ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「中国のいまがわかる本」。

2010-02-05 15:39:01 | Weblog
これも例によって図書館のヤングコーナーから借りてきた本だが、内容的には極めてニュートラルであった。
「中国のいまがわかる本」。
著者は上村幸治という人でマスコミ関係から大学教授に転身した人のようだ。
現代の中国社会をウオッチした内容である。
現代の中国といえば当然のこと対日批判が題材となっているが、今の日中の関係は双方とも戦争を知らない世代が引き起こしているように思える。
戦後の日本の首相で、村山富一はそれこそ100%自虐史観に嵌って「中国に多大な迷惑をかけた」と公然と言ってのけた売国奴であるが、我々の側が加害者の立場に立てば、先方は被害者立場を強調するのは自然の流れである。
村山富一の世代ならば、日本と中国の関係は歴史的な事実として肌で体験した世代であるが、そういう世代が一方的に自分たちが加害者だと思い込むことは、自分たちのこと、自分たちが置かれていた当時の内情を全く知らないということでもある。
つまり、歴史を知らないということであり、もう一歩踏み込んで言えばものを知らないということに尽きる。
我々が加害者であると自ら認めれば相手はそれに乗じて謝罪を求めてくることは当然である。
日中関係に関するあらゆる本でも、日中間の政府の間では戦後処理は終わっていることは歴然としている。
なのに、日本の首相あるいは政府高官が今に至っても謝罪し続けるということは、極めて日本的な「謙譲の美徳」を体現していることだが、この「謙譲の美徳」という概念は、日本人以外には通用しない。
自分たちの間だけしか通用しないことを知らずに、その事実を無視して謝罪さえし続ければ、相手の理解が得られると勘違いするところが外交音痴の最たるものである。
この部分に「ものを知らない」ということが顕著に表れているのである。
日中戦争から太平洋戦争への流れを歴史的事実として知らないわけではないが、知れば知るほど中国は果たして日本に勝ったのかという疑念がわく。
中国に侵攻した日本軍は、中国の正規軍によって東シナ海に追い落とされたのであろうか。
ベトナム戦争でアメリカはべトコン、いわゆるベトナムの共産主義者によって海に追い落とされたが、あれでも厳密にいえばアメリカが負けたわけではないと思う。
ベトナムという国が共産主義者によって乗っ取られたので、アメリカは手を引いただけのことで、負けたわけではないがメデイアは一斉にアメリカが敗北したというニュアンスで報じていた。
日中戦争について言えば、1945年、昭和20年8月において、日本軍は点と線のみとはいえ、中国の大地に軍隊の形を維持したまま残っていたわけで、南洋諸島で孤立した日本軍のように玉砕したわけではない。
にもかかわらず、天皇陛下の一声で、その日本軍は一斉に銃を下において戦うことをやめたわけである。
ここに日本人と中国人の民族の本質が見事に表れている。
こういう部分を子細に考察しなければならないと思う。
この本にはその点に関して非常に面白い記述があった。
つまり、中国はあの戦争を通じて連合国の側に身を置いていたので一般的には戦勝国であるが、中国の一人一人の人民は、自分たちが日本に勝ったという実感を抱いていないというものだ。
つまり、彼らは戦勝国であるにもかかわらず、自分たちが日本を負かしたという実感を持っていないということだ。
当然と言えば当然のことで、あの時点で日本軍は彼らの周りにいたわけで、その鬼より怖い日本軍がある日突然銃を撃つことをやめてしまったわけで、彼らにしてみればキツネにつままれたようなものであったに違いない。
人の集団を民族という言葉で括ると、それぞれの民族は、それぞれに歴史を背負った存在だと思う。
例えば我々日本民族は、我々の国土の置かれた地勢的な位置とか、気象条件とか、その他の自然の条件が集約された形で日本民族の特質を形造っていると思う。
同じことは中国側にも言えるわけで、彼らの民族的な特質も、周囲の環境によって形造られたものと見做していいと思う。
そういう視点を念頭に置いてこの両者を比べると、彼らは大陸という背景の中で生かされてきたが、我々は海で囲まれた比較的閉鎖的な環境の中で生かされてきた。
地球儀で見れば歴然とわかるように、我々の文化が大陸から朝鮮半島を経て島づたいに入ってきたであろうことは素人でも判断がつく。
そうすると大陸に住んでいる人から日本を見れば、日本というのは彼らの文化の流れ着いた先、ある種の吹き溜まりで、カスのようなものだという認識に至るのも無理ない話だと思う。
これがいわゆる中華思想であり華夷秩序であって、自分の周囲のものは全部野蛮人だ、野蛮人ならば俺たち漢民族に朝貢して当然だ、俺は偉いんだぞということになる。
ところが近代になると、この彼らの長年の思い込みが通用しなくなってきたわけだ。
彼らが野蛮人だと思っていた倭の国、東海の小島の倭という野蛮国が、自分たちの頭を越えて跳梁跋扈しだしたので、彼らの自尊心は木っ端みじんに飛び散ってしまったわけだ。
彼らはアジア大陸に有史以来連綿と生き続けたので、他民族との接触は絶え間なく経験していたので、異民族の扱いには手なれたものであったが、我々の側は、海の中の孤島の住民で、比較的均一の民族であったので、異民族との接触には極めて不慣れであって、相手を過大評価したり又逆に過小評価したりと、適正に見定めることができなかった。
今、中国で問題となっている近々の話題は、経済成長に伴う格差の是正であるが、こんなことは如何なる国でも抱え込んでいることであって、中国だけの特殊なことではないが、人々が恐れているのは、それが行き詰まると中国そのものが崩壊するのではないかという恐れである。
アジア大陸に住も民族は、何度となく国家を作り、それがまた崩壊する歴史を繰り返してきたわけで、今までの歴史では科学技術の飛躍ということを考えなくても済んでいたが、これからそういうことはあり得ない。
片一方で宇宙に有人衛星を打ち上げているかと思えば、片一方では有史以来の伝統的な牧畜や農業があるわけで、沿海部では高層ビルが立ち並んでいるのに、奥地では未だにパオに住んでいるという状況がある。
それに輪を掛けて問題を複雑にしている要因が、情報通信の発達である。
昔の電話は有線で、それの利便性は電話線を引くという設備投資が伴わないことに利用できなかったが、無線が主流の昨今では、その設備投資というものは大きく緩和されて、利便性のみが増幅された。
ということは、中国のいかに奥地にいようとも、情報に関しては沿海部との格差がないということになる。
こういう格差が国内に沈潜していると、それが社会変革のエネルギーになりえるわけで、中国の歴史というのはその繰り返しの連続だと思う。
国土の広大な国が安定した政治状況を維持するということは極めて難しいだろうと想像する。
旧ソビエット連邦でもわずか75年で崩壊したわけで、新生中国も今までのところ60年を経過したに過ぎず、ソ連にしろ中国にしろその広大なテリトリーを安定的に維持することは並大抵のことではないということは察して余りある。
しかし、アメリカなどはこの両国ほど広大なテリトリーではないというものの、合衆国という州を寄せ集めてそれぞれの自治を尊重しながら一つにまとめ上げているわけで、人の英知と知恵を集めれば可能だと思う。
この違いを私なりに考察すると、そこに住む人々の民主化の度合いの相違だと思う。
アジア大陸の住人には、この民主化、民主的という概念が爪の垢ほども存在していないと思う。
あるのは弱肉強食の自然の法則のみで、それに整合性を持たせるために編み出されたのが儒教であって、夫婦相和し、兄弟仲良く、年長者を敬い、親孝行に勤めよ、という教えは封建制度を一歩でも超越することを禁じているわけで、これがある限り若者の未知への挑戦はあり得ないということになる。
この本が言っているように、中国の奥地では未だに学校のシステムそのものが機能していないとなっているが、ならば共産主義による天下統一は一体何であったのかと問い直さねばならない。
共産党幹部の汚職、腐敗というのは中国の奥地では普通のことであるわけで、ある意味で彼らは原始の社会に生きているようなもので、人間の本来の姿を赤裸々に反映しているということでもある。
我々の観念からすれば、共産党員や官僚、あるは組織の構成員の汚職、収賄、腐敗というのは唾棄すべき行為かも知れないが、人間の集団では原始の昔から連綿と引き継がれてきた行為であるわけで、これを「唾棄すべきだ」という認識こそが新しい民主化の度合いを測るバロメーターである。
旧ソビエット連邦が崩壊したということは、この国の国民の大部分がこういう民主化の度合いの低い人たちで成り立っていたので、計画経済が上手に機能されなかったということだと思う。
如何なる地域に住む人々でも、自分の命は何物にも代えがたいので、生きんがためには如何なる知恵でもひねり出すわけで、それは究極の生きんがための自然の法則に近寄らざるを得ない。
中国の奥地の共産党員が腐敗に塗れているとしても、その地に住む彼らにしてみれば、生きんがためのミニマムの努力のはずである。
そこで世渡りの下手な人間は淘汰されてしまうことになるが、生きた人間が死ぬのは、それこそ大自然そのもので不思議でもなんでもない。
死んでいく人を憐れむのは、生き残った人間の傲慢以外の何ものでもない。
とはいうものの、これは中国の奥地の今までの姿であるが、これから先沿海部が限りない高度経済成長を果たして、科学技術が先進国並みに発達してくると、こういう奥地の人々がどういう生き方を選択するかが大問題になるであろう。
通信技術が発達し、テレビが各家庭に備わるようになり、携帯電話を誰でもが持てるようになると、中国の奥地に住む人々の意識も当然変わってくるわけで、それがどういう風に変わるか注視しなければならない。
中国が共産主義を基調とした国家である限り、民主化ということは多大な問題を抱え込むわけで、共産党の一党独裁体制で民主化ということは論理的に成り立たない。
中国の為政者の権力というのは、秦の始皇帝並みに絶大なものであるからして、彼らは中国の人民の意向というものを、鵜匠が鵜を操るように自由自在に操作できるのである。
反日デモを時には寛容に扱い、時には厳しく取り締まるというように、自由自在にコントロールできるわけで、そのことは国民、人民の側にいささかも民主化の理念が存在していないということである。
戦中の日本の軍国主義と同じように、全員が「右向け右」で一斉に右を向くのと同じなわけで、自分たちが政府の号令で踊らされているという認識の欠如そのものである。
彼らの為政者の論調というのは、まさしく黒を白と言い包めるに等しいような論理的矛盾を平気で押し付けてくる。
我々の認識からすれば、厚顔無恥そのものであるが、こういう傲慢な言辞でもいったん口から出したら最後、決してそれを引っ込めないわけで、昔、社会党の土井たか子女史が「駄目なものは駄目」といったように、論理的な説明が一切通用しない。
論理的に全く整合性の無いことでも、一旦言い出したら後に引かないわけで、嘘も百万回言い続ければ真実になってしまう。
こういう相手に対して「謙譲の美徳」を説いても、まさしく馬耳東風、馬の耳に念仏で終わってしまうのもいた仕方ないわけで、あるのは双方の潜在意識のズレのみで、それを合わせるということは多分不可能であろう。
そういう意味で、中国人というのは実に外交巧者であると思う。
日中戦争を見ても、彼らは日本と戦争しながら、つい先ほどまで西洋列強にさんざん食い物にされていたその相手、つまり西洋人の仲間に入り込んでしまっていたではないか。
これを見て私は、中国人というのは紅毛碧眼の西洋人には先天的な特質として心から卑屈になれるが、同じモンゴロイドの日本人には華夷秩序の概念から抜け切れず、彼らの潜在意識が許さないのだろうと想像している。
日本人と中国人という二つの民族を並べてみると、有史以来日本人は中国人からバカにされてきている。
華夷秩序そのものが既に日本をバカにした発想であるわけで、その上我々の国の首脳が、相手に対して「迷惑を掛けました」などと卑屈な謝罪をするに至っては、バカの上塗りでしかない。
我々の側がバカに徹している限り、両国間に波風は立たないということもあるかもしれないし、民族の誇りや名誉で国民が潤うわけでもない以上、バカに徹する政治・外交というのもある程度の効果が期待できるやもしれない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿