牧野家の養子に行った次男牧野伸顕伯爵は2・26事件で陸軍青年将校らに襲撃されるが。
護衛の警察官は殺害されるも窮地を脱する。
これ以外にも牧野は8回も暗殺テロ計画の対象にされている。