ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『零戦の真実』

2010-02-01 07:51:12 | Weblog
本棚の片隅に何時頃からかこの本が挟まっていた。
奥付けを見ると1992年となっているので、約20年近く前のものだということが分かる。
『零戦の真実』
著者は坂井三郎。
いわずもがな撃墜王である。
本人の言う戦果は64機ということだ。
しかし、零戦の搭乗員でよくもあの太平洋戦争を生き残ったものだと思う。
操縦術がそれだけ優れていたので、次から次へと押し寄せるピンチを上手にかわした結果だと想像するが、その結果そのものが彼の操縦術の優れたことを証明しているのかもしれない。
この本を読んでみると全編、海軍批判になっている。
彼の場合、戦争が終わるまで、いわゆる日本が終戦に至るまで、彼自身の階級は将校になれず下士官のままであったというところにも、彼の海軍批判の根があるようにも見える。
しかし、それが彼自身の怨嗟の気持であったとしても、日本海軍が結果として壊滅的な打撃を受け、実質終戦前に消滅してしまっていたという事実は、海軍そのものが批判されてもいた仕方ない。
目下評判になっているNHKの「坂の上の雲」では日露戦争が描かれているが、旧日本軍の官僚主義というのはすでにあの頃から我々の国、特に官僚の領域に燎原の漁火のように民族の潜在意識として広がっていたに違いない。
江戸時代を脱し、日本が近代化に向かう中で、あの時代においては官の主導ということは避けて通れなかったに違ない。
日本が西洋列強に伍して存立するためには、国が、国家が率先して、近代化の音頭取りをせねばならず、あらゆる面で官が主導権を握り、西洋列強に追いつき追い越せであらねばならなかったものと考える。
そういう背景がある中で、官吏は国民の上に立って民衆、大衆、下々の人々を引っ張っていかねばならなかったので、官吏はあらゆる面で優遇されていた。
我々の祖国が資源に乏しいことは、この時代の人々も今の人間と同じように認識していたわけで、それがため外へ外へと目が向いたのであろうが、それは当時の日本人の全てが無意識のうちにもっていた潜在的なものであったと思う。
江戸時代の日本は、正確な数字は知らないが300もの藩に分かれていたそうで、その一つ一つがある程度の自主権を持って藩を運営した。
今の言い方でいえば地方分権が確立されていたということになるが、明治政府になるとこれが全国的に統一されて、それこそ大日本帝国という一つにまとめ上げられた。
江戸時代の武士階級は全人口の数%に過ぎなかったがようだが、この武士階級というのは今の言葉で言うと行政と軍事を兼ね備えた立場であったが、明治という新体制になるとそれが根本的に変革されて行政を司るものと、軍事を担うものがきれいに分離されてしまった。
しかし、そのどちらも官吏であることは間違いがないわけで、江戸時代の階級制度になじんできた我々の先輩諸氏は、官吏を昔の武士的と同一のものと錯覚したに違ない。
当人も武士になったような気でおり、周囲も本人を武士として認識しており、新体制のもとではその上に「御上」という存在があったので、それまでは300もあったヒエラルキーが、国家としてたった一つのピラミッドに集約されてしまったわけである。
問題は、この時登場した官吏登用試験である。
古の中国の科挙の制度ではないが、それに類似した試験制度が大きく新国家に貢献して、広く人材を集めるために、それこそ四民平等の名目で以てその試験の窓口を広げたわけである。
このことは極めて民主的で、近代的、かつ開明的な手法ではあったが、これがその後の日本を悪しき軌跡に導いた諸悪の根源であったわけである。
官僚主義というのはこの時点で芽生えたわけで、昔の中国で科挙の試験に合格したものは、その後官吏として任官し、私利私欲をほしいままにした構図と全く同じことが日本でも起きたわけである。
公明正大に四民平等で門戸を開放した時、ペーパーチェックは安易に判定できるが、そこに集まった若者のモラル、ノブレスオブリージはどうして測るのかが大問題のはずである。
考えても見よ、16、7歳で試験をパスして、ある意味で軍人養成という職業訓練校でその職業にかかわる事柄を学んだとしても、世の中は日進月歩しているわけで、同じことが10年20年とそのままであるわけないではないか。
だから制度の細部は、その時その場の状況で小手先の変更はなされたが、官僚主義という根本にはいささかの反省も見られなかったわけである。
結果として、「井戸の中の蛙、大海を知らず」ということになったわけで、心すべきは、新しい明治政府が一刻も早く我が祖国を近代化しなければならないと考えたとき、それは当時の日本の民衆にとって大きな立身出世の上昇気流と映って、その雰囲気を逃してはならない考えた人たちの存在である。
こういう人たちはそれこそ村一番町一番の秀才であったわけで、秀才であるが故に時流をつかむ才にも恵まれて、上手にそれに便乗する術に長けていたという点である。
そうであるならば、自らの属する組織の内部矛盾、組織のメルトダウン、組織の内部崩壊にも気がつかねばならない筈である。
考えても見よ、16、7歳である職業に就いたものが、終世その道で精進を続けるということは個人プレーならばそれもありうるが、組織体の中でそんなことがあるとすれば、組織そのものが硬直化するのは当然のことではないか。
それに村一番町一番の秀才が気がつかないということはあり得ないわけで、彼らは気が付いていたにもかかわらず、自らそれを改革する勇気を持ち合わせていなかっただけである。
言い換えると、自らの保身のため、組織の矛盾を暴きだすことをしなかったというわけで、ここが官僚の官僚たる所以である。
昔からよく言われるように、軍隊の内部では自分たちの存在を外の社会と区別するために一般社会を「娑婆」と言い慣わしていた。
本来、軍の存在というのは、その娑婆を安泰ならしめるためにあるべきはずなのに、それを何処でどう間違えたのか知らないが、娑婆のために尽くすという本来の目的を忘れ、軍隊は軍隊のために存在するという風になってしまった。
自分たちで、「俺達の存在は俺自身のためにある」ということは流石に言いにくいので、そこで天皇陛下を担ぎ出して、「俺達の存在は天皇陛下のためにある」という言い方をすれば、日本人ならば皆納得せざるを得なかったということだ。
ならば天皇陛下のためにも負けるような作戦は断じて許されなかった筈であるが、そういう時は「戦争は時の運」といって上手に逃げるのである。
明治憲法を素直に読めば確かに日本の軍隊は天皇の軍隊であって、国民のものではなかったが、天皇の存在というのは日本国民の安寧と安泰に直結しているわけで、その事から考えて「天皇のため」ということは、「日本国民のため」と同意であり同義である。
何処の国でも陸軍士官学校や海軍兵学校というのは軍人のための職業訓練校である。
我々は今に至ってもそういう視点でこういう教育機関を見ておらず、東京大学や京都大学のようなアカデミックな存在と同等だと勘違いしている向きがあるが、こういう施設は明らかに実学の府であって、技術学校と見做さなければならない。
ここを卒業してそれぞれの任務に就くまではフレッシュマンとして新進気鋭だが、そこに長年い続けると環境に慣れ、自分が惰性に陥っていることに不感症となり、組織が内包する矛盾に新鮮な疑惑を持たなくなってしまう。
本人が如何に一生懸命努力しても結果が失敗ということはよくあることで、その時に如何に責任を取らせるかが組織としての存在価値の最も肝要な所であるが、ここで同じ同窓の先輩・後輩という情実が絡んできてシビアーな裁定がかすんでしまいがちである。
失敗したものは更迭して、新しい人に任せると同時に、失敗した当人には再チャレンジのチャンスを残してやることで組織そのものが活性化すると思うが、旧日本海軍を始めとする日本の官僚組織はそういう風には機能していなかった。
20世紀の戦争は完全に国家総力戦であって、関ヶ原の合戦のイメージでは語れないが、昭和の日本の軍人の中には、その認識を欠いた軍人が相当数いたように思う。
その意味で、私は、昭和の日本軍人は戦争の本質をいささかも理解していなかったと考えている。
基本的に国家総力戦ともなれば、資源の乏しい我々は最初から勝ち目はないわけで、その事を一番正確に認識すべきは帝国軍隊の軍首脳であってしかるべきである。
考えがここに至ると、もう完全に政治と軍事が一体化しているわけで、この場面で軍人が政治の主導権を握るとなれば、当然、非戦、避戦、先延ばしという方向に向かわなければならなった。
ここで議論が元に戻るわけで、軍人が官僚主義に陥り、国民がその軍人の実績を過大評価して、イケイケドンドンという雰囲気に酔いしびれたところに日本の悲劇があったわけである。
戦後の我々の反省の中では、悲劇の根源を全部何もかも軍人・軍部に覆い被せてしまって、国民は被害者というスタンスで歴史を捉えているが、国民の側にも一端の責任はあると思う。
その大きな根拠は、当時の国民が軍の行動を称賛して容認していた面にある。
確かにあの時代はものが言い難い時代であったが、それも結局は自分たちで自分たちの首を絞めた部分があるわけで、日本の人々の皆が皆、時の時流、潮流、バスに乗り遅れるな、という風潮の中にいたわけである。
軍縮に反対し、南京陥落に提灯行列で浮かれた、真珠湾攻撃で歓喜したのは国民の側であったではないか。
メデイアはメデイアで国威掲揚のために真偽も定かでない報道をし、軍部に都合の悪い報道は規制があったとは言うものの自主規制した部分もあったわけで、押し並べて戦争遂行に協力したのであって、それこそイケイケドンドンを煽りに煽っていたわけである。
この本では、日本人とアメリカ人の発想の違いについてはあまり詳しく掘り下げていないが、日米戦争の勝敗にはこれが大きく影響していると思う。
あの真珠湾攻撃の冒頭から、日本軍は戦艦を沈めて意気揚々と引き上げているが、あの場面で真珠湾という基地機能そのものを壊滅するという発想には思い立っていない。
この本の著者は、その件については少し触れているが、この発想の基底には、国家総力戦ではロジスティックが極めて重要な要因だという認識がないことには湧いてこない思考であって、そういうものの考え方が日本側には全くなかったということだ。
海の戦いならば、戦艦と戦艦の一騎打ちこそが海の男のロマンだという思考である。
大艦巨砲の典型的な思考そのままで、現代の戦争ではそれが時代遅れだ、という認識に至っていないというれっきとした証しである。
この本の中で著者は宮本武蔵の話を引用して説いている。
宮本武蔵は相手と果たし合いの約束を開始した時から戦闘開始を認識しているが、相手は果たし合いの場に来て対峙した時に初めて戦闘開始と認識していたので、そこが勝敗の分かれ目だと述べている。
これこそまさしく至言である。
国家総力戦であれば、宣戦布告をした時が戦闘開始の時ではなく、常日頃から敵状査察をして用意万端整えて、出来れば非戦、戦争回避を模索すべきだ、というのが国家総力戦の究極の姿だと思う。
武力行使をせずに自国の国益を推し進めることこそ政治、外交、軍事の最良の手法である。
武力行使を辞さない、避けられないという事態は、統治者にとって最低・最悪の政治、外交、軍事ということになる。
ところが、このことは統治される側の人々は案外受け入れ難く思っているわけで、政府は軟弱という感覚でとらえている。
為政者の真の意図を介することなく、煽りに煽るのがこれまたメデイアの使命でもあるわけで、こういうそれぞれの立場持ち場の思惑が輻輳するのが国家総力戦というものである。
ヒットラーやスターリンのような独裁者が自分勝手に好きなようにするものではないわけで、そういう思考を推し進め、あるいは推し測ることこそが戦争のプロ集団であるべきだが、我々の先輩諸氏は、そういうことには全く思いも至っていない。
陸軍士官学校や海軍兵学校が職業訓練校という認識すらなかったものと思う。
その上には陸軍大学とか海軍大学というのがあって、それが大学というからにはアカデミックなものかと言えば、これも職業訓練校の延長でしかないうわけで、これらの学校に入る手法が極めて民主的あるいは開明的で公明正大であったればこそ、その中でポピリズムが蔓延したわけで、一言で言い表せばノブレスオブリージの欠いた人間が組織のトップを占めてしまったということだ。
人が他人に対して威張る、権勢を振るう、権威を傘にする、地位を誇る、階級をこれ見よがしに示す、こういう行為をする人間は、人間として最低の人間であることは万人が認めるところであるが、本人のみは自分のしていることに気がつかない。
こういう行いをする人間は、自分自身にコンプレックスを持っているので、それをカモフラージュするために自我、本性、生まれつき引け目に思っていることの反対の行動に出るわけで、自分が他者に対して何一つコンプレックスを持っていないならば、他人の前で威張るなどという行為をしなくても済むはずである。
同じ海軍という組織の中で、階級が違うからと言って差別があってはならないのは当然のことであって、その事が海軍そのものが消滅するまで内側からその矛盾が指摘されないまま終わったということは一体どういうことなのであろう。
村一番町一番の秀才が集まった海軍兵学校の出身者の中から、その矛盾の指摘が出てこなかったということを一体どう考えたらいいのであろう。
海軍兵学校は究極の職業訓練校に過ぎなかった。
軍官僚という職業人を養成する機関に過ぎなかったわけであるが、それはそれで由とすべきだが、問題はその官僚の存在を如何に考えるかである。
官僚というのは如何なる国でも如何なる民族でも物を作るセクションではない。
あくまでも行政機関の延長として、国民のために奉仕をすべきセクションでありながら、自分たち自身のために様々な企画を立案し、それを実施させる官庁になってしまっていた。
陸軍省あるいは海軍省というのは行政の一環として戦争をしていたわけで、この時の言い分も、天皇のため、あるいは天皇の後ろにいる国民のためという言い分であったが、それは嘘であり虚言であった。
突き詰めて言えば、軍官僚の軍官僚のための戦争であったわけである。
軍の高級官僚、別の言い方をすれば軍の高級参謀たちは、自分たちの存在理由のために国の財産と国民の命を浪費しつくしていたわけで、天皇のために戦って敗れたとなれば、天皇に対して誠に申し訳ないことをしたわけで、自刃するのが当然である。
事実、自刃した将官も大勢いたが、それはそれで当然の事である。
軍官僚のトップが負けたからといって自刃するのは当然であるが、彼らの実績の巻き添え食った国民の存在はどう考えたらいいのであろう。
この本で著者が大いに憤慨していることに、海軍という大きな組織の中で、トップが下々の実情を全く知らないということに大きな憤慨を抱いている。
眼の前で、目に見える範囲では、非常に華麗に優雅に振舞うが、その裏側には組織崩壊の巨大な予兆が横たわっているという現実をトップは全く知らないままでいることの不安を訴えている。
こういうことは十分に察しが付く。
その根本のところには、士官と下士官という差別意識の存在だろうと思う。
組織、海軍のトップにとっては、下士官の存在を認めていないわけで、彼らを家畜並みにしか見ていないということだと思う。
これは極めて重要なことで、軍艦のトップが下士官を人と見做していなというのであれば、軍艦は艦長の思い描く運動はしきれない筈であって、軍艦が艦長の思い描くイメージ通りの運動をするということは、一重に下士官のたゆまぬ努力によってなされているわけで、それを忘れた艦長がいるとしたら大日本帝国海軍の消滅も当然の成り行きだといわなければならない。
そしてその通りの軌跡を歩んだということは、海軍兵学校を出た海軍士官は、船を動かす下士官の存在を忘れていたということに他ならない。
軍艦のトップ、いわゆる艦長たるべき人が、全乗組員を全部自分のチームの一員と認識していたとしたら、組織内の矛盾や不合理な扱いは綺麗に除去され、海軍の消滅などという屈辱的な結果など招致しなかったと思う。
一言でいえば、戦争の本質を知らない戦争のプロが、机上の空論で戦争を行ったところに、敗北の原因と大日本陸海軍の消滅の原因があったということだ。