ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「機長からアナウンス」

2010-02-21 07:46:53 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「機長からアナウンス」という本を読んだ。
飛行機に関する本となると、どういうわけか自然と好奇心がそちらの方を向いてしまって手が伸びる。
この本も面白かった。
機長の書いたエッセイ風の読み物で、興味が尽きない。
丁度、この本を手にした時、東京に出ることになっていたので新幹線の車中で読んだが、東京に着いたら最初は市ヶ谷の陸上自衛隊の駐屯地を見学しようと思っていた。
ところが道中、家内と語り合っている内に、「羽田空港に行ってみよう」ということになって、そちらに行ってしまった。
私も多少は飛行機お宅を自認する方であるが、未だにあの巨大な飛行機が空を飛ぶということが信じられない気持で一杯である。
翼の上を通過する空気の流れが揚力を作り、それが機体を持ちあげるのだ、と言われても未だに完全に納得しているわけではない。
そのため旅客機に乗った時は出来るだけ窓のある席を取って、翼の動きを観察するのだが、確かに上がったり下りたりするときには補助翼、フラップが出たり入ったりすることは確認出来る、
ところが、空気の流れを確認出来るわけではなく、未だに不思議でならない。
そして、今時の旅客機の上昇角度は12、3度と書かれているが、私が感じるときはスキー場のかなり急な斜面を下から上に駆け上がるような感じがするもので、すぐにでも失速するのではないかと心配でたまらない。
シートベルトをして、普通に座っていたものが、ドドンという脚が地面を離れるときの大きな音と共に、急に足が上にあがって、背中が後ろの倒れる感じがして、こんな角度で大丈夫なのかと不安にさいなまれる。
落ちたら自分一人が死ぬのではなく、この周りの全員が死ぬのであれば、まあ寂しこともないかと、悟りに近い心境でいる。
とにかく、あの巨大な機体が空に浮くこと自体が不可解千万である。
この本の内容と羽田空港とは何のかかわりもないが、民主党政権になって前原国交相が、羽田と成田の運用一元化の話をしたり、日本航空の経営再建の話とか、話題に事欠かないので羽田空港の見学となった。
しかし、用もない大人が、空港の中をうろうろする姿というのもさえないものである。
羽田に行くとなれば、常識的には浜松町からモノレールになるわけで、当然我々もそのコースで行ったが、このモノレールは実に有効に生きている。
それで一番奥の第一ターミナルまで行って展望台に登ったが、ここから見る光景は実に雄大なものだ。
成田空港を作るときの最大の理由が、羽田が手狭になったという理由であったが、成田闘争でもたもたしている間に羽田の方が徐々に拡張されてしまって、今では羽田が手狭という理由がなくなってしまったようだ。
私個人としては成田闘争の反対派農民というのは国賊だという認識でいる。
個人のエゴを国益よりも優先させる思考など、到底許しがたいものだと思う。
この時の反対派の言い分は、基本的には国が地元住民に何の説明もないままこの地に空港建設を決定したことにあるというものであるが、冗談ではない。
そんな言い分は、騒動の後の後付けの理由であって、本当は補償金の値上げを内に秘めた反対の為の反対に過ぎず、当時の時流に便乗した左翼系の反政府団体に利用されたにすぎない。
左翼系の革命ゴッコに利用されただけだが、それを反対派の内側から言うわけにはいかないから、あくまでも先祖の土地を死守するというポーズをとったにすぎない、と私は推察している。
もし仮に事前に国が説明したとしたら、反対運動など起こさずにスムースに建設が出来たかといえば、そんなことは考えられないわけで、事前説明があろうがあるまいが結果としては内乱に等しいような革命的闘争に持ち込んで、補償金の値上がりを謀った筈だ。
問題は、この反対運動を支援した、左翼系の支援団体の存在である。
土地を接収される農民の反対というのは解らないわけではないが、国家がタダで土地を取り上げるわけではなく、それ相応の代償があるわけで、そういう手当がある以上、何が何でも反対ということはあまりにも欲張りすぎると思う。
ところが左翼系の人々、あるいは進歩的文化人といわれるような人たちは、土地を取られる側を無条件で弱者と認識し、何でもかんでも国家権力の側が悪者だという構図で語るので、世の中が混乱に陥るのである。
戦後の民主主義の世の中で、国としても国民全体の至福を追い求めなければならないわけで、当時の状況下で羽田空港が手狭になったので何処かに代替の空港を作らねばならない、ということは国民的欲求であったはずだ。
そんなことは左翼系であろうとなかろうと、進歩的文化人であろうとなかろうと、解りきったことだが、こういう場面になると弱者の側に身を置くことが格好いいわけで、人々の賛同を得やすい。
土地を取られる側に、「お前たちは我慢せよ、国の施策に協力せよ」とは、前の戦争の反省からも、誰でもが言い難いし、無慈悲に聞こえるし、人でなしの鬼に見えるわけで、損な役回りは誰でもが嫌な筈である。
だから誰もそういう言い方はしないので、勢い世の中は全部反対かのように見える。
ならば国民の潜在的な欲求としての「新しい空港が必要だ」という施策は、誰がどう推し進めるのだということになる。
土地を取られる側が反対するのは当然のことであるが、世の知識人という人たちは、そういう人たちに対して、「新しい空港はこの先の日本にとっては必要なのだから何とか理解してくれ」と説得するのが人としての道なのではなかろうか。
特に知識人、文化人、教養人と言われるような人ならば、時代の推移に伴って羽田が手狭なことも理解できるし、新しい空港が必要なこともわかるし、地元民の反対の気持もわかるとしたならば、その反対運動を懐柔する方向に世の中の意見を集約すべきが、知識、文化、教養を備えた人たちの使命なのではなかろうか。
反対することは何時でも何処でも誰でも安易に出来る。
この時の日本の知識人、あるいは文化人というのは、成田闘争において反対派に肩入れしでいたが、それは人の成す人為的な施策に対して一番安易な民意の表現であったわけで、それはバカでもチョンでも出来ることであったわけである。
当時の知識人は、反対派を説得するという火中の栗を拾う危険を避けて、誰でも出来る安易な反対運動に現を抜かしたということである。
私個人としては成田闘争のことを考えると、日本の航空行政は羽田に集約して成田は廃港にすべきだと思う。
そして全面ラッカセイの畑にして、それを農民に返すべきだと思う。
如何なる国、あるいは如何なる民族でも、社会的なインフラ整備には反対運動が付きまとってきたわけで、そのインフラ整備が評価されるのは50年後100年後であることも珍しくない。
それはその土地に住む人のものの考え方が大きく左右するわけで、開明的な人々ならば出来たインフラを如何に使い切るかに知恵を出そうとするが、保守的な人々は何時までも恨みに思って、過去にのみ思考を巡らせることになる。
当然、結果は大きく差が開くことになる。
成田闘争で「先祖伝来の土地を国に取られてたまるか」という意気込みは究極のエゴイズムだと思う。
昔の大金持ちは金持ちであるが故に、社会的インフラ整備には積極的に協力した人もいる。
自分の土地が道路の建設に掛っているならば「ただで使え」とか、鉄道が通るなら「駅の土地は俺が出す」とか、社会的インフラ整備に寄与することが名誉であった。
それに引き換え、戦後の農地解放によって、貧乏人や今までの水飲み百姓が一応土地持ちになったので、その貧乏人根性で「俺の土地を取られてたまるか」という心理になったものと推察する。
戦後の日本では、こういう我儘な人間を攻撃するとイジメと言われて、そういうことをしてはならないことになっているので、個人の我儘は何処までもエスカレートすることになる。
こういう時に公正な判断をすべきが本来ならば司法ということになるのだろうが、この司法も案外偏向していて、普通の基準よりも相当左に軸足を置いていることがある。
何でもかんでも国家や政府を悪人に仕立てておけば実に安易であるが、それでは国民の全体に薄く広く負担が被さってくるわけで、一人ひとりの個人の負担は解らず、誰もそれを負担と考えないので、何となくそれで通っているわけである。
最近はアジアにおいて大きな空港が次から次と建設されて、それらがハブ空港として機能し始めたが、日本は成田が中途半端なのでハブに徹しきれない面がある。
その事に鑑みて、前原国交相は成田と羽田の一元化運用といったわけだが、成田闘争を引き継いでいる成田空港は廃港にしてラッカセイ畑にすべきだと思う。
羽田を日本のハブ空港として、成田はピーナッツ畑に還元すべきだと思うが、一度出来上がったものはもう元には戻らないであろう。
成田闘争の反対派農民というのは、左翼乃至は全共闘の代理戦争を演じていたわけで、そういう意味からも馬鹿であったというわけだ。
アジアのハブ空港の建設はある意味で開発独裁であることは論をまたないが、独裁政治で強引に空港が出来上がったとはいえ、将来恩典に浴すのは独裁を許した彼ら自身だと思う。
飛行機の話に戻すと、世間ではあまり話題にならないが、飛行機が飛ぶということはパイロット一人の力ではないわけで、今の飛行機、特に旅客機にとっては、航空管制抜きでは存在さえしえない。
ところが、この管制官には全く陽が当っていない。
パイロットはちやほやされるが、そのパイロットにあれこれ指示しているのが航空管制官だ、ということはあまり知れていないのではなかろうか。
大方の人がパイロットというのはバスの運転手と同じように、一人であの飛行機を飛ばしているものと思っているのではなかろうか。
管制官の仕事も実は大変な仕事であるが、世間ではあまり評価されていないような気がしてならない。
確かに、飛行機は日本以外の国ならば軍であったり、民間であったり、警察、消防というような組織に所属するが、管制する方の管制官は国家公務員なわけで、その待遇は大きく違う。
しかし、世の中の移り変わりというのは実に妙なもので、民間航空会社のパイロットが肩で風を切って歩いていたものが今ではすっかり影をひそめて、代わって公務員の方が景気が良いわけで、その意味から航空管制官も優遇されているかというと案外そうでもなさそうだ。
ここで問題となってくることが、日本航空の経営問題であるが、日本航空が経営難に陥るなどということは旧世代の人間には考えられないことだ。
以前、パンアメリカンという航空会社があったが、これも何時の間にか無くなってしまっていた。
航空会社の倒産というのは一体どういうことなのであろう。
日本航空のサービスは定評があったが、結果的に見てそれが経営の足を引っ張っていたということなのであろう。
それともう一つは給料の高さにあったに違いない。
日本航空というのは、最初は半官半民の事業であったが、それが民間になった当初から社員の給料が高すぎたわけで、給与体系そのものが時代遅れというよりも、経営感覚が時代錯誤に陥っており、良いとこ取りをした結果ではないかと思う。
日航程の企業体ならば、優秀な人材が内部にいくらでも居そうなのに、経営危機に陥るということは一体どう考えたらいいのであろう。
結局、企業というのは人で成り立っているので、良い企業というのは人を如何に上手く使っているかということなのであろうか。
民間企業であるからには、利潤追求は至上命令で、その目標遂行のために人を如何に使うか、ということなのであろう。
単純に考えれば、売り上げを伸ばしてコストを下げれば利潤は出てくるが、売り上げが伸びない要因、コストが下がらない要因を掘り起こす人間が出てくれば利潤は出せるということになる。
こんなことは誰でも解っていることだが、それが何ゆえにこういう優良企業で出来なかったのだろう。
ここで考えなければならないことは、日本航空は優良企業でなかったから、経営危機に陥ったという現実であって、我々が優良企業だと勝手に思い込んでいたことが過ちである。
外から見ると優良企業に見えていたが、内情は少しも優良ではなかったからこそ、経営危機に陥ったということである。
こういうシーンを見ても、現場は一生懸命働いていると思うが、そういう他人の努力の上に胡坐をかいていた経営トップの怠慢にあったのではなかろうか。
パイロットでもスチュアーデス、今はキャビンアテンダントというらしいが、こういう現場は、それこそ一生懸命仕事をしていたと思う。
ここで本題に戻ると、今の旅客機は200人300人という乗客を一気に運んでいるが、これはいわゆる飛行機利用の大衆化であるわけで、こうなるとお客の中にも不届きな人間が紛れ込むことになるのもいた仕方ない。
よど号ハイジャック事件とか、9・11事件は例外としても、日常的に厄介なお客というのもあるに違いない。そういうお客のあしらいもスチュアーデスの大きな役目であって、慣れてはいるであろうが、その分人間の本質が丸見えなのであろう。
ところが飛行機というのは途中で止まるということが出来ないので、トイレでの喫煙などという行為は、甚だ厄介なことであろうと察せずにはおれない。