ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「大日本帝国の時代」

2010-02-04 16:21:17 | Weblog
久しぶりに図書館に行って本を借りてきた。
他の用事にかこつけて出向いたので軽い本と思って、ヤングコーナーを覗いてみたら興味を引くものがあったので借りてきた。
「大日本帝国の時代」という本であったが、著者は由比正臣という人で、知っている人ではない。
奥付けを見ると、早稲田大学の日本近代史の教授ということになっているが、内容的には私どもの考えとはいささか食い違っている。
著者が、この本を書いた目的は、おそらく若い世代に日本の近現代史をわかりやすく説くという趣旨であろうと想像できる。
ところが、そういう潜在的な意図をこの本が秘めているとするならば、明らかに偏向していると思われても仕方がない。
明らかに戦後の日本の進歩的知識人の思考を歴然とトレースしている。
一言でいえば自虐史観そのものである。
明治以降の日本の歴史、我々の先輩諸氏の社会的活動の実績を、同胞の悪行という観点で貫き通している。
歴史の大局的な流れというのは誰が見てもそう大きな相違はないが、その大局的な流れの基底に流れている民族の潜在意識を、極悪非情なる振る舞いという視点で見ようとしている。
大衆は常に善で、統治する側の為政者はことごとくが悪人であるという思考で貫かれている。
戦後の我々はどうして自分たちの為政者そう悪しざまにののしるのであろう。
そういうことを教育者が若い世代に教えることの弊害というものを考えたことがないのであろうか。
確かに大東亜戦争、太平洋戦争に敗北したということは、我々の同胞の政治家の失政、軍人の作戦立案の失敗、その両方の愚昧さが相乗的に作用した結果であることは間違いないが、これも日本人という人間の生き様の対応であったわけで、個人のエゴでそうなったわけではない。
人と人の集まりとしての社会、国家というものは、確かに人の成す行為である限りにおいて、失敗とか失策・失政というのは十分にありうることだ。
だから明治以降の日本の政治・外交の中にも、失敗、失政、間違った統治というのは数限りなく存在することは論をまたない。
だからといって我々の同胞の為政者が極悪非情な無頼の輩であったわけではない。
一生懸命、住民のため、大衆のため、国民のため、国家のためと施策を講じても、結果として失敗であったということも数多くある。
日本は西洋列強よりも遅れて帝国主義に嵌り込んだということは万人が認めるところであるが、だからといって、我々の同胞の先輩諸氏が極悪非情な鬼や夜叉であったわけではない。
地球上に住むそれぞれの民族が、それぞれに自分の属する集団の利益を追求する過程において、19世紀から20世紀の初頭にかけては、帝国主義というものが全地球を支配していたわけで、西洋列強も、自分の属する社会の利益を追求し、我々もそれに追従しただけのことである。
ヨーロッパでも中国大陸でも、そこに人の集団がある限り、それは有史以来連綿と継続されてきたわけで、それを善悪、正義不正義、正しい正しくない、という価値観で眺めても意味をなさないことは言うまでもないではないか。
戦後の我が同胞の知識人の言い方によると、「この時期、日本はアジア諸国に対して多大な迷惑を掛けたので謝罪するにやぶさかではない」という論旨であるが、この言い分は人類の生存そのものを冒涜する言辞である。
人間の生存にとって、やられたらやり返す、盗られたら盗りかえす、足を踏まれたら踏み返す、殺されたら報復する、というのが人間の原始的な生存権そのものである。
これこそ人類全般に満遍なく浸透している基本的生存権なわけで、人類の歴史はこれの繰り返しに過ぎない。
時の為政者はいくら代が変わろうとも、基本的にはここに政治の成果が収斂されてしまうわけで、他者からそういう処遇を受けないように万全の体制を築くことが政治、統治、外交の最終目的のはずである。
隣り合う二つの勢力、隣接する二つの民族、接し合う二つの国家の間には、こういう自然権が自然発生的に湧き出て、人が寄り集まって社会を作ること自体、その存在そのものの中に内包した自然力の吸引関係である。
有能な為政者ならば、武力行使という暴力に頼ることなく言葉上の外交という手段で自らのグループの利益を推し量る。
人間の生存を俯瞰して眺めると、この世の人たるもの、武力行使を避けたいという願望は皆一様に持っているが、血を見ないことには素直に納得しないというのも厳然たる事実であって、人類は有史以来戦争を繰り返してきたわけである。
やられたらやり返す、盗られたら盗りかえす、殴られたら殴り返すということが地球上に住む人類の基本的生存権であることは間違いないが、人が自然の感情のままに左右されていては、それは何処まで行っても野蛮そのもので、人が「考える葦」であることから推し図って、人類というのは血を見なくとも事が収まる手法を考えてはいるが、相手がある以上こちらの一存でそれが成ることは極少ない。
いわば野蛮からの脱出であるが、要するに人は考えることによって自分たちの理想社会を思い描くようになったわけで、この理想社会に一歩でも近づくことが、人の生存にとって有意義なことだと思い至るようになったわけである。
それは理性であり、知性であり、理念であり、希望という名の絵に描いた餅の存在になったわけである。
絵に描いた餅を崇め奉ることが、人の在り方として極めて尊い存在と思うようになったわけで、そうなると野蛮な振る舞いから限りなく遠い位置に自分を置くことが理性的、あるいは知性的な存在であるかのように錯覚してしまったわけである。
ところが統治する側の当人は、そんな綺麗ごとに現を抜かしておれないわけで、統治者、為政者にしてみれば、配下の人間を如何に食わせるかだ大問題なわけで、食糧が不足しがちになれば、食料の確保に奔走しなければならないのは当然である。
そこで隣のテリトリーと如何に係わり合うかを考えねばならず、話し合いで解決するか、武力行使で糊塗を解決するか、思案のしどころとなるのである。
これが人類の歴史そのものであり、人類の生存そのものである。
こういう視点から日本の近代化を眺めれば、「日本がアジアに迷惑をかけた」などという論旨はあり得ないが、相手の立場からすれば、言論で以て日本の生存を脅かしているわけで、それは話し合いで自己の利益を追求していることである。
相手の立場からすれば、「日本が我々(アジア諸国)に多大な迷惑をかけたのだから謝罪せよ」という言い分は、武力行使ではない手法で以て、自己の利益追求を諮っているということである。
それに対して我々の同胞の中から「そうだ!そうだ!」という声が上がるということは、日本人でありながら相手国の国益に貢献している図である。
如何なる民族でも、如何なる国家でも、人の集団には統治するものとされるもの、支配する側とされる側という2重構造は避けられないわけで、統治する側は自国の社会の運用と利益を包括する責任がある。
だから統治者同士がお互いに了解し合えたとしても、統治されている側が必ずしもそれに納得するとは限らないわけで、それは我々の国の中でも同じである。
戦後の我々はアメリカ占領軍が成した民主化の中で、統治者でないものが言いたい放題の政府批判をしてもそれが許される体制の中で生かされているので、市井の教養人が言いたい放題のことを言い合っている。
私自身は教養人でないにもかかわらずその中の一人として好き勝手に言いたい放題のことを言っていることは十分承知しているが、今の我々の体制では、統治者でもないものが相手国の国益を擁護する発言をしても、それで祖国がひっくり返る心配もないので、こういう自由な雰囲気が蔓延している。
こういう国の中の国民の一人としては、まことにありがたい環境におかれているが、大事なことは、そういう国民の無責任な発言に対して統治者、為政者の側が安易に迎合することである。
それは戦後も65年もたつと、国民の過半数が大戦の経験を身を持って体験していない世代が多くなって、自分たちは本当にアジアで極悪非情な振る舞いをしてきたのだと信じ込んでしまう人が出てくることである。
先方も同じように代が変わっているが、彼らは国策として日本の政治や統治の失敗を後世に語り継いでいるので、間違った認識のままそれを真実として思い込んでいるので、それを外交の切り札にしてくるのである。
そのこと自体が既に言葉の戦争であるが、我々の側は、自分たちの歴史というものを後世にまともに教えておらず、自虐的な間違った歴史観を教えているので、相手の言い分に反論できないでいる。
この本もその意味で売国奴的な内容だと思う。
2、3日前(平成22年1月)に、日中における歴史認識の統一見解なるものの作成が新聞に掲載されていたが、こんなバカな話もない。
日本の歴史と中国の歴史は違って当然であって、それぞれの主権国家がそれぞれに自分たちの国の歴史を自分流に解釈するのは当然のことである。
それぞれの主権国家は、それぞれの国にとって「こうあるべきだ」という恣意的な思考で歴史を語るものであって、他の国の思惑を考慮して自国の歴史を綴るなどということは不可解千万なことである。
南京大虐殺の数字が、中国側は30万というし、日本側は5万から20万の間としているが、統計上の数字の違いなどそれこそ主権国家の主権にかかわることで、どちらが正しくてどちらが間違っているなどと議論したところで何の意味もない。
正確な数字など学問上で議論すればいいことであって、それは政治とは別のものである。
日中戦争でも、大東亜亜戦争でも、極東国際軍事法廷でも、朝鮮戦争でも、日中両国で解釈が同じになるなどということがあるわけないではないか。
中国側からみる視点と、日本側から見る視点は、同じ事件同じ事例でも、見方や解釈は違って当然であって、何故にそれを統一しなければならないのかということである。
ただ人間のやることは時代が変わってもそう大きな進化は無いように見える。
例えば、今の鳩山内閣の沖縄の普天間基地の移設問題でも、日米開戦の時の日米了解案の在り様と酷似しているわけで、過去13年かけて日米双方と地元て営々と築き上げてきた辺野古への移転案を、政権が変わったというだけで白紙に戻すという施策はまことに困ったことだと思う。
果たして鳩山首相に代替案があるのであろうか。
5月になって、本当にその代替案で収まるのであろうか。
日米という安全保障条約の締約国同士の約束事を、しかも練りに練った究極の妥協案を、ただたた八方美人的な人気取り政策の一環として、安易に変更できるものだろうか。
外交、あるいは政治、あるいは安全保障、あるいは国民の生存ということに対して、考え方が甘いのではなかろうか。
昨年の8月の選挙では、その前の自民党政権があまりにも不甲斐ないものであったので、国民の期待は民主党に流れたが、政権交替した後の有り様はどうにも不確実で危なかしい。
民主党は初めて政権に就いたので、紆余曲折があることはある程度いた仕方ないが、現政権に本当に日本丸を運営していく器量があるのであろうか。


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