読む本が尽きて書棚を漁っていると片隅にこの本があった。
『食べものは医薬・「医心方」にみる4千年の知恵』
著者は槇佐知子。
この本も何時頃購入したものかさっぱり記憶にないが、ただはるか昔、現役のころ、車通勤していて、車の中でこの本の作者、槇佐知子さんのラジオでの話を聞いたことがかすかな記憶にある。
車の中で、我々が普通に食べている野菜の漢方的な効用の話を聞いて、俄然興味が湧き、その後この本を買い求めたに違いない。
人間が生きるということは、そのこと自体が人間の不思議であったように思えたものだ。
「医心方」そのものは日本人の著作となっているようだが、食に対する興味という意味からすれば、当然、中国文化の影響を受けているわけで、それを今日の日本人にも読める形に再編したのが槇佐知子という女性であった。
この本はその本の内容を斟酌してエッセイ風にまとめたもので、読み物としては軽いものだが、読んでいて実に楽しい。
人がものを食べる。その食べるものは意識するもしないにかかわらず、人間の体にはなにがしかの効用があるに違いない。
ただ腹が減ったから腹の中に何かを詰めればいいというものではない筈である。
地球上に住む人間は、地域によって、その生い立ちによって、食べるものはそれぞれに違っているが、人が口から食べものを体の中に入れる以上、それは人間の体にとって有用な働きがあるに違いない。
その意味からすれば、人間が食べれる物というのは何かしら体にとって良い成分を含有しているとみなしていいと思う。
我々日本人は米を常食としているが、西洋人はパンを常食としているわけで、米にしろパンにしろ、畑で出来たものをそのまま食べているわけではない。
我々が古の昔からよく言っているように、我々の常用している米は、食べるまでに八十八の手間がかかっているといわれている。だから作る人の事を考えて丁寧に感謝して食べよ、と戒められているが全くその通りだと思う。
同じことはパンについても言えているように思う。
二、三日前、家内のアッシーで近くのスーパーに行ったら、米の売り場の脇に、アワ、ヒエ、キビがガラスのケースに入れられて展示してあった。
物の本では、昔の日本の農民は米を作っていても米を食べることが出来ずにこういうものを食べていたとなっているので、そういうものの存在は知っていたが、実物にお目にかかったことがなかった。
この三種類の穀物は実に粒子が細かく、果たしてこれをどういう風にして食べるのか不可解であった。
昔の日本人がアワ、ヒエ、キビを栽培していたということは、水田でなくとも栽培できるから非常食用にそういうものを作っていたのであろうか。
ソバというのも、その実はじつに小さくて、しかも痩せた荒れ地で出来るが故に山奥で栽培され、その実を粉に挽いて、それを蕎麦というかたちで現代人は楽しんでいるが、もともとは痩せた土地の非常食という位置づけてあったのではないかと勝手に想像している。
米にしろ、麦にしろ、アワ、ヒエ、キビにしろ、人間が食物として摂取する部分は実に細やかというか、穂の先の実を食べているわけで、実に不経済のような気がしてならない。
人間の生存の歴史が正確に何万年かは知らないが、人間の経験則で、ある限られた植物の穂のみを食べてきたのであろう。
イネでも麦でも、幹の部分が食べられないということは、人間の歴史の経験則から如何に工夫しても食べられなかったということなのであろう。
イネでも麦でも、背丈約1mの幹の、先のほんの先っぽの部分のみを脱穀して食べているわけで、稲ぜんたい麦ぜんたいを考えると実に不経済に見えるが、その部分しか人間の体が受付なかったということなのであろう。
同じことがアワ、ヒエ、キビにも言えるわけで、あの米粒よりも小さな粒をかき集めて我々は食べていたわけで、本体の幹の部分は如何にしても食べることが不可能であったということなのであろう。
穀物に比べると野菜というのはそれこそ全体を丸ごと食べれるが、これがまた不思議なことに、野菜をいくら食べても、ご飯やパンの代わりにならないのも不思議でならない。
昨今ではダイエットの関係でベジタリアンと称して野菜を食べることが奨励されているが、かといって野菜だけを食べて穀物を一切摂らないとなると新たな弊害が出てくるわけで、人間の体というのは実に気難しい存在のようだ。
こうして改めて穀物というものを考えてみると、米にしろ小麦にしろ、穀物を作るということは実に大変な作業で、人間は自らの生存のために、もっと効率のいい穀物を開発できなかったのだろうか。
一本の稲の先に米粒が幾つ結実しているのだろう。
一本の小麦の幹に幾つの麦が結実しているのであろう。
しかもそれを取ってくるだけではまだ食べられないわけで、米ならば脱穀し、麦ならば粉に挽いてからでなければ食べられないわけで、その間のエネルギーの消費を考えると気が遠くなるような仕組みになっているではないか。
しかし、人間が米や麦を作るというのも実に不思議なことで、普通に作物というのは嫌地というものがあって、連作を嫌うものが多いが、米や麦という植物にはそれが全く無くて、毎年毎年同じところで同じように出来るというのも実に不思議なことだ。
こういう植物の習性を経験則から導き出したからこそ、人間はそれを常食としていたのであろうか。
この本の標題となっている「食べものは医薬」という言葉は現実そのものだと思う。
穀物にしろ副食品のオカズにしろ、人間が口から入れる食物は、その全てが体のためにはなにがしかの効用を持ったものに違いない。
ただの水でさえ適材適所にタイミングよく与えれば立派に薬としての効用を示すものと考える。
この本は「医心方」という日本の医学書の古典から導き出されたエッセイで成り立っているが、そもそも漢方というものも掘り下げてみれば結構面白そうだ。
私は極めて合理的な生き方を好むたちで、古い言い伝えとか古典というものには興味を示さない部類の人間であるが、この本を読んでみると漢方というのも奥が深くと面白そうに見えてきた。
私は近代医学を信じており、蛇の干物だとか、猿の腰掛などというものはどうにも眉唾物にしか見えないが、それは漢方の一部であって、全体を明示しているわけではないので、近代医学とは別の世界があるように思えてきた。
考えてみれば、漢方薬というのは、人間が長い歴史を経た中で得た知恵であり知識であるわけで、ある意味で経験則の集大成ということも可能だと思う。
科学技術による近代科学は学問に裏打ちさた理論によって構築されてはいるが、その理論が未来を先取りしている部分も大いにあるわけで、その事はリスクを最初から内包しているということでもある。
漢方薬は人間の過去の経験を踏まえて、その経験則からこういう場合にはこれこれの対応があるということを示唆しているわけで、最初の見立てが正しければそれに対応する処方が自ずと判明する。
以前、NHKのテレビ番組で『チャングムの誓い』というのが放映されたが、これは朝鮮王朝の宮廷内の権力抗争を描いたストーリーであったが、それに登場する宮廷料理というのはそのまま漢方薬の話にも通じていた。
それによっても、人間は病に対峙する際、どの薬草をどういう風に処方すればどういう効果が得られるか、ということを事細かく記録していたわけで、それは近代医学とはまた別の人間の英知だと思う。
そういう意味でこのテレビドラマを注意して見ていたが、そういう思いで身の周りを見てみると、我々の日常生活の中にも薬草というのはいくらでも存在する。
薬草というと、深山幽谷に分け入って探さねば見つからない、という先入観が先に立つが、自分の身の回りを注意して見るといくらでも見つけられる。
我々の身の回りの雑草の大部分が薬草のような気がしてならない。
例えば、ドクダミという草は白い花を咲かせる可憐な雑草であるが、どういうわけか便所の脇などに生えるので、その周りの印象もさることながら草自体も強烈な匂いを発散させるので忌み嫌われているがこれが立派な漢方薬なのである。
私自身も幼少のころオデキが出来た時、これを揉んで患部に貼り付け、それをはがす時、膿の芯が残らないように慎重に慎重に痛みをこらえてゆっくりゆっくりはがした記憶がある。
あとには大きな穴があいたが、日にちが経つとその穴も自然に隆起してわからなくなった。
それと、薬草というわけではないが、菜種油を広口瓶に入れ、その中にムカデを入れておくと、これが傷の治療に極めて効果的で、生傷の絶えない頃よく傷口に塗ったものだ。
この本の中にもビワの木の効用が説かれていたが、私の友人が子供の病気の治療に使うということで我が家にビワの葉を取りに来たことがある。
気良く分け与えたものの、彼の持ち帰った葉はタイサンボクの葉っぱであった。
ビワの葉とタイサンボクの葉はよく似ていると言えば似ているので、効果があったのかもしれないが、要するに「病は気から」というわけで信ずれば治るということなのであろう。
漢方というのはことほど左様に、病気と薬草の関係を経験に照らして集めた結果であるに違いない。
近代的な医療というのは科学的な考察による論理的な思考で、病というものを説きあかそうと試みているのであろうが、漢方は逆に過去の人間の経験から病に対する対処を突きとめるという手法のようだ。
その意味から考えると、人間は死ぬまで何かを食べ続けるわけで、人が口から入れる全てのものが医薬と関わり合っているに違いない。
そう考えると、今、巷に出回っているスナック菓子というのはなんとも恐ろしい代物ということになる。
普通に食べている野菜や穀物というのは、その構成物質そのものが医薬の根源を形造って、人間の生活維持にそのまま直結しているが、スナック菓子の構成物質は果たしてどこまでそういう要素を含んでいるのか分かったものではない。
ただ口に入れた時の食感が一時的な欲求を満たしているにすぎず、医薬に通じるものが何もないとしたらその効果はいずれ表れてくるに違いない。
そういうものでも一時的なオヤツである間はさほど問題にすることもなかろうが、そればっかり食べているとなると大きな問題となるに違いない。
『食べものは医薬・「医心方」にみる4千年の知恵』
著者は槇佐知子。
この本も何時頃購入したものかさっぱり記憶にないが、ただはるか昔、現役のころ、車通勤していて、車の中でこの本の作者、槇佐知子さんのラジオでの話を聞いたことがかすかな記憶にある。
車の中で、我々が普通に食べている野菜の漢方的な効用の話を聞いて、俄然興味が湧き、その後この本を買い求めたに違いない。
人間が生きるということは、そのこと自体が人間の不思議であったように思えたものだ。
「医心方」そのものは日本人の著作となっているようだが、食に対する興味という意味からすれば、当然、中国文化の影響を受けているわけで、それを今日の日本人にも読める形に再編したのが槇佐知子という女性であった。
この本はその本の内容を斟酌してエッセイ風にまとめたもので、読み物としては軽いものだが、読んでいて実に楽しい。
人がものを食べる。その食べるものは意識するもしないにかかわらず、人間の体にはなにがしかの効用があるに違いない。
ただ腹が減ったから腹の中に何かを詰めればいいというものではない筈である。
地球上に住む人間は、地域によって、その生い立ちによって、食べるものはそれぞれに違っているが、人が口から食べものを体の中に入れる以上、それは人間の体にとって有用な働きがあるに違いない。
その意味からすれば、人間が食べれる物というのは何かしら体にとって良い成分を含有しているとみなしていいと思う。
我々日本人は米を常食としているが、西洋人はパンを常食としているわけで、米にしろパンにしろ、畑で出来たものをそのまま食べているわけではない。
我々が古の昔からよく言っているように、我々の常用している米は、食べるまでに八十八の手間がかかっているといわれている。だから作る人の事を考えて丁寧に感謝して食べよ、と戒められているが全くその通りだと思う。
同じことはパンについても言えているように思う。
二、三日前、家内のアッシーで近くのスーパーに行ったら、米の売り場の脇に、アワ、ヒエ、キビがガラスのケースに入れられて展示してあった。
物の本では、昔の日本の農民は米を作っていても米を食べることが出来ずにこういうものを食べていたとなっているので、そういうものの存在は知っていたが、実物にお目にかかったことがなかった。
この三種類の穀物は実に粒子が細かく、果たしてこれをどういう風にして食べるのか不可解であった。
昔の日本人がアワ、ヒエ、キビを栽培していたということは、水田でなくとも栽培できるから非常食用にそういうものを作っていたのであろうか。
ソバというのも、その実はじつに小さくて、しかも痩せた荒れ地で出来るが故に山奥で栽培され、その実を粉に挽いて、それを蕎麦というかたちで現代人は楽しんでいるが、もともとは痩せた土地の非常食という位置づけてあったのではないかと勝手に想像している。
米にしろ、麦にしろ、アワ、ヒエ、キビにしろ、人間が食物として摂取する部分は実に細やかというか、穂の先の実を食べているわけで、実に不経済のような気がしてならない。
人間の生存の歴史が正確に何万年かは知らないが、人間の経験則で、ある限られた植物の穂のみを食べてきたのであろう。
イネでも麦でも、幹の部分が食べられないということは、人間の歴史の経験則から如何に工夫しても食べられなかったということなのであろう。
イネでも麦でも、背丈約1mの幹の、先のほんの先っぽの部分のみを脱穀して食べているわけで、稲ぜんたい麦ぜんたいを考えると実に不経済に見えるが、その部分しか人間の体が受付なかったということなのであろう。
同じことがアワ、ヒエ、キビにも言えるわけで、あの米粒よりも小さな粒をかき集めて我々は食べていたわけで、本体の幹の部分は如何にしても食べることが不可能であったということなのであろう。
穀物に比べると野菜というのはそれこそ全体を丸ごと食べれるが、これがまた不思議なことに、野菜をいくら食べても、ご飯やパンの代わりにならないのも不思議でならない。
昨今ではダイエットの関係でベジタリアンと称して野菜を食べることが奨励されているが、かといって野菜だけを食べて穀物を一切摂らないとなると新たな弊害が出てくるわけで、人間の体というのは実に気難しい存在のようだ。
こうして改めて穀物というものを考えてみると、米にしろ小麦にしろ、穀物を作るということは実に大変な作業で、人間は自らの生存のために、もっと効率のいい穀物を開発できなかったのだろうか。
一本の稲の先に米粒が幾つ結実しているのだろう。
一本の小麦の幹に幾つの麦が結実しているのであろう。
しかもそれを取ってくるだけではまだ食べられないわけで、米ならば脱穀し、麦ならば粉に挽いてからでなければ食べられないわけで、その間のエネルギーの消費を考えると気が遠くなるような仕組みになっているではないか。
しかし、人間が米や麦を作るというのも実に不思議なことで、普通に作物というのは嫌地というものがあって、連作を嫌うものが多いが、米や麦という植物にはそれが全く無くて、毎年毎年同じところで同じように出来るというのも実に不思議なことだ。
こういう植物の習性を経験則から導き出したからこそ、人間はそれを常食としていたのであろうか。
この本の標題となっている「食べものは医薬」という言葉は現実そのものだと思う。
穀物にしろ副食品のオカズにしろ、人間が口から入れる食物は、その全てが体のためにはなにがしかの効用を持ったものに違いない。
ただの水でさえ適材適所にタイミングよく与えれば立派に薬としての効用を示すものと考える。
この本は「医心方」という日本の医学書の古典から導き出されたエッセイで成り立っているが、そもそも漢方というものも掘り下げてみれば結構面白そうだ。
私は極めて合理的な生き方を好むたちで、古い言い伝えとか古典というものには興味を示さない部類の人間であるが、この本を読んでみると漢方というのも奥が深くと面白そうに見えてきた。
私は近代医学を信じており、蛇の干物だとか、猿の腰掛などというものはどうにも眉唾物にしか見えないが、それは漢方の一部であって、全体を明示しているわけではないので、近代医学とは別の世界があるように思えてきた。
考えてみれば、漢方薬というのは、人間が長い歴史を経た中で得た知恵であり知識であるわけで、ある意味で経験則の集大成ということも可能だと思う。
科学技術による近代科学は学問に裏打ちさた理論によって構築されてはいるが、その理論が未来を先取りしている部分も大いにあるわけで、その事はリスクを最初から内包しているということでもある。
漢方薬は人間の過去の経験を踏まえて、その経験則からこういう場合にはこれこれの対応があるということを示唆しているわけで、最初の見立てが正しければそれに対応する処方が自ずと判明する。
以前、NHKのテレビ番組で『チャングムの誓い』というのが放映されたが、これは朝鮮王朝の宮廷内の権力抗争を描いたストーリーであったが、それに登場する宮廷料理というのはそのまま漢方薬の話にも通じていた。
それによっても、人間は病に対峙する際、どの薬草をどういう風に処方すればどういう効果が得られるか、ということを事細かく記録していたわけで、それは近代医学とはまた別の人間の英知だと思う。
そういう意味でこのテレビドラマを注意して見ていたが、そういう思いで身の周りを見てみると、我々の日常生活の中にも薬草というのはいくらでも存在する。
薬草というと、深山幽谷に分け入って探さねば見つからない、という先入観が先に立つが、自分の身の回りを注意して見るといくらでも見つけられる。
我々の身の回りの雑草の大部分が薬草のような気がしてならない。
例えば、ドクダミという草は白い花を咲かせる可憐な雑草であるが、どういうわけか便所の脇などに生えるので、その周りの印象もさることながら草自体も強烈な匂いを発散させるので忌み嫌われているがこれが立派な漢方薬なのである。
私自身も幼少のころオデキが出来た時、これを揉んで患部に貼り付け、それをはがす時、膿の芯が残らないように慎重に慎重に痛みをこらえてゆっくりゆっくりはがした記憶がある。
あとには大きな穴があいたが、日にちが経つとその穴も自然に隆起してわからなくなった。
それと、薬草というわけではないが、菜種油を広口瓶に入れ、その中にムカデを入れておくと、これが傷の治療に極めて効果的で、生傷の絶えない頃よく傷口に塗ったものだ。
この本の中にもビワの木の効用が説かれていたが、私の友人が子供の病気の治療に使うということで我が家にビワの葉を取りに来たことがある。
気良く分け与えたものの、彼の持ち帰った葉はタイサンボクの葉っぱであった。
ビワの葉とタイサンボクの葉はよく似ていると言えば似ているので、効果があったのかもしれないが、要するに「病は気から」というわけで信ずれば治るということなのであろう。
漢方というのはことほど左様に、病気と薬草の関係を経験に照らして集めた結果であるに違いない。
近代的な医療というのは科学的な考察による論理的な思考で、病というものを説きあかそうと試みているのであろうが、漢方は逆に過去の人間の経験から病に対する対処を突きとめるという手法のようだ。
その意味から考えると、人間は死ぬまで何かを食べ続けるわけで、人が口から入れる全てのものが医薬と関わり合っているに違いない。
そう考えると、今、巷に出回っているスナック菓子というのはなんとも恐ろしい代物ということになる。
普通に食べている野菜や穀物というのは、その構成物質そのものが医薬の根源を形造って、人間の生活維持にそのまま直結しているが、スナック菓子の構成物質は果たしてどこまでそういう要素を含んでいるのか分かったものではない。
ただ口に入れた時の食感が一時的な欲求を満たしているにすぎず、医薬に通じるものが何もないとしたらその効果はいずれ表れてくるに違いない。
そういうものでも一時的なオヤツである間はさほど問題にすることもなかろうが、そればっかり食べているとなると大きな問題となるに違いない。