本町通りを西に向って歩いて行くと高速道路の400メイトルの程の手前に横浜天主堂跡ありましたので、「横浜もののはじめ考」横浜開港資料館編集・発行によると、つぎの様なことがらが記述されていました。
「聖心聖堂120年史」及び板垣博三氏の「横浜聖心堂創建史」によると、1857年(安政4年)ジラール神父がパリ外国宣教会から日本管区長代理に指名され、駐日仏代理公使ベルクールの通訳官として、1859年(安政6年)9月6日江戸に到着した。
1860年(万延元年)6月頃、横浜居留地に聖堂建設用地の借地権を取得する。まず司祭館の建設を進め、12月に完成、11月に来浜したムニク神父がここに住んで聖堂建設に従事した。翌年1月にはジラール神父も横浜に移る。同年末に聖堂が完成し、翌1862年1月12日(文久元年12月13日)献堂式が行なわれた。これが開国後初のカトリック教会の聖堂である。場所は80番、正式名称をEGLISE DU SACRE COEUR(Ohurch of the Sacred Heart of Jesus)日本名を聖心堂という。
1862年(文久元年)1月13日付けヘボン書簡には、「新しい教会堂は非常にきれいな目立った建物です。白く塗った壁、屋根の先端に大きな十字架がついています。「天主堂」と記した大きな3文字が前面に塗りつけられてあります」と記されている。「天主堂」という呼称も正式なものであったことがわかる。同年秋の「横浜はなし」には、「仏蘭西国にて、天主堂という小判形の堂を建、家根の上に志んちゅうの柱にて十文字の立柱あり」と記されている。
1月18日付け「ヘラルド」は「日本最初のキリスト教徒の公共的な礼拝所」として献堂式の模様を報じている。それによると、建築資金は教会から送られたほか、あらゆる宗派の居留民が自発的に献金したという。先のヘボン書簡には、「教会の土地はフランス公使から教会に寄進したもので、教会堂は大部分日本在留の外国人の寄附によって建てられたものです。寄附者の中にはプロテスタント信者も少なくありませんでした。」とある。
ジラール神父は、1867年(慶応3年)12月に死去し、マラン神父が赴任した。1906年(明治39年)山手44番に移転、震災後再建されたのが現在のカトリック教会である。
一方、「天主堂事件」として、ムニク神父の日誌によると日本人は聖堂見物に強い関心を示したが、群衆に迎合して立場を危うくすることを恐れ、出入り口の扉を閉めたままにしておいたという。しかし、内部見学の希望が増加する一方なので、方針を緩和したところ、日本人は1日中押しかけてきた。単なる見物ではなく、ジラール神父の話に熱心に耳を傾ける者もいた。事件が起きたのは、2月18日のことであった。聖堂を来訪した人々のうち約30人が検挙され、牢屋に入れられたのである。
この事件についての幕府側の記録は、「続通信全覧」類輯之部・宗教門、「横浜人民ノ内耶蘇礼拝堂参詣者捕縛一件」に収録されている。逮捕された人々は「説教とも不相心得」「見物心に立入候趣」ということで放免された。
フランス側には、「向後日本語を以て説法は止むべき旨」を申しいれている。2月24日付けヘボン書簡には、ジラール神父は「かなりよく日本語を話すことができるので、毎日、会堂を日本人のために開いておいて、その会堂の壁面にかけてあった沢山の絵画を日本人に説明し、キリスト教の真理を説明してテキストを彼らに与えました」と記されている。また、「横浜はなし」にも「天主生またる所より終迄の額掛りあるとの事なり。住僧名ジラールといふ。世界に三人の物知る人といふ。其説法とく事高声さわやかにして、能わかり、日本の大人の如くとなり」とある。聖堂壁面の絵画と神父の魅力が日本人を引き付けたのであろう。ムニク神父の日誌には、ジラール神父は「文字通り人々に囲まれ」たとある。神奈川奉行が恐れたのは、まさにこのような事態であったに違いない。との記述がありましたので、併せて投稿いたします。
(天主堂跡の碑)
(碑の銘板)
(建設当時の教会)
(当時の教会)説明文)
(天主堂の碑付近)
(同附近)
(現在のカトリック教会)
(現在のカトリック教会の門柱)
「聖心聖堂120年史」及び板垣博三氏の「横浜聖心堂創建史」によると、1857年(安政4年)ジラール神父がパリ外国宣教会から日本管区長代理に指名され、駐日仏代理公使ベルクールの通訳官として、1859年(安政6年)9月6日江戸に到着した。
1860年(万延元年)6月頃、横浜居留地に聖堂建設用地の借地権を取得する。まず司祭館の建設を進め、12月に完成、11月に来浜したムニク神父がここに住んで聖堂建設に従事した。翌年1月にはジラール神父も横浜に移る。同年末に聖堂が完成し、翌1862年1月12日(文久元年12月13日)献堂式が行なわれた。これが開国後初のカトリック教会の聖堂である。場所は80番、正式名称をEGLISE DU SACRE COEUR(Ohurch of the Sacred Heart of Jesus)日本名を聖心堂という。
1862年(文久元年)1月13日付けヘボン書簡には、「新しい教会堂は非常にきれいな目立った建物です。白く塗った壁、屋根の先端に大きな十字架がついています。「天主堂」と記した大きな3文字が前面に塗りつけられてあります」と記されている。「天主堂」という呼称も正式なものであったことがわかる。同年秋の「横浜はなし」には、「仏蘭西国にて、天主堂という小判形の堂を建、家根の上に志んちゅうの柱にて十文字の立柱あり」と記されている。
1月18日付け「ヘラルド」は「日本最初のキリスト教徒の公共的な礼拝所」として献堂式の模様を報じている。それによると、建築資金は教会から送られたほか、あらゆる宗派の居留民が自発的に献金したという。先のヘボン書簡には、「教会の土地はフランス公使から教会に寄進したもので、教会堂は大部分日本在留の外国人の寄附によって建てられたものです。寄附者の中にはプロテスタント信者も少なくありませんでした。」とある。
ジラール神父は、1867年(慶応3年)12月に死去し、マラン神父が赴任した。1906年(明治39年)山手44番に移転、震災後再建されたのが現在のカトリック教会である。
一方、「天主堂事件」として、ムニク神父の日誌によると日本人は聖堂見物に強い関心を示したが、群衆に迎合して立場を危うくすることを恐れ、出入り口の扉を閉めたままにしておいたという。しかし、内部見学の希望が増加する一方なので、方針を緩和したところ、日本人は1日中押しかけてきた。単なる見物ではなく、ジラール神父の話に熱心に耳を傾ける者もいた。事件が起きたのは、2月18日のことであった。聖堂を来訪した人々のうち約30人が検挙され、牢屋に入れられたのである。
この事件についての幕府側の記録は、「続通信全覧」類輯之部・宗教門、「横浜人民ノ内耶蘇礼拝堂参詣者捕縛一件」に収録されている。逮捕された人々は「説教とも不相心得」「見物心に立入候趣」ということで放免された。
フランス側には、「向後日本語を以て説法は止むべき旨」を申しいれている。2月24日付けヘボン書簡には、ジラール神父は「かなりよく日本語を話すことができるので、毎日、会堂を日本人のために開いておいて、その会堂の壁面にかけてあった沢山の絵画を日本人に説明し、キリスト教の真理を説明してテキストを彼らに与えました」と記されている。また、「横浜はなし」にも「天主生またる所より終迄の額掛りあるとの事なり。住僧名ジラールといふ。世界に三人の物知る人といふ。其説法とく事高声さわやかにして、能わかり、日本の大人の如くとなり」とある。聖堂壁面の絵画と神父の魅力が日本人を引き付けたのであろう。ムニク神父の日誌には、ジラール神父は「文字通り人々に囲まれ」たとある。神奈川奉行が恐れたのは、まさにこのような事態であったに違いない。との記述がありましたので、併せて投稿いたします。
(天主堂跡の碑)
(碑の銘板)
(建設当時の教会)
(当時の教会)説明文)
(天主堂の碑付近)
(同附近)
(現在のカトリック教会)
(現在のカトリック教会の門柱)
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