ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「中国のいまがわかる本」。

2010-02-05 15:39:01 | Weblog
これも例によって図書館のヤングコーナーから借りてきた本だが、内容的には極めてニュートラルであった。
「中国のいまがわかる本」。
著者は上村幸治という人でマスコミ関係から大学教授に転身した人のようだ。
現代の中国社会をウオッチした内容である。
現代の中国といえば当然のこと対日批判が題材となっているが、今の日中の関係は双方とも戦争を知らない世代が引き起こしているように思える。
戦後の日本の首相で、村山富一はそれこそ100%自虐史観に嵌って「中国に多大な迷惑をかけた」と公然と言ってのけた売国奴であるが、我々の側が加害者の立場に立てば、先方は被害者立場を強調するのは自然の流れである。
村山富一の世代ならば、日本と中国の関係は歴史的な事実として肌で体験した世代であるが、そういう世代が一方的に自分たちが加害者だと思い込むことは、自分たちのこと、自分たちが置かれていた当時の内情を全く知らないということでもある。
つまり、歴史を知らないということであり、もう一歩踏み込んで言えばものを知らないということに尽きる。
我々が加害者であると自ら認めれば相手はそれに乗じて謝罪を求めてくることは当然である。
日中関係に関するあらゆる本でも、日中間の政府の間では戦後処理は終わっていることは歴然としている。
なのに、日本の首相あるいは政府高官が今に至っても謝罪し続けるということは、極めて日本的な「謙譲の美徳」を体現していることだが、この「謙譲の美徳」という概念は、日本人以外には通用しない。
自分たちの間だけしか通用しないことを知らずに、その事実を無視して謝罪さえし続ければ、相手の理解が得られると勘違いするところが外交音痴の最たるものである。
この部分に「ものを知らない」ということが顕著に表れているのである。
日中戦争から太平洋戦争への流れを歴史的事実として知らないわけではないが、知れば知るほど中国は果たして日本に勝ったのかという疑念がわく。
中国に侵攻した日本軍は、中国の正規軍によって東シナ海に追い落とされたのであろうか。
ベトナム戦争でアメリカはべトコン、いわゆるベトナムの共産主義者によって海に追い落とされたが、あれでも厳密にいえばアメリカが負けたわけではないと思う。
ベトナムという国が共産主義者によって乗っ取られたので、アメリカは手を引いただけのことで、負けたわけではないがメデイアは一斉にアメリカが敗北したというニュアンスで報じていた。
日中戦争について言えば、1945年、昭和20年8月において、日本軍は点と線のみとはいえ、中国の大地に軍隊の形を維持したまま残っていたわけで、南洋諸島で孤立した日本軍のように玉砕したわけではない。
にもかかわらず、天皇陛下の一声で、その日本軍は一斉に銃を下において戦うことをやめたわけである。
ここに日本人と中国人の民族の本質が見事に表れている。
こういう部分を子細に考察しなければならないと思う。
この本にはその点に関して非常に面白い記述があった。
つまり、中国はあの戦争を通じて連合国の側に身を置いていたので一般的には戦勝国であるが、中国の一人一人の人民は、自分たちが日本に勝ったという実感を抱いていないというものだ。
つまり、彼らは戦勝国であるにもかかわらず、自分たちが日本を負かしたという実感を持っていないということだ。
当然と言えば当然のことで、あの時点で日本軍は彼らの周りにいたわけで、その鬼より怖い日本軍がある日突然銃を撃つことをやめてしまったわけで、彼らにしてみればキツネにつままれたようなものであったに違いない。
人の集団を民族という言葉で括ると、それぞれの民族は、それぞれに歴史を背負った存在だと思う。
例えば我々日本民族は、我々の国土の置かれた地勢的な位置とか、気象条件とか、その他の自然の条件が集約された形で日本民族の特質を形造っていると思う。
同じことは中国側にも言えるわけで、彼らの民族的な特質も、周囲の環境によって形造られたものと見做していいと思う。
そういう視点を念頭に置いてこの両者を比べると、彼らは大陸という背景の中で生かされてきたが、我々は海で囲まれた比較的閉鎖的な環境の中で生かされてきた。
地球儀で見れば歴然とわかるように、我々の文化が大陸から朝鮮半島を経て島づたいに入ってきたであろうことは素人でも判断がつく。
そうすると大陸に住んでいる人から日本を見れば、日本というのは彼らの文化の流れ着いた先、ある種の吹き溜まりで、カスのようなものだという認識に至るのも無理ない話だと思う。
これがいわゆる中華思想であり華夷秩序であって、自分の周囲のものは全部野蛮人だ、野蛮人ならば俺たち漢民族に朝貢して当然だ、俺は偉いんだぞということになる。
ところが近代になると、この彼らの長年の思い込みが通用しなくなってきたわけだ。
彼らが野蛮人だと思っていた倭の国、東海の小島の倭という野蛮国が、自分たちの頭を越えて跳梁跋扈しだしたので、彼らの自尊心は木っ端みじんに飛び散ってしまったわけだ。
彼らはアジア大陸に有史以来連綿と生き続けたので、他民族との接触は絶え間なく経験していたので、異民族の扱いには手なれたものであったが、我々の側は、海の中の孤島の住民で、比較的均一の民族であったので、異民族との接触には極めて不慣れであって、相手を過大評価したり又逆に過小評価したりと、適正に見定めることができなかった。
今、中国で問題となっている近々の話題は、経済成長に伴う格差の是正であるが、こんなことは如何なる国でも抱え込んでいることであって、中国だけの特殊なことではないが、人々が恐れているのは、それが行き詰まると中国そのものが崩壊するのではないかという恐れである。
アジア大陸に住も民族は、何度となく国家を作り、それがまた崩壊する歴史を繰り返してきたわけで、今までの歴史では科学技術の飛躍ということを考えなくても済んでいたが、これからそういうことはあり得ない。
片一方で宇宙に有人衛星を打ち上げているかと思えば、片一方では有史以来の伝統的な牧畜や農業があるわけで、沿海部では高層ビルが立ち並んでいるのに、奥地では未だにパオに住んでいるという状況がある。
それに輪を掛けて問題を複雑にしている要因が、情報通信の発達である。
昔の電話は有線で、それの利便性は電話線を引くという設備投資が伴わないことに利用できなかったが、無線が主流の昨今では、その設備投資というものは大きく緩和されて、利便性のみが増幅された。
ということは、中国のいかに奥地にいようとも、情報に関しては沿海部との格差がないということになる。
こういう格差が国内に沈潜していると、それが社会変革のエネルギーになりえるわけで、中国の歴史というのはその繰り返しの連続だと思う。
国土の広大な国が安定した政治状況を維持するということは極めて難しいだろうと想像する。
旧ソビエット連邦でもわずか75年で崩壊したわけで、新生中国も今までのところ60年を経過したに過ぎず、ソ連にしろ中国にしろその広大なテリトリーを安定的に維持することは並大抵のことではないということは察して余りある。
しかし、アメリカなどはこの両国ほど広大なテリトリーではないというものの、合衆国という州を寄せ集めてそれぞれの自治を尊重しながら一つにまとめ上げているわけで、人の英知と知恵を集めれば可能だと思う。
この違いを私なりに考察すると、そこに住む人々の民主化の度合いの相違だと思う。
アジア大陸の住人には、この民主化、民主的という概念が爪の垢ほども存在していないと思う。
あるのは弱肉強食の自然の法則のみで、それに整合性を持たせるために編み出されたのが儒教であって、夫婦相和し、兄弟仲良く、年長者を敬い、親孝行に勤めよ、という教えは封建制度を一歩でも超越することを禁じているわけで、これがある限り若者の未知への挑戦はあり得ないということになる。
この本が言っているように、中国の奥地では未だに学校のシステムそのものが機能していないとなっているが、ならば共産主義による天下統一は一体何であったのかと問い直さねばならない。
共産党幹部の汚職、腐敗というのは中国の奥地では普通のことであるわけで、ある意味で彼らは原始の社会に生きているようなもので、人間の本来の姿を赤裸々に反映しているということでもある。
我々の観念からすれば、共産党員や官僚、あるは組織の構成員の汚職、収賄、腐敗というのは唾棄すべき行為かも知れないが、人間の集団では原始の昔から連綿と引き継がれてきた行為であるわけで、これを「唾棄すべきだ」という認識こそが新しい民主化の度合いを測るバロメーターである。
旧ソビエット連邦が崩壊したということは、この国の国民の大部分がこういう民主化の度合いの低い人たちで成り立っていたので、計画経済が上手に機能されなかったということだと思う。
如何なる地域に住む人々でも、自分の命は何物にも代えがたいので、生きんがためには如何なる知恵でもひねり出すわけで、それは究極の生きんがための自然の法則に近寄らざるを得ない。
中国の奥地の共産党員が腐敗に塗れているとしても、その地に住む彼らにしてみれば、生きんがためのミニマムの努力のはずである。
そこで世渡りの下手な人間は淘汰されてしまうことになるが、生きた人間が死ぬのは、それこそ大自然そのもので不思議でもなんでもない。
死んでいく人を憐れむのは、生き残った人間の傲慢以外の何ものでもない。
とはいうものの、これは中国の奥地の今までの姿であるが、これから先沿海部が限りない高度経済成長を果たして、科学技術が先進国並みに発達してくると、こういう奥地の人々がどういう生き方を選択するかが大問題になるであろう。
通信技術が発達し、テレビが各家庭に備わるようになり、携帯電話を誰でもが持てるようになると、中国の奥地に住む人々の意識も当然変わってくるわけで、それがどういう風に変わるか注視しなければならない。
中国が共産主義を基調とした国家である限り、民主化ということは多大な問題を抱え込むわけで、共産党の一党独裁体制で民主化ということは論理的に成り立たない。
中国の為政者の権力というのは、秦の始皇帝並みに絶大なものであるからして、彼らは中国の人民の意向というものを、鵜匠が鵜を操るように自由自在に操作できるのである。
反日デモを時には寛容に扱い、時には厳しく取り締まるというように、自由自在にコントロールできるわけで、そのことは国民、人民の側にいささかも民主化の理念が存在していないということである。
戦中の日本の軍国主義と同じように、全員が「右向け右」で一斉に右を向くのと同じなわけで、自分たちが政府の号令で踊らされているという認識の欠如そのものである。
彼らの為政者の論調というのは、まさしく黒を白と言い包めるに等しいような論理的矛盾を平気で押し付けてくる。
我々の認識からすれば、厚顔無恥そのものであるが、こういう傲慢な言辞でもいったん口から出したら最後、決してそれを引っ込めないわけで、昔、社会党の土井たか子女史が「駄目なものは駄目」といったように、論理的な説明が一切通用しない。
論理的に全く整合性の無いことでも、一旦言い出したら後に引かないわけで、嘘も百万回言い続ければ真実になってしまう。
こういう相手に対して「謙譲の美徳」を説いても、まさしく馬耳東風、馬の耳に念仏で終わってしまうのもいた仕方ないわけで、あるのは双方の潜在意識のズレのみで、それを合わせるということは多分不可能であろう。
そういう意味で、中国人というのは実に外交巧者であると思う。
日中戦争を見ても、彼らは日本と戦争しながら、つい先ほどまで西洋列強にさんざん食い物にされていたその相手、つまり西洋人の仲間に入り込んでしまっていたではないか。
これを見て私は、中国人というのは紅毛碧眼の西洋人には先天的な特質として心から卑屈になれるが、同じモンゴロイドの日本人には華夷秩序の概念から抜け切れず、彼らの潜在意識が許さないのだろうと想像している。
日本人と中国人という二つの民族を並べてみると、有史以来日本人は中国人からバカにされてきている。
華夷秩序そのものが既に日本をバカにした発想であるわけで、その上我々の国の首脳が、相手に対して「迷惑を掛けました」などと卑屈な謝罪をするに至っては、バカの上塗りでしかない。
我々の側がバカに徹している限り、両国間に波風は立たないということもあるかもしれないし、民族の誇りや名誉で国民が潤うわけでもない以上、バカに徹する政治・外交というのもある程度の効果が期待できるやもしれない。

「大日本帝国の時代」

2010-02-04 16:21:17 | Weblog
久しぶりに図書館に行って本を借りてきた。
他の用事にかこつけて出向いたので軽い本と思って、ヤングコーナーを覗いてみたら興味を引くものがあったので借りてきた。
「大日本帝国の時代」という本であったが、著者は由比正臣という人で、知っている人ではない。
奥付けを見ると、早稲田大学の日本近代史の教授ということになっているが、内容的には私どもの考えとはいささか食い違っている。
著者が、この本を書いた目的は、おそらく若い世代に日本の近現代史をわかりやすく説くという趣旨であろうと想像できる。
ところが、そういう潜在的な意図をこの本が秘めているとするならば、明らかに偏向していると思われても仕方がない。
明らかに戦後の日本の進歩的知識人の思考を歴然とトレースしている。
一言でいえば自虐史観そのものである。
明治以降の日本の歴史、我々の先輩諸氏の社会的活動の実績を、同胞の悪行という観点で貫き通している。
歴史の大局的な流れというのは誰が見てもそう大きな相違はないが、その大局的な流れの基底に流れている民族の潜在意識を、極悪非情なる振る舞いという視点で見ようとしている。
大衆は常に善で、統治する側の為政者はことごとくが悪人であるという思考で貫かれている。
戦後の我々はどうして自分たちの為政者そう悪しざまにののしるのであろう。
そういうことを教育者が若い世代に教えることの弊害というものを考えたことがないのであろうか。
確かに大東亜戦争、太平洋戦争に敗北したということは、我々の同胞の政治家の失政、軍人の作戦立案の失敗、その両方の愚昧さが相乗的に作用した結果であることは間違いないが、これも日本人という人間の生き様の対応であったわけで、個人のエゴでそうなったわけではない。
人と人の集まりとしての社会、国家というものは、確かに人の成す行為である限りにおいて、失敗とか失策・失政というのは十分にありうることだ。
だから明治以降の日本の政治・外交の中にも、失敗、失政、間違った統治というのは数限りなく存在することは論をまたない。
だからといって我々の同胞の為政者が極悪非情な無頼の輩であったわけではない。
一生懸命、住民のため、大衆のため、国民のため、国家のためと施策を講じても、結果として失敗であったということも数多くある。
日本は西洋列強よりも遅れて帝国主義に嵌り込んだということは万人が認めるところであるが、だからといって、我々の同胞の先輩諸氏が極悪非情な鬼や夜叉であったわけではない。
地球上に住むそれぞれの民族が、それぞれに自分の属する集団の利益を追求する過程において、19世紀から20世紀の初頭にかけては、帝国主義というものが全地球を支配していたわけで、西洋列強も、自分の属する社会の利益を追求し、我々もそれに追従しただけのことである。
ヨーロッパでも中国大陸でも、そこに人の集団がある限り、それは有史以来連綿と継続されてきたわけで、それを善悪、正義不正義、正しい正しくない、という価値観で眺めても意味をなさないことは言うまでもないではないか。
戦後の我が同胞の知識人の言い方によると、「この時期、日本はアジア諸国に対して多大な迷惑を掛けたので謝罪するにやぶさかではない」という論旨であるが、この言い分は人類の生存そのものを冒涜する言辞である。
人間の生存にとって、やられたらやり返す、盗られたら盗りかえす、足を踏まれたら踏み返す、殺されたら報復する、というのが人間の原始的な生存権そのものである。
これこそ人類全般に満遍なく浸透している基本的生存権なわけで、人類の歴史はこれの繰り返しに過ぎない。
時の為政者はいくら代が変わろうとも、基本的にはここに政治の成果が収斂されてしまうわけで、他者からそういう処遇を受けないように万全の体制を築くことが政治、統治、外交の最終目的のはずである。
隣り合う二つの勢力、隣接する二つの民族、接し合う二つの国家の間には、こういう自然権が自然発生的に湧き出て、人が寄り集まって社会を作ること自体、その存在そのものの中に内包した自然力の吸引関係である。
有能な為政者ならば、武力行使という暴力に頼ることなく言葉上の外交という手段で自らのグループの利益を推し量る。
人間の生存を俯瞰して眺めると、この世の人たるもの、武力行使を避けたいという願望は皆一様に持っているが、血を見ないことには素直に納得しないというのも厳然たる事実であって、人類は有史以来戦争を繰り返してきたわけである。
やられたらやり返す、盗られたら盗りかえす、殴られたら殴り返すということが地球上に住む人類の基本的生存権であることは間違いないが、人が自然の感情のままに左右されていては、それは何処まで行っても野蛮そのもので、人が「考える葦」であることから推し図って、人類というのは血を見なくとも事が収まる手法を考えてはいるが、相手がある以上こちらの一存でそれが成ることは極少ない。
いわば野蛮からの脱出であるが、要するに人は考えることによって自分たちの理想社会を思い描くようになったわけで、この理想社会に一歩でも近づくことが、人の生存にとって有意義なことだと思い至るようになったわけである。
それは理性であり、知性であり、理念であり、希望という名の絵に描いた餅の存在になったわけである。
絵に描いた餅を崇め奉ることが、人の在り方として極めて尊い存在と思うようになったわけで、そうなると野蛮な振る舞いから限りなく遠い位置に自分を置くことが理性的、あるいは知性的な存在であるかのように錯覚してしまったわけである。
ところが統治する側の当人は、そんな綺麗ごとに現を抜かしておれないわけで、統治者、為政者にしてみれば、配下の人間を如何に食わせるかだ大問題なわけで、食糧が不足しがちになれば、食料の確保に奔走しなければならないのは当然である。
そこで隣のテリトリーと如何に係わり合うかを考えねばならず、話し合いで解決するか、武力行使で糊塗を解決するか、思案のしどころとなるのである。
これが人類の歴史そのものであり、人類の生存そのものである。
こういう視点から日本の近代化を眺めれば、「日本がアジアに迷惑をかけた」などという論旨はあり得ないが、相手の立場からすれば、言論で以て日本の生存を脅かしているわけで、それは話し合いで自己の利益を追求していることである。
相手の立場からすれば、「日本が我々(アジア諸国)に多大な迷惑をかけたのだから謝罪せよ」という言い分は、武力行使ではない手法で以て、自己の利益追求を諮っているということである。
それに対して我々の同胞の中から「そうだ!そうだ!」という声が上がるということは、日本人でありながら相手国の国益に貢献している図である。
如何なる民族でも、如何なる国家でも、人の集団には統治するものとされるもの、支配する側とされる側という2重構造は避けられないわけで、統治する側は自国の社会の運用と利益を包括する責任がある。
だから統治者同士がお互いに了解し合えたとしても、統治されている側が必ずしもそれに納得するとは限らないわけで、それは我々の国の中でも同じである。
戦後の我々はアメリカ占領軍が成した民主化の中で、統治者でないものが言いたい放題の政府批判をしてもそれが許される体制の中で生かされているので、市井の教養人が言いたい放題のことを言い合っている。
私自身は教養人でないにもかかわらずその中の一人として好き勝手に言いたい放題のことを言っていることは十分承知しているが、今の我々の体制では、統治者でもないものが相手国の国益を擁護する発言をしても、それで祖国がひっくり返る心配もないので、こういう自由な雰囲気が蔓延している。
こういう国の中の国民の一人としては、まことにありがたい環境におかれているが、大事なことは、そういう国民の無責任な発言に対して統治者、為政者の側が安易に迎合することである。
それは戦後も65年もたつと、国民の過半数が大戦の経験を身を持って体験していない世代が多くなって、自分たちは本当にアジアで極悪非情な振る舞いをしてきたのだと信じ込んでしまう人が出てくることである。
先方も同じように代が変わっているが、彼らは国策として日本の政治や統治の失敗を後世に語り継いでいるので、間違った認識のままそれを真実として思い込んでいるので、それを外交の切り札にしてくるのである。
そのこと自体が既に言葉の戦争であるが、我々の側は、自分たちの歴史というものを後世にまともに教えておらず、自虐的な間違った歴史観を教えているので、相手の言い分に反論できないでいる。
この本もその意味で売国奴的な内容だと思う。
2、3日前(平成22年1月)に、日中における歴史認識の統一見解なるものの作成が新聞に掲載されていたが、こんなバカな話もない。
日本の歴史と中国の歴史は違って当然であって、それぞれの主権国家がそれぞれに自分たちの国の歴史を自分流に解釈するのは当然のことである。
それぞれの主権国家は、それぞれの国にとって「こうあるべきだ」という恣意的な思考で歴史を語るものであって、他の国の思惑を考慮して自国の歴史を綴るなどということは不可解千万なことである。
南京大虐殺の数字が、中国側は30万というし、日本側は5万から20万の間としているが、統計上の数字の違いなどそれこそ主権国家の主権にかかわることで、どちらが正しくてどちらが間違っているなどと議論したところで何の意味もない。
正確な数字など学問上で議論すればいいことであって、それは政治とは別のものである。
日中戦争でも、大東亜亜戦争でも、極東国際軍事法廷でも、朝鮮戦争でも、日中両国で解釈が同じになるなどということがあるわけないではないか。
中国側からみる視点と、日本側から見る視点は、同じ事件同じ事例でも、見方や解釈は違って当然であって、何故にそれを統一しなければならないのかということである。
ただ人間のやることは時代が変わってもそう大きな進化は無いように見える。
例えば、今の鳩山内閣の沖縄の普天間基地の移設問題でも、日米開戦の時の日米了解案の在り様と酷似しているわけで、過去13年かけて日米双方と地元て営々と築き上げてきた辺野古への移転案を、政権が変わったというだけで白紙に戻すという施策はまことに困ったことだと思う。
果たして鳩山首相に代替案があるのであろうか。
5月になって、本当にその代替案で収まるのであろうか。
日米という安全保障条約の締約国同士の約束事を、しかも練りに練った究極の妥協案を、ただたた八方美人的な人気取り政策の一環として、安易に変更できるものだろうか。
外交、あるいは政治、あるいは安全保障、あるいは国民の生存ということに対して、考え方が甘いのではなかろうか。
昨年の8月の選挙では、その前の自民党政権があまりにも不甲斐ないものであったので、国民の期待は民主党に流れたが、政権交替した後の有り様はどうにも不確実で危なかしい。
民主党は初めて政権に就いたので、紆余曲折があることはある程度いた仕方ないが、現政権に本当に日本丸を運営していく器量があるのであろうか。

『食べものは医薬・「医心方」にみる4千年の知恵』

2010-02-02 16:42:45 | Weblog
読む本が尽きて書棚を漁っていると片隅にこの本があった。
『食べものは医薬・「医心方」にみる4千年の知恵』
著者は槇佐知子。
この本も何時頃購入したものかさっぱり記憶にないが、ただはるか昔、現役のころ、車通勤していて、車の中でこの本の作者、槇佐知子さんのラジオでの話を聞いたことがかすかな記憶にある。
車の中で、我々が普通に食べている野菜の漢方的な効用の話を聞いて、俄然興味が湧き、その後この本を買い求めたに違いない。
人間が生きるということは、そのこと自体が人間の不思議であったように思えたものだ。
「医心方」そのものは日本人の著作となっているようだが、食に対する興味という意味からすれば、当然、中国文化の影響を受けているわけで、それを今日の日本人にも読める形に再編したのが槇佐知子という女性であった。
この本はその本の内容を斟酌してエッセイ風にまとめたもので、読み物としては軽いものだが、読んでいて実に楽しい。
人がものを食べる。その食べるものは意識するもしないにかかわらず、人間の体にはなにがしかの効用があるに違いない。
ただ腹が減ったから腹の中に何かを詰めればいいというものではない筈である。
地球上に住む人間は、地域によって、その生い立ちによって、食べるものはそれぞれに違っているが、人が口から食べものを体の中に入れる以上、それは人間の体にとって有用な働きがあるに違いない。
その意味からすれば、人間が食べれる物というのは何かしら体にとって良い成分を含有しているとみなしていいと思う。
我々日本人は米を常食としているが、西洋人はパンを常食としているわけで、米にしろパンにしろ、畑で出来たものをそのまま食べているわけではない。
我々が古の昔からよく言っているように、我々の常用している米は、食べるまでに八十八の手間がかかっているといわれている。だから作る人の事を考えて丁寧に感謝して食べよ、と戒められているが全くその通りだと思う。
同じことはパンについても言えているように思う。
二、三日前、家内のアッシーで近くのスーパーに行ったら、米の売り場の脇に、アワ、ヒエ、キビがガラスのケースに入れられて展示してあった。
物の本では、昔の日本の農民は米を作っていても米を食べることが出来ずにこういうものを食べていたとなっているので、そういうものの存在は知っていたが、実物にお目にかかったことがなかった。
この三種類の穀物は実に粒子が細かく、果たしてこれをどういう風にして食べるのか不可解であった。
昔の日本人がアワ、ヒエ、キビを栽培していたということは、水田でなくとも栽培できるから非常食用にそういうものを作っていたのであろうか。
ソバというのも、その実はじつに小さくて、しかも痩せた荒れ地で出来るが故に山奥で栽培され、その実を粉に挽いて、それを蕎麦というかたちで現代人は楽しんでいるが、もともとは痩せた土地の非常食という位置づけてあったのではないかと勝手に想像している。
米にしろ、麦にしろ、アワ、ヒエ、キビにしろ、人間が食物として摂取する部分は実に細やかというか、穂の先の実を食べているわけで、実に不経済のような気がしてならない。
人間の生存の歴史が正確に何万年かは知らないが、人間の経験則で、ある限られた植物の穂のみを食べてきたのであろう。
イネでも麦でも、幹の部分が食べられないということは、人間の歴史の経験則から如何に工夫しても食べられなかったということなのであろう。
イネでも麦でも、背丈約1mの幹の、先のほんの先っぽの部分のみを脱穀して食べているわけで、稲ぜんたい麦ぜんたいを考えると実に不経済に見えるが、その部分しか人間の体が受付なかったということなのであろう。
同じことがアワ、ヒエ、キビにも言えるわけで、あの米粒よりも小さな粒をかき集めて我々は食べていたわけで、本体の幹の部分は如何にしても食べることが不可能であったということなのであろう。
穀物に比べると野菜というのはそれこそ全体を丸ごと食べれるが、これがまた不思議なことに、野菜をいくら食べても、ご飯やパンの代わりにならないのも不思議でならない。
昨今ではダイエットの関係でベジタリアンと称して野菜を食べることが奨励されているが、かといって野菜だけを食べて穀物を一切摂らないとなると新たな弊害が出てくるわけで、人間の体というのは実に気難しい存在のようだ。
こうして改めて穀物というものを考えてみると、米にしろ小麦にしろ、穀物を作るということは実に大変な作業で、人間は自らの生存のために、もっと効率のいい穀物を開発できなかったのだろうか。
一本の稲の先に米粒が幾つ結実しているのだろう。
一本の小麦の幹に幾つの麦が結実しているのであろう。
しかもそれを取ってくるだけではまだ食べられないわけで、米ならば脱穀し、麦ならば粉に挽いてからでなければ食べられないわけで、その間のエネルギーの消費を考えると気が遠くなるような仕組みになっているではないか。
しかし、人間が米や麦を作るというのも実に不思議なことで、普通に作物というのは嫌地というものがあって、連作を嫌うものが多いが、米や麦という植物にはそれが全く無くて、毎年毎年同じところで同じように出来るというのも実に不思議なことだ。
こういう植物の習性を経験則から導き出したからこそ、人間はそれを常食としていたのであろうか。 
この本の標題となっている「食べものは医薬」という言葉は現実そのものだと思う。
穀物にしろ副食品のオカズにしろ、人間が口から入れる食物は、その全てが体のためにはなにがしかの効用を持ったものに違いない。
ただの水でさえ適材適所にタイミングよく与えれば立派に薬としての効用を示すものと考える。
この本は「医心方」という日本の医学書の古典から導き出されたエッセイで成り立っているが、そもそも漢方というものも掘り下げてみれば結構面白そうだ。
私は極めて合理的な生き方を好むたちで、古い言い伝えとか古典というものには興味を示さない部類の人間であるが、この本を読んでみると漢方というのも奥が深くと面白そうに見えてきた。
私は近代医学を信じており、蛇の干物だとか、猿の腰掛などというものはどうにも眉唾物にしか見えないが、それは漢方の一部であって、全体を明示しているわけではないので、近代医学とは別の世界があるように思えてきた。
考えてみれば、漢方薬というのは、人間が長い歴史を経た中で得た知恵であり知識であるわけで、ある意味で経験則の集大成ということも可能だと思う。
科学技術による近代科学は学問に裏打ちさた理論によって構築されてはいるが、その理論が未来を先取りしている部分も大いにあるわけで、その事はリスクを最初から内包しているということでもある。
漢方薬は人間の過去の経験を踏まえて、その経験則からこういう場合にはこれこれの対応があるということを示唆しているわけで、最初の見立てが正しければそれに対応する処方が自ずと判明する。
以前、NHKのテレビ番組で『チャングムの誓い』というのが放映されたが、これは朝鮮王朝の宮廷内の権力抗争を描いたストーリーであったが、それに登場する宮廷料理というのはそのまま漢方薬の話にも通じていた。
それによっても、人間は病に対峙する際、どの薬草をどういう風に処方すればどういう効果が得られるか、ということを事細かく記録していたわけで、それは近代医学とはまた別の人間の英知だと思う。
そういう意味でこのテレビドラマを注意して見ていたが、そういう思いで身の周りを見てみると、我々の日常生活の中にも薬草というのはいくらでも存在する。
薬草というと、深山幽谷に分け入って探さねば見つからない、という先入観が先に立つが、自分の身の回りを注意して見るといくらでも見つけられる。
我々の身の回りの雑草の大部分が薬草のような気がしてならない。
例えば、ドクダミという草は白い花を咲かせる可憐な雑草であるが、どういうわけか便所の脇などに生えるので、その周りの印象もさることながら草自体も強烈な匂いを発散させるので忌み嫌われているがこれが立派な漢方薬なのである。
私自身も幼少のころオデキが出来た時、これを揉んで患部に貼り付け、それをはがす時、膿の芯が残らないように慎重に慎重に痛みをこらえてゆっくりゆっくりはがした記憶がある。
あとには大きな穴があいたが、日にちが経つとその穴も自然に隆起してわからなくなった。
それと、薬草というわけではないが、菜種油を広口瓶に入れ、その中にムカデを入れておくと、これが傷の治療に極めて効果的で、生傷の絶えない頃よく傷口に塗ったものだ。
この本の中にもビワの木の効用が説かれていたが、私の友人が子供の病気の治療に使うということで我が家にビワの葉を取りに来たことがある。
気良く分け与えたものの、彼の持ち帰った葉はタイサンボクの葉っぱであった。
ビワの葉とタイサンボクの葉はよく似ていると言えば似ているので、効果があったのかもしれないが、要するに「病は気から」というわけで信ずれば治るということなのであろう。
漢方というのはことほど左様に、病気と薬草の関係を経験に照らして集めた結果であるに違いない。
近代的な医療というのは科学的な考察による論理的な思考で、病というものを説きあかそうと試みているのであろうが、漢方は逆に過去の人間の経験から病に対する対処を突きとめるという手法のようだ。
その意味から考えると、人間は死ぬまで何かを食べ続けるわけで、人が口から入れる全てのものが医薬と関わり合っているに違いない。
そう考えると、今、巷に出回っているスナック菓子というのはなんとも恐ろしい代物ということになる。
普通に食べている野菜や穀物というのは、その構成物質そのものが医薬の根源を形造って、人間の生活維持にそのまま直結しているが、スナック菓子の構成物質は果たしてどこまでそういう要素を含んでいるのか分かったものではない。
ただ口に入れた時の食感が一時的な欲求を満たしているにすぎず、医薬に通じるものが何もないとしたらその効果はいずれ表れてくるに違いない。
そういうものでも一時的なオヤツである間はさほど問題にすることもなかろうが、そればっかり食べているとなると大きな問題となるに違いない。

『零戦の真実』

2010-02-01 07:51:12 | Weblog
本棚の片隅に何時頃からかこの本が挟まっていた。
奥付けを見ると1992年となっているので、約20年近く前のものだということが分かる。
『零戦の真実』
著者は坂井三郎。
いわずもがな撃墜王である。
本人の言う戦果は64機ということだ。
しかし、零戦の搭乗員でよくもあの太平洋戦争を生き残ったものだと思う。
操縦術がそれだけ優れていたので、次から次へと押し寄せるピンチを上手にかわした結果だと想像するが、その結果そのものが彼の操縦術の優れたことを証明しているのかもしれない。
この本を読んでみると全編、海軍批判になっている。
彼の場合、戦争が終わるまで、いわゆる日本が終戦に至るまで、彼自身の階級は将校になれず下士官のままであったというところにも、彼の海軍批判の根があるようにも見える。
しかし、それが彼自身の怨嗟の気持であったとしても、日本海軍が結果として壊滅的な打撃を受け、実質終戦前に消滅してしまっていたという事実は、海軍そのものが批判されてもいた仕方ない。
目下評判になっているNHKの「坂の上の雲」では日露戦争が描かれているが、旧日本軍の官僚主義というのはすでにあの頃から我々の国、特に官僚の領域に燎原の漁火のように民族の潜在意識として広がっていたに違いない。
江戸時代を脱し、日本が近代化に向かう中で、あの時代においては官の主導ということは避けて通れなかったに違ない。
日本が西洋列強に伍して存立するためには、国が、国家が率先して、近代化の音頭取りをせねばならず、あらゆる面で官が主導権を握り、西洋列強に追いつき追い越せであらねばならなかったものと考える。
そういう背景がある中で、官吏は国民の上に立って民衆、大衆、下々の人々を引っ張っていかねばならなかったので、官吏はあらゆる面で優遇されていた。
我々の祖国が資源に乏しいことは、この時代の人々も今の人間と同じように認識していたわけで、それがため外へ外へと目が向いたのであろうが、それは当時の日本人の全てが無意識のうちにもっていた潜在的なものであったと思う。
江戸時代の日本は、正確な数字は知らないが300もの藩に分かれていたそうで、その一つ一つがある程度の自主権を持って藩を運営した。
今の言い方でいえば地方分権が確立されていたということになるが、明治政府になるとこれが全国的に統一されて、それこそ大日本帝国という一つにまとめ上げられた。
江戸時代の武士階級は全人口の数%に過ぎなかったがようだが、この武士階級というのは今の言葉で言うと行政と軍事を兼ね備えた立場であったが、明治という新体制になるとそれが根本的に変革されて行政を司るものと、軍事を担うものがきれいに分離されてしまった。
しかし、そのどちらも官吏であることは間違いがないわけで、江戸時代の階級制度になじんできた我々の先輩諸氏は、官吏を昔の武士的と同一のものと錯覚したに違ない。
当人も武士になったような気でおり、周囲も本人を武士として認識しており、新体制のもとではその上に「御上」という存在があったので、それまでは300もあったヒエラルキーが、国家としてたった一つのピラミッドに集約されてしまったわけである。
問題は、この時登場した官吏登用試験である。
古の中国の科挙の制度ではないが、それに類似した試験制度が大きく新国家に貢献して、広く人材を集めるために、それこそ四民平等の名目で以てその試験の窓口を広げたわけである。
このことは極めて民主的で、近代的、かつ開明的な手法ではあったが、これがその後の日本を悪しき軌跡に導いた諸悪の根源であったわけである。
官僚主義というのはこの時点で芽生えたわけで、昔の中国で科挙の試験に合格したものは、その後官吏として任官し、私利私欲をほしいままにした構図と全く同じことが日本でも起きたわけである。
公明正大に四民平等で門戸を開放した時、ペーパーチェックは安易に判定できるが、そこに集まった若者のモラル、ノブレスオブリージはどうして測るのかが大問題のはずである。
考えても見よ、16、7歳で試験をパスして、ある意味で軍人養成という職業訓練校でその職業にかかわる事柄を学んだとしても、世の中は日進月歩しているわけで、同じことが10年20年とそのままであるわけないではないか。
だから制度の細部は、その時その場の状況で小手先の変更はなされたが、官僚主義という根本にはいささかの反省も見られなかったわけである。
結果として、「井戸の中の蛙、大海を知らず」ということになったわけで、心すべきは、新しい明治政府が一刻も早く我が祖国を近代化しなければならないと考えたとき、それは当時の日本の民衆にとって大きな立身出世の上昇気流と映って、その雰囲気を逃してはならない考えた人たちの存在である。
こういう人たちはそれこそ村一番町一番の秀才であったわけで、秀才であるが故に時流をつかむ才にも恵まれて、上手にそれに便乗する術に長けていたという点である。
そうであるならば、自らの属する組織の内部矛盾、組織のメルトダウン、組織の内部崩壊にも気がつかねばならない筈である。
考えても見よ、16、7歳である職業に就いたものが、終世その道で精進を続けるということは個人プレーならばそれもありうるが、組織体の中でそんなことがあるとすれば、組織そのものが硬直化するのは当然のことではないか。
それに村一番町一番の秀才が気がつかないということはあり得ないわけで、彼らは気が付いていたにもかかわらず、自らそれを改革する勇気を持ち合わせていなかっただけである。
言い換えると、自らの保身のため、組織の矛盾を暴きだすことをしなかったというわけで、ここが官僚の官僚たる所以である。
昔からよく言われるように、軍隊の内部では自分たちの存在を外の社会と区別するために一般社会を「娑婆」と言い慣わしていた。
本来、軍の存在というのは、その娑婆を安泰ならしめるためにあるべきはずなのに、それを何処でどう間違えたのか知らないが、娑婆のために尽くすという本来の目的を忘れ、軍隊は軍隊のために存在するという風になってしまった。
自分たちで、「俺達の存在は俺自身のためにある」ということは流石に言いにくいので、そこで天皇陛下を担ぎ出して、「俺達の存在は天皇陛下のためにある」という言い方をすれば、日本人ならば皆納得せざるを得なかったということだ。
ならば天皇陛下のためにも負けるような作戦は断じて許されなかった筈であるが、そういう時は「戦争は時の運」といって上手に逃げるのである。
明治憲法を素直に読めば確かに日本の軍隊は天皇の軍隊であって、国民のものではなかったが、天皇の存在というのは日本国民の安寧と安泰に直結しているわけで、その事から考えて「天皇のため」ということは、「日本国民のため」と同意であり同義である。
何処の国でも陸軍士官学校や海軍兵学校というのは軍人のための職業訓練校である。
我々は今に至ってもそういう視点でこういう教育機関を見ておらず、東京大学や京都大学のようなアカデミックな存在と同等だと勘違いしている向きがあるが、こういう施設は明らかに実学の府であって、技術学校と見做さなければならない。
ここを卒業してそれぞれの任務に就くまではフレッシュマンとして新進気鋭だが、そこに長年い続けると環境に慣れ、自分が惰性に陥っていることに不感症となり、組織が内包する矛盾に新鮮な疑惑を持たなくなってしまう。
本人が如何に一生懸命努力しても結果が失敗ということはよくあることで、その時に如何に責任を取らせるかが組織としての存在価値の最も肝要な所であるが、ここで同じ同窓の先輩・後輩という情実が絡んできてシビアーな裁定がかすんでしまいがちである。
失敗したものは更迭して、新しい人に任せると同時に、失敗した当人には再チャレンジのチャンスを残してやることで組織そのものが活性化すると思うが、旧日本海軍を始めとする日本の官僚組織はそういう風には機能していなかった。
20世紀の戦争は完全に国家総力戦であって、関ヶ原の合戦のイメージでは語れないが、昭和の日本の軍人の中には、その認識を欠いた軍人が相当数いたように思う。
その意味で、私は、昭和の日本軍人は戦争の本質をいささかも理解していなかったと考えている。
基本的に国家総力戦ともなれば、資源の乏しい我々は最初から勝ち目はないわけで、その事を一番正確に認識すべきは帝国軍隊の軍首脳であってしかるべきである。
考えがここに至ると、もう完全に政治と軍事が一体化しているわけで、この場面で軍人が政治の主導権を握るとなれば、当然、非戦、避戦、先延ばしという方向に向かわなければならなった。
ここで議論が元に戻るわけで、軍人が官僚主義に陥り、国民がその軍人の実績を過大評価して、イケイケドンドンという雰囲気に酔いしびれたところに日本の悲劇があったわけである。
戦後の我々の反省の中では、悲劇の根源を全部何もかも軍人・軍部に覆い被せてしまって、国民は被害者というスタンスで歴史を捉えているが、国民の側にも一端の責任はあると思う。
その大きな根拠は、当時の国民が軍の行動を称賛して容認していた面にある。
確かにあの時代はものが言い難い時代であったが、それも結局は自分たちで自分たちの首を絞めた部分があるわけで、日本の人々の皆が皆、時の時流、潮流、バスに乗り遅れるな、という風潮の中にいたわけである。
軍縮に反対し、南京陥落に提灯行列で浮かれた、真珠湾攻撃で歓喜したのは国民の側であったではないか。
メデイアはメデイアで国威掲揚のために真偽も定かでない報道をし、軍部に都合の悪い報道は規制があったとは言うものの自主規制した部分もあったわけで、押し並べて戦争遂行に協力したのであって、それこそイケイケドンドンを煽りに煽っていたわけである。
この本では、日本人とアメリカ人の発想の違いについてはあまり詳しく掘り下げていないが、日米戦争の勝敗にはこれが大きく影響していると思う。
あの真珠湾攻撃の冒頭から、日本軍は戦艦を沈めて意気揚々と引き上げているが、あの場面で真珠湾という基地機能そのものを壊滅するという発想には思い立っていない。
この本の著者は、その件については少し触れているが、この発想の基底には、国家総力戦ではロジスティックが極めて重要な要因だという認識がないことには湧いてこない思考であって、そういうものの考え方が日本側には全くなかったということだ。
海の戦いならば、戦艦と戦艦の一騎打ちこそが海の男のロマンだという思考である。
大艦巨砲の典型的な思考そのままで、現代の戦争ではそれが時代遅れだ、という認識に至っていないというれっきとした証しである。
この本の中で著者は宮本武蔵の話を引用して説いている。
宮本武蔵は相手と果たし合いの約束を開始した時から戦闘開始を認識しているが、相手は果たし合いの場に来て対峙した時に初めて戦闘開始と認識していたので、そこが勝敗の分かれ目だと述べている。
これこそまさしく至言である。
国家総力戦であれば、宣戦布告をした時が戦闘開始の時ではなく、常日頃から敵状査察をして用意万端整えて、出来れば非戦、戦争回避を模索すべきだ、というのが国家総力戦の究極の姿だと思う。
武力行使をせずに自国の国益を推し進めることこそ政治、外交、軍事の最良の手法である。
武力行使を辞さない、避けられないという事態は、統治者にとって最低・最悪の政治、外交、軍事ということになる。
ところが、このことは統治される側の人々は案外受け入れ難く思っているわけで、政府は軟弱という感覚でとらえている。
為政者の真の意図を介することなく、煽りに煽るのがこれまたメデイアの使命でもあるわけで、こういうそれぞれの立場持ち場の思惑が輻輳するのが国家総力戦というものである。
ヒットラーやスターリンのような独裁者が自分勝手に好きなようにするものではないわけで、そういう思考を推し進め、あるいは推し測ることこそが戦争のプロ集団であるべきだが、我々の先輩諸氏は、そういうことには全く思いも至っていない。
陸軍士官学校や海軍兵学校が職業訓練校という認識すらなかったものと思う。
その上には陸軍大学とか海軍大学というのがあって、それが大学というからにはアカデミックなものかと言えば、これも職業訓練校の延長でしかないうわけで、これらの学校に入る手法が極めて民主的あるいは開明的で公明正大であったればこそ、その中でポピリズムが蔓延したわけで、一言で言い表せばノブレスオブリージの欠いた人間が組織のトップを占めてしまったということだ。
人が他人に対して威張る、権勢を振るう、権威を傘にする、地位を誇る、階級をこれ見よがしに示す、こういう行為をする人間は、人間として最低の人間であることは万人が認めるところであるが、本人のみは自分のしていることに気がつかない。
こういう行いをする人間は、自分自身にコンプレックスを持っているので、それをカモフラージュするために自我、本性、生まれつき引け目に思っていることの反対の行動に出るわけで、自分が他者に対して何一つコンプレックスを持っていないならば、他人の前で威張るなどという行為をしなくても済むはずである。
同じ海軍という組織の中で、階級が違うからと言って差別があってはならないのは当然のことであって、その事が海軍そのものが消滅するまで内側からその矛盾が指摘されないまま終わったということは一体どういうことなのであろう。
村一番町一番の秀才が集まった海軍兵学校の出身者の中から、その矛盾の指摘が出てこなかったということを一体どう考えたらいいのであろう。
海軍兵学校は究極の職業訓練校に過ぎなかった。
軍官僚という職業人を養成する機関に過ぎなかったわけであるが、それはそれで由とすべきだが、問題はその官僚の存在を如何に考えるかである。
官僚というのは如何なる国でも如何なる民族でも物を作るセクションではない。
あくまでも行政機関の延長として、国民のために奉仕をすべきセクションでありながら、自分たち自身のために様々な企画を立案し、それを実施させる官庁になってしまっていた。
陸軍省あるいは海軍省というのは行政の一環として戦争をしていたわけで、この時の言い分も、天皇のため、あるいは天皇の後ろにいる国民のためという言い分であったが、それは嘘であり虚言であった。
突き詰めて言えば、軍官僚の軍官僚のための戦争であったわけである。
軍の高級官僚、別の言い方をすれば軍の高級参謀たちは、自分たちの存在理由のために国の財産と国民の命を浪費しつくしていたわけで、天皇のために戦って敗れたとなれば、天皇に対して誠に申し訳ないことをしたわけで、自刃するのが当然である。
事実、自刃した将官も大勢いたが、それはそれで当然の事である。
軍官僚のトップが負けたからといって自刃するのは当然であるが、彼らの実績の巻き添え食った国民の存在はどう考えたらいいのであろう。
この本で著者が大いに憤慨していることに、海軍という大きな組織の中で、トップが下々の実情を全く知らないということに大きな憤慨を抱いている。
眼の前で、目に見える範囲では、非常に華麗に優雅に振舞うが、その裏側には組織崩壊の巨大な予兆が横たわっているという現実をトップは全く知らないままでいることの不安を訴えている。
こういうことは十分に察しが付く。
その根本のところには、士官と下士官という差別意識の存在だろうと思う。
組織、海軍のトップにとっては、下士官の存在を認めていないわけで、彼らを家畜並みにしか見ていないということだと思う。
これは極めて重要なことで、軍艦のトップが下士官を人と見做していなというのであれば、軍艦は艦長の思い描く運動はしきれない筈であって、軍艦が艦長の思い描くイメージ通りの運動をするということは、一重に下士官のたゆまぬ努力によってなされているわけで、それを忘れた艦長がいるとしたら大日本帝国海軍の消滅も当然の成り行きだといわなければならない。
そしてその通りの軌跡を歩んだということは、海軍兵学校を出た海軍士官は、船を動かす下士官の存在を忘れていたということに他ならない。
軍艦のトップ、いわゆる艦長たるべき人が、全乗組員を全部自分のチームの一員と認識していたとしたら、組織内の矛盾や不合理な扱いは綺麗に除去され、海軍の消滅などという屈辱的な結果など招致しなかったと思う。
一言でいえば、戦争の本質を知らない戦争のプロが、机上の空論で戦争を行ったところに、敗北の原因と大日本陸海軍の消滅の原因があったということだ。