ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「時代劇と風俗考証」

2010-02-15 07:25:59 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「時代劇と風俗考証」という本を読んだ。
正直に言ってまことに難しかった。
かろうじて面白く思ったのは、最後の部分のエピローグのこぼれ話のみであとは非常に難しい話であった。
この本の趣旨はテレビや映画の時代劇において、如何に時代考証を厳密に巡らせて、当時の状況を間違いなく再現するかというところにある。
その為には本物の知識がないことには実物に近づけないわけで、「本物はこれこれだ!」という論考である。
いよいよ春も近づいて雛祭りもまじかになってきたが、それが済むと5月の端午の節句で、武者人形が飾られる。
ところが、あのお雛様や武者人形の調度品にはそれぞれに名前がついているわけで、当然と言えば当然のことであるが、それを全部覚えようとするならば、壁に絵ときを張って日夜眺めながら覚えなければならない。
お雛様の衣装だって、その一つ一つに名前が付いているわけでだし、武者人形だって、その備品一つ一つに名前があるわけで、それを覚えようとしたら相当な努力が必要になる。
私のようにもう半分棺桶に足が入りかけた人間には、今更それを覚えようなどいう気は起きない。
考えても見よ、十二単衣の一枚一枚に名前があるわけだし、武者人形の身に付けている備品一つ一つに名前があるわけで、それが時代とともに変化しているとなると、時代劇を作るときに可能な限り本物に近づけようとする努力は大変なものだと思う。
その一つ一つの名前にそれぞれにそれを表す漢字があって、そういうものは総体的に一括りの知識として覚えなければならないので、とても私のマニュアル・コンピューターでは処理しきれない。
で、そういう漢字は飛ばして読むわけだが、すると幼稚園児が新聞を読むようなもので、まことに不甲斐ない。
しかし、平安時代の女性の洗髪の場面をテレビで再現することには失敗したとなっているが、そのことを思うとやはり不思議な気がする。
百人一首の絵札に描かれている長い髪の女性がどういう風に髪を洗ったのか、ということは非常に興味深い話になる。
もともと昔の人はそうたびたび風呂には入らなかったといわれてはいる。
それは洋の東西を問わず、やはり風呂に入るということは、贅沢な行為ということであったのだろう。
そうかと思うと、他の本では、江戸時代の女性は極めておおらかで、肌を人に見せてもあまり心の抵抗を感じていなかったと述べたものもあった。
これも考えてみれば十分納得の行く話で、人間はもともと裸で暮らしていたわけで、先祖返りをしたに過ぎないということになる。
女性の入浴に関して言えば、江戸時代の銭湯はもともと混浴であって、その頃は我々の羞恥心というものはさほど意識されていなかったようだ。
ところがこの混浴の風習が、文明開化を経た明治維新以降になると、外国人から見て「野蛮な行為だ」と指摘され、意識的に恥の概念が醸成されたわけで、有るべきものを隠すことが普遍化したのである。
羞恥心というもの、つまり公衆の面前で裸体を曝してはならないということが、御上の命令で普遍化したということで、それが新しいエチケットして定着したということなのであろう。
そう考えると、百人一首の絵札に描かれている女性の十二単衣という着物は、見せるためのファッションではなく、あくまでも保温のためのものではなかろうか。
百人一首の絵札には華麗な姿で描かれているので、我々はそれをビジュアル的に捉えて、人に見せるためのファッションと見做しているが、基本的には保温のためのファッションなのではなかろうか。
彼女たちの住んでいた家についてもこの本では考察されているが、寝殿作りといったところで、開けっ放しで、簾や屏風でプライバシーを獲得するといった見たところで、夏はともかく冬は寒風が吹きぬける寒い住まいだったに違いない。
そこに描かれている女性は、いづれも貴族の女性なので、労働をすることはなく12枚も重ねておれるであろうが、身を粉にして働かねばならない下々のものは、ああいう恰好とは無縁であったに違いない。
で、ここで私流に考えを深めると、あの時代の律令制のもとで、身分制度が厳しいことは解らないでもないが、その身分制度が一人一人の行動まで律するということは、どう考えたらいいのであろう。
つまり、登庁するときと、自宅でくつろぐ時にも、階級による統率から免れず、位階に従って立ち居振る舞いが管理されるということは、我々には極めて不可解なことに映る。
平安時代、室町時代というは、今ほど時代の推移が早くなくのんびりしていたので、そういう服装規定のようなくだらない話を延々と言い合いながら時を過ごしていたということなのであろうか。
雛飾りの中に牛車が飾られているのを見るが、あの牛車というのが日本ではあまり発達しなかたっというのだから面白い話だと思う。
しかも道路整備が整った洛中のみで使われて、洛外に出るときは輿を利用したという話は、非常に興味あるものであった。
私のイメージではどうしても西部劇の馬車を思い描いて、それとの比較にならざるを得ないが、そうなるとてんで次元の違う話になってしまう。
西部劇の馬車は速さが生命であるが、我が方の牛車は、何処までいっても社会的なステータスであって、持っていることを誇示するだけのものであったようだ。
実用性というのは端から除外されている。
位階による行動規範の管理から、実用性の微塵も見受けられない牛車の使い方に至るまで、これらは全て形式主義そのもので、実用性というものが全く存在していないということである。
これを21世紀の我々はどう考えたらいいんであろう。
そういう無意味なことこそ文明であり文化が熟成したということなのであろうか。
歴史の研究という場合でも、研究者の視点は王朝文化や為政者の意向のみを追い求めて、誰それがこう言ったああ言ったという話が主流であって、その間に生産方式が如何に合理化に向かったかという話はマイナーな研究と見做されている。
基本的に、政治の研究、歴史の研究ということは、誰それがこう言ったああ言ったという話に尽きるわけで、その話を裏付ける書面が見つかったときは鬼の首でも取ったように優越感に浸るわけである。
本来、歴史というものが人間の生き様を問うものであるとするならば、生活様式の合理性の進化を探らなければならないと思う。
寝殿作りという壁のない柱だけの家の中で、寒風吹きすさぶ中、簾や衝立でプライバシーを保護する不便な生活から如何に脱出したかの話の方が明らかに面白いと思う。
我々は日々の生活の中で、不便だなと思う瞬間に次なる合理化のアイデアが頭の中をよぎるわけで、その全部が具現化するわけではないが、百の中の一つ千の中の一つが具現化することによって、少しずつ進歩してきたものを思う。
この本の中には出てこないが、私は、我々日本人の正座ということに非常に興味がある。
この正座という座り方は一体何時頃から出てきたものであろう。
この本には平安時代から室町時代までは女性は、片足を立てた胡坐座りをしていたようで、『チャングムの誓い』に登場する昔の朝鮮の女性と同じであるかのように記されている。
正座という座り方は、ある意味で拷問に近いものを感じるのは私だけだろうか。
私は個人的に正座を長い時間することが出来ない。
平安朝時代の我々の同胞も、昔の朝鮮のように男も女も胡坐座りであったようで、人間の姿勢としてはこの方がよほど無理がないように思える。
日本で何時頃からこういう正座が人々の間に広まったか甚だ不思議であるが、この習慣の推移はただ単に行儀の善し悪しだけではなく、他の要因が潜んでいるような気がしてならない。
確かに正座の方が端正に見えるし、品良く見えるけれども、それは衣服がだんだん短くなると、素足というか脛を隠す必要からこういう姿勢が普遍化したのだろうか。
これはあくまでも私の勝手な推測にすぎないが、平安時代の貴族は、長い裾の着物を着ていたわけで、その中では胡坐座りしていてもさほど品位が問われることもなかったに違いない。
そもそも胡坐座りから正座に移行するときには大きな価値観の変革があったに違いない。
人々の美意識が大きく変化したのではなかろうか。
現代の我々の生活は極めて西洋風に近い生活をしており、家の中でも椅子の生活が多くなったので、正座をする機会というのは大幅に少なくなった。
しかし、昔も今も正座が拷問に近い姿勢ということには変わりないと思うが、それに慣れた人は何の苦痛も感じないだけのことで、人間の自然の姿にとっては極めて異端なポーズではないかと思う。
華道や茶道の世界では今でも正座が基本のようであるが、その中には合理性というものは微塵も存在せず、ただただ形式美のみを追い求めているにすぎない。
文化というものは、ことほど左様に日常生活の中で屁のツッパリにもならないことを、ああでもないこうでもないと言い募って暇をつぶすことなのであろうか。