ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『ロケットと深海艇の挑戦者』

2010-02-20 07:22:11 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「メタルカラーの時代6『ロケットと深海艇の挑戦者』」という本を読んだ。著者は山根一眞。
この著者の「メタルカラーの時代」というシリーズは出版当初はずいぶん読んだ。
今でも物置の中にはそのハードカバーのものが2、3冊あるはずだ。
当初は週刊誌に連載されたものが再編されてハードカバーの本として出回った。
実に良い内容のもので、日本の技術を礼賛する内容のものであった。
まさしく日本の高度経済成長を下支えする技術の紹介という内容であった。
著者が、それぞれの業界のトップ、あるいは第一人者にインタビューして、その技術の奥義を披露するという内容のものであった。
で、この編ではそれが宇宙ロケットと深海艇にスポットが当てられたというわけだ。
その後、日本経済はアメリカのリーマンショックに起因する不況の波をモロに被り、低迷し続けて今日に至っているが、これはある意味で人々の驕りの結果だと私は思う。
資本主義というものが頂点にまで上り詰めたということでもあろう。
人間の究極の願望は、労せずして富を得ることだと思う。
人々が額に汗して働くことを卑下し、金に金を生ませることを夢見た成れの果てだと思う。
人間が富を追い求めるということは人類の基本的な存在意義ではあろうが、この地球上に生きる人間が全て同じ夢を追い求めている限り、そこには貧富の差は歴然と存在し続けるわけで、それを最近の日本人は否定するかのような発言が幅を利かせている。
アメリカで起きたリーマンショックというのは、その究極の姿であったわけで、日本でもその錬金術に魅せられて、その後を追ったものが続出した。
しかし、こういう生き方の否定を、183年前、カール・マルクスが「共産党宣言」で世に問うているわけで、その壮大な実験を経た国もあるが、最終的には人間の生き方というのは、自然の法則に回帰せざるを得なかった。
その自然の法則こそが資本主義という生き方であって、この地球上の人間は、等しく富を追い求める存在であるということに行き着いた。
そのことは同時に、人間の住むこの世には、富むものとそうでないものが共存するということに他ならず、貧富の差というものは解消しきれないということである。
しかし、個々の人間の生き様というのは、必ずしも富だけを追い求める者ばかりではなく、自分の生きる目的とその価値を、自分自身の夢の実現に見出している人も、かなりの数存在するということをこの本は指し示している。
ただし、そういう人たちも、個人でたった一人で、唯我独尊的に自分の目標にがむしゃらに立ち向かっているわけではない。
やはりそういう目標の追求も、組織の中の一員として、組織の命題の一環としての目標であるわけで、ただ単に個人の夢であったわけではない。
現代という時代は、たった一人の個人では克服できない要素があまりにも多くあって、個人の力だけではなんとも太刀打ちできない。
そこで登場してくるのが組織力であって、この組織というものは我々のイメージとしてはピラミッド型の三角形であるが、この三角形の組織が機能的に動ける状況というのは、横の連携や縦の連携がうまく機能しなければ意味が無いわけで、一言でいえば総合力だと思う。
日本の技術が世界的に秀でているのは、この技術の領域で優れているということであって、これが政治の状況になると、いわゆる縦割り行政になって、横の連携が機能していないということになる。
技術というのは「親亀の上に子亀を乗せて」という風に、下から上に段々と積み重ねていくもので、いくつかの課題をブレークスルーしながら前に進むものだと思う。
技術者の喜びというのは、不可能と思われていた課題に、勇猛果敢に挑戦し、艱難辛苦の末に、その課題をブレークスルーした時の気分こそ生き甲斐であったのではなかろうか。
よく言われるように、あの戦争中に活躍したゼロ戦の開発は、軍部の過酷な要求に対して、技術者がそれをクリアーすべく知恵を絞って、それこそ乾いたタオルを絞るようにアイデアを絞りだした結果である。
日本の技術はそういうものの上に成り立っているに違いない。
ここでの技術者の心構えとしては、金儲けという考えは微塵も紛れ込んでいない筈で、ただただ目の前の課題を克服することにのみ、精神を集中させていたに違いない。
戦後の復興を成した世代は、先の大戦の犠牲者であると同時に、ただただ金儲けにのみに専念していたわけではないが、戦後の第2世代、第3世代になると、最初から恵まれた環境の中で生育したので、繁栄の後に血の滲む努力があったことに思いが至らず、ただただ金さえ儲ければ人生は幸せだと勘違いしたところにバブルの崩壊があったものと思う。
「メタルカラーの時代」で山根一眞がインタビューした人たちは、それぞれに組織のトップとして栄誉を得た人たちであったが、日本の技術というのは、この人たちだけのものではなくて、まだまだ活字にはならない大勢の人たちによって支えられていると思う。
彼の著作に登場した人たちは、そういう下支えした人たちの代表であって、個人プレーの成果ではない筈である。
今年の2月(平成22年)、民放のプライムニュースという番組に伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長が出演していたが、彼は商事会社の人間でありながら、日本の技術を賞賛していた。
彼の言い分によると、日本の技術は中間層の知的優秀さにあると述べていた。
その彼の言葉の中に、技術というのは日進月歩で進化しているが、それは同時に生まれた瞬間から陳腐化するということでもあるので、常に先頭を走り続けなければならないと述べていた。
もっともな論旨だと思う。
技術者は常に技術の切磋琢磨を考えているが、企業家とか経営者というのは、その技術を金儲けにつなげようと考えるわけで、それはそれで資本主義社会の中では当然のことである。
戦後から今日まで、日本とアジア諸国では全ての面で大きな格差があった。
つまり、日本では人件費が高いがアジア諸国では人件費が安かったので、もの作りが賃金の安いアジアにシフトしていった。
その時に、もの作りに要する機械と、それを使い切るノウハウも共にアジアに流れたわけで、アジア諸国では、それを元に経済的に大きく飛躍した。
こうなると短時間の内に日本のライバルにまで浮上するようになったわけで、日本のもの作りは相対的に沈下するようになった。
これがいわゆる産業の空洞化といわれる現象で、伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長に言わせると、そんなことは自然の流れであって、当然の成り行きだということだ。
だからこそ日本は技術の先頭を走りきらねばならないわけで、目の前にぶら下がったニンジンを追う馬に徹しなければならないということだ。
こういう状況下で、我々の若い世代が、額に汗して働くことを拒み、乾いたタオルを絞るような思考の絞り込みを拒み、金、金と金を追いまわす体たらくを見るのは如何にも自堕落な印象を受ける。
この本の著者、山根一眞は、もの作りにこだわっているから「メタルカラーの時代」なのであろうが、もっと大きな視点に立って考えてみると、戦後の我々は公に殉ずるという意識が極めて希薄だと思う。
何も戦時中の滅私奉公とか勤労奉仕を賛美することはないが、いつの世になっても、公に殉ずる精神・気持ちというのは人間社会の基盤でなければならないのではなかろうか。
その意味で、鳩山首相の脱税などもっての外で、「知らなんだ」などという言い分が通るわけないではないか。
公に殉ずるということは、公共の福祉に貢献するという意味であって、必ずしも死ななければならないということではないと思うが、公共の福祉に貢献するということは、今に生きる我々には極めて大事なことだと思う。
公に殉ずというと何となく大げさに構えがちであるが、公共の福祉に貢献するということは、日常生活の中でほんのささやかな善意の積み重ねで済むわけだから、誰でも何処でも出来ることである。
この例のごとく、人間の精神の領域は社会のソフトウエアーであろうが、技術というのはあくまでもハードウエアーなわけで、この方面では日本人は世界的に見て極めて優秀であることは論をまたない。
しかし、そうはいうもののやはり民族の特性というのは有るわけで、その第一は我々は未知の荒野を切り開くフロンティア・スピリットに欠けるという面ではないかと思う。
眼の前に見習う見本がある場合とか、実現不可能な命題を示されたときは、敢然とその克服に闘志を湧き立たせ情熱を燃やすが、自分が先頭になってしまって、「さてこれから何をどうするか」ということになると自分を見失ってしまう。
何処を向いて、何をどうしたらいいのか解らなくなってしまうわけで、その場で足踏みをしている間に、アジアの勢力に足元を掬われてしまうことになる。
17、8日と久しぶりに東京に出てみたが、あまりにも外人が多いので、果たしてここが日本かと見まごうばかりであった。
世の中がグローバル化したので、東京に外人が多くても驚くにはあたらないが、中でも中国人の進出が多いのにはいささか面喰った。
「中国は今景気が良い」とはメディアが報ずるところであるが、この景気の良い中国でも、中国人のかかわった技術革新というのはあり得ないわけで、これは一体どういうことなのであろう。
昔は軍事技術が民間の技術を牽引したといわれていたが、今では民間の技術が軍事技術に応用されつつあるようで、技術の流れが逆転してしまった。
最もホットな話題としては、日本のゲームソフトをアメリカの軍部が大量に買い付けたとか、北朝鮮が同じことをしたとか言われているが、日本のコンピューターもハード面ばかりではなく、ソフトの面でも世界を凌駕しつつあるように思われてならない。
日本が世界に誇りうる資産は、人間の頭脳ではないかと思う。
コンピューターのソフト開発が話題になった時、インド人の数学の能力が大いに賞賛されたが、基本的にはインド人の生き方そのものが世界から受け入れられないと思う。
そこに行くと日本人の知識とか頭脳というのは、世界の欲求に応えるのに十分なキャパシティ―を秘めていると思う。
アジアの中で、中国人でもインド人でも所詮は自分たちの持つナショナリズム、あるいはアイデンテイテイ―を捨て切れずに、民族回帰に尽きてしまうわけで、至福の帰属が我が身と家族に戻ってきてしまうので、公共の福祉に還元されずに終わってしまう。
基本的には個人の富の蓄積に終わってしまうわけで、彼らはそのためにこそ身を粉にして働くということになる。
21世紀の科学技術の中に、中国人の考案したシステムがあるかといえば皆無だし、インド人の考案したシステムがあるかといえば、これも皆無なわけで、その点日本人は独自にそういうシステムを考案し、構築しているわけで、その点は世界に誇っていいと思う。
ただし残念なことに、それは技術という枠の中での話で、その成果を如何に活用するか、という政治の絡む話になると俄然生彩が衰えてしまう。
もの作りの現場で、そのための機械とノウハウをアジアに移転するとき、民間レベルでただただ経済の枠組みの中だけでそういうムーブメントが起きたが、それを政治的に如何に生かすか、という発想は政治とか外交の面からは一切出てこなかった。
それを行えば経済の管理、ある種の管理貿易につながりかねないという危惧は当然あって当たり前であるが、そういう心配そのものが全く無かったところにこそ問題がある。
この本に述べられているロケットの開発でも、軍事利用ということは爪の垢ほども交じっていないわけで、純粋無垢の民需品という位置付けで語られているが、技術者の視点ではそれこそが正論であり、正当性を担保するものであるが、政治家、あるいは外交官、あるいは安全保障にかかわるものの視点からは、複合的な視点もあってもいいと思う。
ここまで掘り下げて考えると、それこそ行政の縦割りが衝立として立ちはだかってくるわけで、幸か不幸かそれだからこそ日本は平和国家であるということも言える。
つい先日テレビを見ていたら、今中国では春節というわけで、中国の正月休みらしく、中国人が大勢秋葉原で買い物をしている光景を映していた。
彼らが買って帰るものには、電気炊飯器や電気かみそりの類であったが、こんなものが中国で大量生産できないのか不思議でならなかった。
先に出した伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長の話によると、出来ることはできるが歩留まり品の確率の問題だと言っていた。
つまり、不良品が10分の1か、1万分の1の違いだということだ。
こう言われると、日本製品が世界で高い評価を得ている理由が納得できる。
歩留まり品、つまり不良品を市場に出さないという信念が、日本製品の評価の源にあったわけだが、その神話が崩れた点が、今回のトヨタのリコール問題の根源である。
私はトヨタから金をもらって弁護するわけではないが、新しい技術には初期不具合というものが潜んでいることも事実であって、マイクロソフトでも同じような不具合があったことを考えれば、トヨタだけを責めるのも酷な面がある。
新しく開発した技術には、十分に練れていない部分があることは否めないが、それを如何にカバーするかは、企業・経営者の見識にかかわってくるわけで、ここで問題とすべきは企業のコンプライアンスである。
それにしても、旧ソビエットや中国で車の生産が出来ないというのも実に不思議なことである。
21世紀の今日では、それなりに大量生産も可能になったであろうが、それは我々の50年前の姿であるわけで、今頃それが出来たとしても、我々としては何ら驚異ではない。
旧ソ連、今のロシアでも、今日に至っても乗用車の大量生産は出来ていないわけで、戦車やミサイルの大量生産が可能なのに、なぜ乗用車のそれが出来ないのであろう。
自由主義国では軍事技術が民需品の生産に波及してくるのが常態であるが、これらの国では何故にそれが起きないのであろう。
そこにはきっともの考え方の相違があるものと思っていい。
ならば、ものの考え方がどういう風に違うのであろう。
その一番顕著な例が、我々日本人はもの作りには長けているが、政治的には何時までたっても12歳の子供の域を出るものではないということに表れていると思う。
政治的に極めて不如意な状態というのは、今の鳩山政権の普天間基地の移転の問題に顕著に表れているわけで、いくら自民党政権のしたことが気に入らないからと言って、一度取り決めた計画を白紙に戻すような思考が受け入れらる筈が無いではないか。
ただただ人気取りで、出来もしないことをさも出来るかのように喧伝すること自体が、政治的に12歳の子供の振る舞いに尽きる。
民主主義というものが、少数意見を内包し、全部の至福を成すものではない、という原理が全く分かっていないということに他ならない。
こういう基本の中の基本がわからず、わかろうともしないものが、国家の舵取りをしている現実は、実に由々しき問題であるが、今までの日本の指導者の全てが、その意味では不適格者であったということになってしまう。
そのことが日本の政治が3流という現実なのであろう。