ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「ニューヨーク『秘境』探検」

2010-02-08 08:38:53 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「ニューヨーク『秘境』探検」という本を読んだ。
発行が1999年となっていて9.11事件の前の話でいささか古いのが難点である。
ニューヨークの秘境というタイトルからもおおよそ察しが付くように、普通の観光案内とは一味違う解説書であって、ずぶの素人にはいささか難解だと思う。
それだけに、しっかり掘り下げて読めば一通りの事情通にはなれる。
ニューヨークに何日か滞在した経験のある人には面白く読めるが、ただ単なる旅行者の目では、いささか描写が細かすぎるように思える。
かといってニューヨークの歴史を深く掘り下げているわけでもなく、その意味で中途半端な存在だと思う。
しかし、ニューヨークというのは世界各地から集まってきた人たちで成り立っていることはよくわかるが、ここまで来る間の道のりというのは大変な行程であったと想像する。
アメリカン・ドリームという言葉があるが、私が考えるに、今はひところの勢いは寂れているが、やはりアメリカは世界のアメリカだと思う。
我々の感覚からすれば、アメリカは巨大な国土の国であるが、国土の広さだけを比べれば、アメリカよりも大きな国は他にもある。
例えば中国、あるいはロシアというのは、国土の広さのみを比較すればアメリカよりも大きいだろうが、アメリカのように繁栄しているとはどうみても言い難い。
最近中国の躍進が目覚ましいといわれているが、中国では沿海部と内陸部の格差の相違が大きく、アメリカ並みとは到底言えないものと思う。
世界でアメリカのみが繁栄して他の地域がそれと同じことが出来ないというのは、やはり移民と根つきの住民の違いだと思う。
南北のアメリカ大陸の住人というは、基本的にはネイティブな人々も居るには居たが、今その地で権勢を誇っているのは、そういう昔からいたネイティブな人々ではなく、皆ヨーロッパから流れてきた移民の子孫である。
20世紀から21世紀のある特定の地域の隆盛というのは、ネイティブな人々が繁栄しているのではなく、全て移民として他の地域から流れてきた人たちによって経済あるいは文化の隆盛があるわけで、如何なる地域でもネイティブな人々がその地で経済や文化に活力を与えているわけではない。
考えても見よ、中国の人々が移民で成り立っているだろうか。
ロシアの人々が移民で成り立っているであろうか。
南北アメリカ大陸に住んでいたネイティブな人々は一体どうなったのであろう。
こういう人たちは現代の物質文明の中でよその地から来た移民の勢力に淘汰されてしまって、彼らの本来のテリトリーをはく奪されてしまって、社会の片隅に追いやられてしまった。
中国でもロシアでも、もともとその地に住み続けてきた人たちは、その地域のネイティブな住民であったわけで、こういう人たちは時代の変革に対応しきれず、経済的にも文化的にも進展しきれないまま取り残されてしまったわけである。
古来から生き続けた原住民が淘汰されて、移民として移入してきた人たちが繁栄したのか、という問題は、古いカビの生えた歴史を持たないという点に尽きると思う。
有史以来連綿と生き続けた人間の集団には、年老いた人間に都合の良い思考が形造られて、若者の挑戦を封じ込める作用を果たしていたからである。
年寄りを敬え、年長者を尊重せよ、師の影を踏まず、女は不浄だ、こういう古典的な思想は老獪な年寄りが若者の頭を押さえつけるにまことに好都合な考え方であって、ある地域で人間の集団が移動することなく、営々と農業を営む時にはまことに都合よく出来ていた。
大きな変革を嫌う農業主体の社会体制の中では、統治者にとってまことに都合の良い考え方であったわけである。
ところが人々が新天地に移住し、新たな人生を開拓しようとした場合、過去の伝統的な思考を守っていては自らの生存そのものが危機に瀕しているわけで、頭の古い年寄りの言うことなど聞いておれない。
危機に瀕した時は、自分の頭で考え、自分の判断力で判断し、自分で結論を出して前に進まねばならないわけで、過去の経験や過去の事例など何の参考にもならない。
年寄りの経験則に従うのではなく、それに対して新鮮で斬新な思考で対抗する勇気が必要であったに違いない。
これがアメリカ人のバイタリティーだと想像する。
無一文で新大陸に渡った人たちは、自分の命以外失うものがないわけで、これほど強いこともない。
あれをしてはいかん、これをしてはいかん、これはこうすべきであれはこうべきだ、とやかましく言うものが周りにいないわけで、何処まで行っても自己責任ではあるが、自己責任である限り、何をやっても許されるわけである。
人が営々と住み続けている土地の住人では、こういうことはあり得ないわけで、ちょっと変わったことをしようものなら、すぐに後ろ指を指されるわけで、伝統と慣習にがんじがらめにされてしまっている。
アメリカの深層を少しでも掘り下げようとすると、そこにはユダヤ人の問題が伏流水のように流れているように見える。
ヨーロッパからアメリカの新世界に流れてくる人々の根源的な動機は、宗教上の圧迫から逃れるというのが顕著なものであろうが、それに絡んで人種問題も複雑に絡み合っているわけで、人種と宗教が深く関わり合っている以上そういうパターンも当然ありうる。
同じキリスト教徒でも旧教と新教では全く別の宗教のようなもので、そこにユダヤ教というものが絡んでくると、ますま複雑になる。
私は無学者なので実はよくわからないが、何故、世界中でユダヤ人というのは嫌われるのであろう。
私の知りえる浅薄な知識では、ユダヤ人がキリストを十字架に掛けたから、それ以来の怨念だという風に覚えているが、こんな真偽の程も曖昧なことで2千年以上もいがみ合うというのも馬鹿げた話だと思う。
しかし、現実には今でもキリスト教文化圏ではユダヤ人を忌み嫌っているわけで、世界の民族から石を持って追われているということは一体どういうことなのであろう。
こうしてヨーロッパを追われて新天地、新大陸、新世界にたどり着いたユダヤ人たちは、過去の偏見から逃れて自由に振る舞えるようになると、たちまち頭角を表してあらゆる場面で成功を収めるようになった。
ユダヤ人が成功を収めると、当然、他の民族の人たちはその成功をやっかみ、ねたみ、恨みを買うようになるわけで、再び偏見が醸成されてしまうのである。
第2次世界大戦中のドイツのホロコーストはあまりにも有名であるが、ユダヤ人の迫害というのはドイツだけことではなく、ヨーロッパ諸国では大なり小なりユダヤ人を迫害しているわけで、ただ規模の大小の違いだけである。
これだけヨーロッパの人々が忌み嫌うということは、そこに我々日本人では分からない要因が潜んでいるのではなかろうか。
宗教上の神話に近い話が原因だとは思えない。
ただ我々のようなキリスト教文化圏の外野席から見ている限り、ユダヤ人の職業というのは、銀行家であったり、学者であったり、芸術家であったりと、知的労働が多く、肉体労働というものに価値を置いていないように見受けられるが、この部分が従来のキリスト教徒とから忌み嫌われるのではなかろうか。
アメリカという新世界に移り住んだキリスト教徒は、額に汗して働くことを厭わず、勤勉に価値を見出していたわけで、肉体労働に果敢に取り組まないユダヤ人を、自分たちの仲間として受け入れ難かったのだろうか。
知的労働ということは言うまでもなく口舌の徒なわけで、この認識は世界共通の心理であって、額に汗して働かない者を、自分たちの仲間として受け入れなかったのかもしれない。
それと合わせてユダヤ人は流浪の民で、第2次世界大戦が終わるまで自分の祖国というものを持っていなかった。
この事実も、自分の生まれ育った地域に根をおろして生きてきたキリスト教徒からすれば、心から信用できないという思いを払拭しきれなかったかもしれない。
土地つきの住民は、自分たちのテリトリーをこよなく愛することで、近代的な国民国家を形造っているが、祖国を持たず時代の状況に合わせて流浪する人々を、心から信じれないと思うのも無理からぬことだと推察する。
何世代も何世代も同じ土地を耕し、額に汗して労働している人からすると、貧乏人に金を貸して利子をとる、治療したと言っては病人から金を取る、ものを教えたと言っては金を取る、ただただ口先で金を巻き上げるユダヤ人の存在は許しがたいことであったのかもしれない。
だからヨーロッパ全域でユダヤ人の迫害があったのではなかろうか。
ヨーロッパの人々もユダヤの人々も、それぞれの地域の中でお互いに生き抜いてきたわけで、それぞれの双方には潜在意識として、お互いの嫌悪感を育んできたものと推察する。
それが海を渡って新世界に来てまで尾を引いたのであろう。
もともとアメリカ大陸にはネイティブな人々として俗に言うインディアンという人々がいたわけで、そこへキリスト教徒としてのヨーロッパ人は入ってくる、ヨーロッパの人々が新世界に渡るについては、ただただ宗教上の圧迫という事情のみではなかったと推察する。
あらゆる面で現状打破をしよう、しなければという潜在意識を持ち、旧社会に対するあらゆる不平不満を克服せんがために新世界を目指したものが大勢いるに違いない。
そういう人たちが無から有を作り上げるには、それこそ額に汗して働かねばならなかったが、その環境の中ではヨーロッパの旧弊に煩わせることなく、自由自在に思考をめぐらすことが可能であったので、ネイティブな人々を差し置いて斬新的なコミュニティ―を作ることに成功したのであろう。
ある程度出来上がったところに、先駆者と同じようにヨーロッパの旧社会で抑圧されていたユダヤ人が入り込んできたが、先駆者の築きあげた新世界はヨーロッパの旧社会よりは社会規範の束縛が緩かったので、ユダヤ人も自分たちの才能を如何なく発揮することが出来たのであろう。
彼らは肉体労働で汗をかくことよりも、知的労働に長けていたので、必然的にコミニュテイ―の上層部を形造り、新世界を進化させる強力な担い手いになった。
そうなればなったで、再びヨーロッパ系の人々のねたみや怨みを買うようになるわけで、それが社会問題化していったのであろう。
この本はニューヨークの街の観察であるが、この街の発展にネイティブな人々がいささかも貢献していないという点が全く不思議でならない。
最近の進歩的な学者は、アメリカ文化はヨーロッパ人に侵略された結果だというニュアンスでネイティブな人々に焦点を合わせようとしているが、あのニューヨークの街を作り上げたのがネイティブな人々ではなく外来人によって作られたということをどう考えたらいいのであろう。