例のよって図書館のヤングコーナーから借りてきた本で「日系人の歴史を知ろう」という本を読んだ。
岩波ジュニア新書の本で、非常に読みやすかった。
子供向けというわけでもないだろうが、非常に分かりやすい書き方がしてあったので読みやすかった。
日系人と言うからには当然移民の末裔にかかわる話ということは予測がつくが、自分の生まれた地を離れて稼ぎに行くということは並大抵のことではないと思う。
そういう前提のもと、今、日本に来ているブラジル人の在り様から話が始まっているが、金儲けのために余所の土地に出向くということは、資本主義の根源にかかわる話であり、商売の極致だと思う。
人間の普遍的な行為として、自分の生まれ育った土地を離れ、金を稼ぎに出向くということは、人間がこの地球に誕生して以来連綿と続けられた行為だと思う。
ところが我々は島国の住人であるからして、この小さな4つの島のみが全宇宙だと思ってきたので、海の向こうまで出稼ぎに行くとなると大決心が要ったわけである。
日本が海外にまで移民を出すようになったのは、明治維新当初からであるということは今回初めて知ったが、問題はそれを斡旋する業者の存在である。
こういう業者は実に嘆かわしい存在で、自分では額に汗して働くことをせず、そういう仕事をする人を斡旋して、その上前をピンハネすることを生業にしているわけで実に許しがたい商売だと思う。
しかし考えてみると、そういう商売もかなり前から存在していたようで、日本が近代化のレールに乗るようになった過渡期の時期には既に存在しており、江戸時代にも顕著に散見できたようだ。
昭和初期の女工哀史に見るように、はたまた軍隊の駐屯地に集まってくる慰安婦の周旋のように、人集めを周旋する仕事というのはかなり昔からあったようだ。
それの現代版が、今の派遣労働者といわれる人たちで、今日本に来ている外国からの人達も、大なり小なりそういう斡旋業者の手を経て日本に来ているようだ。
日本の初期の海外移住も、基本的にそういう斡旋業者の手を経て海外に渡っているわけで、我々が憂うベきことは、移住や出稼ぎに行く本人よりも、それを斡旋する業者の監督である。
出稼ぎに出る人と、先方の受け入れ側との折衝のために、そういうことを効率よく手配してくれる人の存在は双方にとって有意義であろうが、そこに悪徳業者の入り込む隙が出来るわけで、こういう不埒な業者が送り出す側と受け入れる側の両方から暴利を貪る。
彼らに掛ったら人間の命も商品と同じ値打ちにされてしまうわけで、彼らは本人達には良い事ばかりを並べたてて今すぐにでも金がザクザク儲かるような話を持ちかけてくる。
一番悪いのは、そういう話で騙される本人が一番愚かなことは言うまでもないが、こういう風にして騙す側が、騙される側よりも数段と頭がよく、巧妙なわけで、結局は騙された側が泣き寝入りにならざるを得なかったに違いない。
そして「海外雄飛」などと格好いい言葉に釣られて、それにホイホイと乗る方が馬鹿を見ることになるわけだが、ここで行政というか国家の側がその斡旋業者をよく調べもせず、業者の並べ立てる美辞麗句を真にうけて受け売りする姿である。
国家というか行政というか官僚サイドも、斡旋業者の口車に乗せられて、自分が騙されたとも知らずに、移住者や出稼ぎ人に対してユートピアの実現を鼓舞することである。
あの戦争、戦後の我々の認識では太平洋戦争であるが、その前と後では海外に渡る人の認識も大きく変わったようで、戦前の人たちはあくまでも出稼ぎであって、行った先で骨を埋める気はなかったという。
しかし、戦後渡った人たちは最初から行った先で骨を埋める気で行っているので、その気構えはそうとうに違っていたと思う。
出稼ぎというのは、その言葉のイメージからも全く信がおけないわけで、接する人の気持ちも違ってくるのが当然だと思う。
今日本に来ている派遣労働者の人たちは、当然、出稼ぎに来ているわけで、金が貯まったら本国に帰る気でいる。
本人たちがそういう気であるならば、受け入れる側も、それに見合う対応しかできないわけで、恒久的な付き合いというのは生まれないのも当然である。
行った先で、その国に骨を埋める気であるとするならば、受け入れる側もそれに見合う対応が出来るが、何時帰るかわからない相手に恒久的な対応はし得ないのも無理ない話だと思う。
日本から向こうに行っても、向こうから日本に来ても同じことだと思う。
出稼ぎとしてただ単に金儲けに来ている人にそうそう手厚い対応はし得ないのは当然だと思う。
こういう異民族との接点に立つとき、往々にしていじめという言葉が出るが、これも少しばかりおかしいのではなかろうか。
日本に来たブラジル人の子弟が、日本の学校の中でいじめられるということをよく聞くが、子供のいじめなど民族を超えて世界中同じようなものではないかと思う。
子供を集めて一部屋に押し込んで、子供同士で「喧嘩するな」と言っても無意味ではなかろうか。
いじめられたと言うと、すぐに加害者と被害者という対立軸で捉えがちであるが、子供の世界では当たり前のことであり、大人の社会でも普通にあるわけで、それをことさら「ブラジル人だから」と言って強調することもないと思う。
我々の国が過去に行ってきた海外移住という施策は、私に言わしめれば棄民という面が大いにあったと考える。
最初から棄民と言うつもりはなくとも、外務省をはじめとする担当セクシュンが、先方を十分に研究することもなく、ただただ綺麗ごとで美しく人を引き付ける夢のような事ばかりを並べ立てて勧誘した部分が大いにあると思う。
戦前の満蒙開拓団などはその典型的な例で、あたかもユートピアがすぐにでも出来上がるかのように宣伝して、結果的には文字通り棄民そのものであったではないか。
この惨劇も基本的には政府の宣伝に踊らされた方が馬鹿を見たわけで、そういう意味では、体制批判がなされても当然であるが、政府が鐘太鼓をたたいて大宣伝することにホイホイと乗った方が悪い。
自分自身の不明を恥じるべきだ。
政府が音頭をとるということは、言い換えれば官僚が采配を振るうということで、この官僚がアイデアの細部にまで気を回すということはあり得ないわけで、そういうものを信じる方が胡乱である。
だから先に述べた本多勝一の言い草ではないが、「政府や国家の言うことは信じてはならない」ということに行きつくわけである。
ところが、その前に、出稼ぎに行くという行為を再考しなければならない。
この場合、東北の人が冬の仕事ない時に都会に出稼ぎに出る、という話とはいささか次元が違うわけで、こういう場合ならば地元に帰るべき家を維持しながらの一時的な働き場を求めて都会に出ることである。
今のブラジルからの労働者というのは、こういうケースの大掛かりなものであるが、民族を超えて国境を越えて、仕事のないところから仕事を求めて人が移動するということはある意味で普遍的なことである。
基本的にはアメリカ合衆国の誕生はこういうムーブメントの成果でもあるわけだが、既存の国家の中に他から異民族が流入してくれば、不要不急のトラブルが増えるのも当然のことである。
今、ヨーロッパでも中近東からの人の移動で頭を悩ませているわけで、我々の歴史でも中国東北部で食糧生産と雇用の確保を願いつつ進出した結果が侵略という言葉で今糾弾されている。
南米への移住には、武力という背景を持たず、民力のみでそれを行おうとしたので、国家としての保護が無かった分、入植者が苦労を強いられたことになった。
そもそも日本には仕事が無いので、新天地に行って何年か働いて金を得て帰る、という発想こそが卑しいものだと私は思う。
いわゆる日銭稼ぎの場として、出稼ぎをということを考えているとするならば、浅薄な思考といわれても仕方が無いと思う。
貧乏学生のアルバイトでもあるまいに、そういった安易な思考で海を渡る決心をすること自体が、生きるということを舐めた行為だと思う。
何にでも例外というのは有るわけで、移民、移住、開拓者として成功を収めた人間も、確かにいるであろうが、そういう人が如何に過酷な使役に耐え、苦労に苦労を重ねた結果として成功があるということに思いを致すこともなく、ただただ結果のみに幻惑されて、その後を追うということは、まさしく愚者の行為そのものである。
問題は、そういう愚者を騙して私利私欲を貪る斡旋業者や周旋屋の存在である。
これは我々の生きている環境が資本主義体制である限り、こういう商売も成り立つわけで、世の賢者はこういう商売をもっともっと叩かねばいけないと思う。
今でいえば、労働者派遣業というものであるが、こんなのものは昔の言葉でいえば女衒であって、女郎屋に騙した女を売りつける最も卑しむべき商売である。
こういう商売が、労働者派遣法で保護されつつ商売が成り立つことこそおかしな世の中なのに、騙され続けている労働者は、そのからくりにいささかも疑問を感じていない。
企業、つまり経営側はアホな労働者よりも頭が良いので、便利な斡旋業者、労働者派遣会社を上手に使うわけで、馬鹿を見るのは騙され、ピンハネされ続ける現場の労働者ということになる。
この労働者の派遣が国を超えて行われるようになると、それこそ女衒の方も巧妙化し、なおかつ国際化し、グローバル化してきたのが今の状態だと思う。
出稼ぎを希望する人に支度金を与え、渡航費用を貸し与え、労働者をそのシステムでがんじがらめにしておいて金を吸い上げるというのは、昔の女郎屋や置き屋が前借り金で女郎を引きとめたシステムと全く同じではないか。
企業あるいは経営者からすれば、労働者を自前の社員として抱え込むと、中で労働争議や内部告発で組織内から企業そのものが蝕まれる危険があるわけで、派遣会社から派遣される労働者を使うということはそういうリスクから免れる。
だから、状況に合わせて増やしたり減らしたりできる派遣労働者の存在というのはありがたいものに映っていると思う。
使われる身の労働者の方はどこまで行っても馬鹿だから、時間が自由になるだとか、拘束されないからだとか、自分の能力に応じて報酬が払われるなどと、まさしく昔の移民が騙された構図と同じように、夢を見つづけて盲目になっている。
経済状況が変わればそのしわ寄せはモロに彼ら派遣労働者に覆いかぶさってきたわけで、その時になって「何とか救済せよ」と言われても、世界中が苦境にあえいでいるときに救済措置のしようが無いではないか。
経済の変動に微妙に対応できるショックアブソーバーの役目をしているのが派遣労働者の存在で、企業や経営者はそれを上手に使って企業そのものの存続を図っているのである。
そもそもコツコツと地味に働く気が無く、自分の好きな仕事ではないとか、拘束されるのが嫌だとか、時間に縛られるのが嫌だとか、我儘をいう人間が報われないのは今に始まったわけではなく、太古の昔から普遍的なことであって、突き詰めれば本人が馬鹿だということだ。
岩波ジュニア新書の本で、非常に読みやすかった。
子供向けというわけでもないだろうが、非常に分かりやすい書き方がしてあったので読みやすかった。
日系人と言うからには当然移民の末裔にかかわる話ということは予測がつくが、自分の生まれた地を離れて稼ぎに行くということは並大抵のことではないと思う。
そういう前提のもと、今、日本に来ているブラジル人の在り様から話が始まっているが、金儲けのために余所の土地に出向くということは、資本主義の根源にかかわる話であり、商売の極致だと思う。
人間の普遍的な行為として、自分の生まれ育った土地を離れ、金を稼ぎに出向くということは、人間がこの地球に誕生して以来連綿と続けられた行為だと思う。
ところが我々は島国の住人であるからして、この小さな4つの島のみが全宇宙だと思ってきたので、海の向こうまで出稼ぎに行くとなると大決心が要ったわけである。
日本が海外にまで移民を出すようになったのは、明治維新当初からであるということは今回初めて知ったが、問題はそれを斡旋する業者の存在である。
こういう業者は実に嘆かわしい存在で、自分では額に汗して働くことをせず、そういう仕事をする人を斡旋して、その上前をピンハネすることを生業にしているわけで実に許しがたい商売だと思う。
しかし考えてみると、そういう商売もかなり前から存在していたようで、日本が近代化のレールに乗るようになった過渡期の時期には既に存在しており、江戸時代にも顕著に散見できたようだ。
昭和初期の女工哀史に見るように、はたまた軍隊の駐屯地に集まってくる慰安婦の周旋のように、人集めを周旋する仕事というのはかなり昔からあったようだ。
それの現代版が、今の派遣労働者といわれる人たちで、今日本に来ている外国からの人達も、大なり小なりそういう斡旋業者の手を経て日本に来ているようだ。
日本の初期の海外移住も、基本的にそういう斡旋業者の手を経て海外に渡っているわけで、我々が憂うベきことは、移住や出稼ぎに行く本人よりも、それを斡旋する業者の監督である。
出稼ぎに出る人と、先方の受け入れ側との折衝のために、そういうことを効率よく手配してくれる人の存在は双方にとって有意義であろうが、そこに悪徳業者の入り込む隙が出来るわけで、こういう不埒な業者が送り出す側と受け入れる側の両方から暴利を貪る。
彼らに掛ったら人間の命も商品と同じ値打ちにされてしまうわけで、彼らは本人達には良い事ばかりを並べたてて今すぐにでも金がザクザク儲かるような話を持ちかけてくる。
一番悪いのは、そういう話で騙される本人が一番愚かなことは言うまでもないが、こういう風にして騙す側が、騙される側よりも数段と頭がよく、巧妙なわけで、結局は騙された側が泣き寝入りにならざるを得なかったに違いない。
そして「海外雄飛」などと格好いい言葉に釣られて、それにホイホイと乗る方が馬鹿を見ることになるわけだが、ここで行政というか国家の側がその斡旋業者をよく調べもせず、業者の並べ立てる美辞麗句を真にうけて受け売りする姿である。
国家というか行政というか官僚サイドも、斡旋業者の口車に乗せられて、自分が騙されたとも知らずに、移住者や出稼ぎ人に対してユートピアの実現を鼓舞することである。
あの戦争、戦後の我々の認識では太平洋戦争であるが、その前と後では海外に渡る人の認識も大きく変わったようで、戦前の人たちはあくまでも出稼ぎであって、行った先で骨を埋める気はなかったという。
しかし、戦後渡った人たちは最初から行った先で骨を埋める気で行っているので、その気構えはそうとうに違っていたと思う。
出稼ぎというのは、その言葉のイメージからも全く信がおけないわけで、接する人の気持ちも違ってくるのが当然だと思う。
今日本に来ている派遣労働者の人たちは、当然、出稼ぎに来ているわけで、金が貯まったら本国に帰る気でいる。
本人たちがそういう気であるならば、受け入れる側も、それに見合う対応しかできないわけで、恒久的な付き合いというのは生まれないのも当然である。
行った先で、その国に骨を埋める気であるとするならば、受け入れる側もそれに見合う対応が出来るが、何時帰るかわからない相手に恒久的な対応はし得ないのも無理ない話だと思う。
日本から向こうに行っても、向こうから日本に来ても同じことだと思う。
出稼ぎとしてただ単に金儲けに来ている人にそうそう手厚い対応はし得ないのは当然だと思う。
こういう異民族との接点に立つとき、往々にしていじめという言葉が出るが、これも少しばかりおかしいのではなかろうか。
日本に来たブラジル人の子弟が、日本の学校の中でいじめられるということをよく聞くが、子供のいじめなど民族を超えて世界中同じようなものではないかと思う。
子供を集めて一部屋に押し込んで、子供同士で「喧嘩するな」と言っても無意味ではなかろうか。
いじめられたと言うと、すぐに加害者と被害者という対立軸で捉えがちであるが、子供の世界では当たり前のことであり、大人の社会でも普通にあるわけで、それをことさら「ブラジル人だから」と言って強調することもないと思う。
我々の国が過去に行ってきた海外移住という施策は、私に言わしめれば棄民という面が大いにあったと考える。
最初から棄民と言うつもりはなくとも、外務省をはじめとする担当セクシュンが、先方を十分に研究することもなく、ただただ綺麗ごとで美しく人を引き付ける夢のような事ばかりを並べ立てて勧誘した部分が大いにあると思う。
戦前の満蒙開拓団などはその典型的な例で、あたかもユートピアがすぐにでも出来上がるかのように宣伝して、結果的には文字通り棄民そのものであったではないか。
この惨劇も基本的には政府の宣伝に踊らされた方が馬鹿を見たわけで、そういう意味では、体制批判がなされても当然であるが、政府が鐘太鼓をたたいて大宣伝することにホイホイと乗った方が悪い。
自分自身の不明を恥じるべきだ。
政府が音頭をとるということは、言い換えれば官僚が采配を振るうということで、この官僚がアイデアの細部にまで気を回すということはあり得ないわけで、そういうものを信じる方が胡乱である。
だから先に述べた本多勝一の言い草ではないが、「政府や国家の言うことは信じてはならない」ということに行きつくわけである。
ところが、その前に、出稼ぎに行くという行為を再考しなければならない。
この場合、東北の人が冬の仕事ない時に都会に出稼ぎに出る、という話とはいささか次元が違うわけで、こういう場合ならば地元に帰るべき家を維持しながらの一時的な働き場を求めて都会に出ることである。
今のブラジルからの労働者というのは、こういうケースの大掛かりなものであるが、民族を超えて国境を越えて、仕事のないところから仕事を求めて人が移動するということはある意味で普遍的なことである。
基本的にはアメリカ合衆国の誕生はこういうムーブメントの成果でもあるわけだが、既存の国家の中に他から異民族が流入してくれば、不要不急のトラブルが増えるのも当然のことである。
今、ヨーロッパでも中近東からの人の移動で頭を悩ませているわけで、我々の歴史でも中国東北部で食糧生産と雇用の確保を願いつつ進出した結果が侵略という言葉で今糾弾されている。
南米への移住には、武力という背景を持たず、民力のみでそれを行おうとしたので、国家としての保護が無かった分、入植者が苦労を強いられたことになった。
そもそも日本には仕事が無いので、新天地に行って何年か働いて金を得て帰る、という発想こそが卑しいものだと私は思う。
いわゆる日銭稼ぎの場として、出稼ぎをということを考えているとするならば、浅薄な思考といわれても仕方が無いと思う。
貧乏学生のアルバイトでもあるまいに、そういった安易な思考で海を渡る決心をすること自体が、生きるということを舐めた行為だと思う。
何にでも例外というのは有るわけで、移民、移住、開拓者として成功を収めた人間も、確かにいるであろうが、そういう人が如何に過酷な使役に耐え、苦労に苦労を重ねた結果として成功があるということに思いを致すこともなく、ただただ結果のみに幻惑されて、その後を追うということは、まさしく愚者の行為そのものである。
問題は、そういう愚者を騙して私利私欲を貪る斡旋業者や周旋屋の存在である。
これは我々の生きている環境が資本主義体制である限り、こういう商売も成り立つわけで、世の賢者はこういう商売をもっともっと叩かねばいけないと思う。
今でいえば、労働者派遣業というものであるが、こんなのものは昔の言葉でいえば女衒であって、女郎屋に騙した女を売りつける最も卑しむべき商売である。
こういう商売が、労働者派遣法で保護されつつ商売が成り立つことこそおかしな世の中なのに、騙され続けている労働者は、そのからくりにいささかも疑問を感じていない。
企業、つまり経営側はアホな労働者よりも頭が良いので、便利な斡旋業者、労働者派遣会社を上手に使うわけで、馬鹿を見るのは騙され、ピンハネされ続ける現場の労働者ということになる。
この労働者の派遣が国を超えて行われるようになると、それこそ女衒の方も巧妙化し、なおかつ国際化し、グローバル化してきたのが今の状態だと思う。
出稼ぎを希望する人に支度金を与え、渡航費用を貸し与え、労働者をそのシステムでがんじがらめにしておいて金を吸い上げるというのは、昔の女郎屋や置き屋が前借り金で女郎を引きとめたシステムと全く同じではないか。
企業あるいは経営者からすれば、労働者を自前の社員として抱え込むと、中で労働争議や内部告発で組織内から企業そのものが蝕まれる危険があるわけで、派遣会社から派遣される労働者を使うということはそういうリスクから免れる。
だから、状況に合わせて増やしたり減らしたりできる派遣労働者の存在というのはありがたいものに映っていると思う。
使われる身の労働者の方はどこまで行っても馬鹿だから、時間が自由になるだとか、拘束されないからだとか、自分の能力に応じて報酬が払われるなどと、まさしく昔の移民が騙された構図と同じように、夢を見つづけて盲目になっている。
経済状況が変わればそのしわ寄せはモロに彼ら派遣労働者に覆いかぶさってきたわけで、その時になって「何とか救済せよ」と言われても、世界中が苦境にあえいでいるときに救済措置のしようが無いではないか。
経済の変動に微妙に対応できるショックアブソーバーの役目をしているのが派遣労働者の存在で、企業や経営者はそれを上手に使って企業そのものの存続を図っているのである。
そもそもコツコツと地味に働く気が無く、自分の好きな仕事ではないとか、拘束されるのが嫌だとか、時間に縛られるのが嫌だとか、我儘をいう人間が報われないのは今に始まったわけではなく、太古の昔から普遍的なことであって、突き詰めれば本人が馬鹿だということだ。