2017年2月末から訪問したヴェトナムでの晩餐会「お言葉」には、ヴェトナム戦争について、一切触れていない。この背景には、安倍自民党政権の意向がうかがわれ、それを拒否しない天皇の正体が見える(天皇は歴史事実に意図的に触れないという手法で政治的役割を果たしているのである)。それは、日米安全保障条約のもとで、自民党政権がヴェトナム戦争に大きな役割を果たしていた事を日本国民に明らかにする事になるからである。それは、
岸信介自民党政権(1957年2月~1960年7月、第1次2次含む)についてみると、アジア太平洋戦争の時期に、日本が与えた損害を賠償するという事を口実に、米国の傀儡である南ヴェトナムのゴ・ジン・ジェム政権を積極的に援助した。1959年5月に総計約5560万㌦の賠償・借款協定に調印し国会に上程した。当時の社会党をはじめとする野党は大反対した。しかし、岸政権は、「軍事施設の強化に関係あるものであるとは考えておりません」として、59年12月23日、実際は政治・軍事がらみである事が明白であったにもかかわらず、上記協定を強行採決し、批准した。その背景には、翌年の60年に予定されていた日米安保条約の改定があった。
改訂条約では、在日米軍が日本以外の「極東地域」の防衛に任ずる事を認めているため、自民党政権は、米国のアジア戦略に組み込まれる事となった。そのため、1965年2月に、米国が「北爆(北ヴェトナム爆撃)」を開始すると、佐藤自民党政権は、日米安保条約の「極東地域」にヴェトナムも含まれる、と拡大解釈した。
岸の次の池田勇人自民党政権(1960年~64年)も、その次の佐藤栄作自民党政権(1964年~72年、第1次2次3次を含む)も米国の要求をすべて受け入れ、ヴェトナム戦争を正当化し、米国への支持と協力を一貫して表明した。
このような自民党政権の安保条約に基づく米国のヴェトナム戦争に対する支持・協力政策は、ヴェトナム戦争特需を生み出し、1964年10月の東京オリンピックの建築ラッシュで増えたホテルは、その後閑散としていたが、1965年末以降になると、米兵の客でにぎわうようになった。そのため日本経済は1965年前半は不況のどん底にあったが、それ以降急速に景気は回復し、72年頃まで一貫して「高度経済成長」を維持した。「高度経済成長」は「ヴェトナム戦争特需」と大きな関りがあったのである。
その裏で、ヴェトナム人民はソンミ事件など一言では言えない悲惨な日々を送っていたのである。
また、米国の施政権下にあった沖縄県の嘉手納基地は、ヴェトナムを爆撃するB52の常駐基地とされた。当時の太平洋統合軍(ハワイ)最高司令官シャープ提督は、「B52 が沖縄から発進した事で、住民がショックを受けているというが、私にはその理由が理解できない。我々はこの基地をいつでも自由に使用する権利を持っている」「沖縄なくして我々はヴェトナム戦争をやっていけない」と強調した。
米国の第7艦隊の基地も横須賀・佐世保など日本であり、ヴェトナム戦争に投入された。その他あらゆる面で日本全体がヴェトナム戦争と関わったが、それについては別稿で紹介する。
米国施政権下の沖縄はもちろん日本本土も、日米安保条約を堅持する自民党政権の政策に基づいて、米国のヴェトナム戦争を支持し協力するための兵站・補給などの基地となり、自らは傷つく事なく、特需(大企業が死の商人として)で大儲けをして「大国」になる事ができたのである。
天皇は上記のような事実について、ヴェトナム晩餐会の「お言葉」では、一切触れずに何もなかったかのように済ませているのである。これは情報操作の手法の一つである。そのようにして、知識の乏しい日本国民、特に若年層を標的に欺こうとしていると思われるのである。そしてまた、安倍自民党政権にとって都合の良い内容に歴史を書き変え(歴史修正主義)ようとしていのである。
国民は、天皇の発言や行動・生活を、先入観を持たず、科学的に(論理的実証的に)分析し真実の姿を知る努力が大切である。その事によって国民は真実の幸福を招き寄せる事ができるだろう。
(2017年4月30日投稿)