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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

山手80番館遺跡について

2016-05-28 09:02:48 | 日記
 元町公園にあるプール脇の階段を上がって行くと途中左側にレンガ造りの異人屋敷跡がみられる。それは、ブラフ溝記念碑の斜めしたあたりにある。ここの案内版があったので、MOTOMACHI140年史編集・著者元町歴史編さん委員会によると次のように記載されている。
 この赤煉瓦構造物は、関東大震災前の異人館遺跡で、震災当時はエリスマン夫妻の住居となっていたところです。
 この一帯は、かつての外国人居留地の中心地で、多くの外国人住宅のほか、学校、病院、劇場、教会など西洋建築がたちならんで、「異人館のまち」をつくっていましたが、今日なおその面影をそちらこちらに残しています。
 本遺跡は、煉瓦壁体が鉄棒によって補強されており、耐震上の配慮がなされていましたが、床部のせりあがりや壁体の亀裂が随所にみられ、関東大震災による被害状況を物語っています。現在、地下室部分を残すだけですが、浄化槽も備え、古き良き横浜の居留外国人の華やかな暮らしぶりをうかがいしることができます。と記載されていましたので、投稿いたします。
 「下に掲げた写真」の両わきのタイルは、遺構から出土したものを複製しました。

(洋館についての標示版)

(居留地は位置図)

(横浜の朱たる歴史跡)

(洋館の平面図)

(ようかんの)

(洋館の痕跡)

(復元したタイル)

(復元したタイル)

横浜製鉄所跡の碑について

2016-05-21 08:42:01 | 日記
 JR京浜東北線石川町駅を下車して関内方向に100メートルほど歩くと「横浜製鉄所跡の碑」があったので、神奈川県史近代現代偏によると次のような記述があったので、投稿いたします。
 元治元年(1864)目付栗本瀬兵衛門は、参政酒井飛騨守に招かれ、幕府海軍の帆船翔鶴丸の修理をフランス人技師に頼んでくれるように懇請された。栗本は交遊のあったカシュン書記官やその筋から面識のあったフランス駐日公使レオン・ロシュに信用があったからである。栗本はすぐ横浜へ至りロシュに依頼したとところ、ロシュはフランス東洋艦隊提督ジョーライスの意見をきき、士官ドロートルや職工を十数人派遣し、機関の修繕や修理に協力した。
 その工事の交渉にあたっていた栗本が関税からの帰途、騎馬であとを追ってきた勘定奉行小栗上野介から呼び止められ、相談を受けたのが、先年佐賀藩から幕府に献上された蒸気船用諸機関一式の利用についてであった。
 小栗の話では、献上機関の三分の二は、横浜港の石炭庫に運ばれ、残りは長崎港にあるが、この機械を活用して相模の狢ケ湾(三浦群長浦湾)にドックや製鉄所を建設しようとしてすでに測量まで行ったけれども、その方面に熟練者がいないため企画倒れに終わった。小栗は、栗本に翔鶴丸を修理するのに功のあったドロートルなどを使って長浦湾でドックを建設するようにと頼んだのであった。
 栗本はただちに小栗を伴い、ロシュを訪れ意見を求めたところ、公使はジョーライスの助言によりドロートルよりも旗艦セミラミス号の蒸気士官ジンソライを推せんした。佐賀藩献上機械を鑑定した結果、これらの機械は、全体に小型であり馬力も小さいので小修理には適するが、ドックを造るような大修理工事には向かないので、むしろ横浜近傍に据え付け小船の修理に使用すれば便利であろうと報告した。
 栗本は小栗と相談し、フランスの友好的な態度に信頼し、その技術をもとに、鍋島閑艘の意志を生かしてその献上機械で艦船修理工場をつくることに決めた。長崎に残っていた機械も全部横浜に取り寄せ、ジンソライの調査検分を経て建設のはこびになったのが、横浜製鉄所である。
 慶応元年(1865)2月横浜本村を選び横浜製鉄所は起工され、同年8月完成した。慰臨丸遺米使節がアメリカから購入してきた工作機械をも加えて据え付け、艦船修理とともに工業伝習をもあわせて目的とし、フランス技師に依存するので、ドロートルが首長に就任した。日本側の担当者はそれまでの因縁から栗本瀬兵衛が任命された。などの記載がありましたので、投稿いたします。
 なお、平行して水深の深い横須賀に本格的なドック建設の計画が進められていることを申し添えます。

(横浜製鉄所跡の碑)

(横浜製鉄所跡の碑周辺の背景)

(横浜製鉄所跡の碑周辺の背景)

西洋歯科医学勉学の地」・「我国西洋歯科医学発祥の地」碑について

2016-05-14 08:48:06 | 日記
 JR桜木町駅の海側の出口を出て、桜木町郵便局の横を流れる大岡川を渡る弁天橋と大江橋の中間に、同川を渡る歩道僑があり、これを渡ると右側に、社団法人神奈川県歯科医師会の会館の前に「我国西洋歯科医学発祥の地」「西洋歯科医学勉学の地」碑かあったので、「横浜と医学の歴史 発行横浜市立大学一般教育委員会」によれば次の様な記述があったので、投稿いたします。
 わが国において歯科医学がいつの頃から始まったかは未だ解明されていない。日本においては、朝鮮半島や中国大陸との交流が開始され、かの「地典籍」が伝来されるにおよんで仏教と共に医術も渡来した。
 仏教の伝来と普及はわが国の医術にも大きな影響を与えた。奈良時代、四天王寺に敬田・悲田・療病・施薬の4院が置かれ、興福寺には悲田施薬の2院が設けられて、医術は朝廷の慈善事業・社会福祉事業の一環として仏教の興隆に相呼応して広まっていった。そして仏教の浸透と共に徐々に一般庶民へと普及していったのである。
 日本に於いて医事衛生が制度面から整備されるようになったのは、大宝律令の制定以降のことである。唐に倣ったこの制度は文武天皇の大宝元年(701年)8月に制定され現存する最古の法令であるが、この中で医療についても詳細に規定している。その骨子は医療の国営化で、官医を諸国に派遣して一般の医療に従事させる、とある。更には、宮内省の典薬療が医術を掌り宮内省の内薬司は専ら御薬を司る、との記述や医術には体療科(内科)・創腫科(外科)・少小科(小児科)・耳目口歯科の区分があり医師を以ってこれに当らしめる、ともしている。
 医師の教育と普及に関する記述もあり、「医博士は医人中よりその術優良なるものを選抜し、医生は医人の子弟より採用。毎年医生20名を採用し、体療科12名、創腫科3名、少小科3名、耳目口歯科2名として、その修業年限は、体療科7年、創腫科・少小科5年、耳目口歯科4年を専攻」としている。
 この制度は、保元平治の乱の頃まで全国レベルで継続して行くが、武家の台頭と共に朝廷の政治的影響力が次第に弱体化していくにつれて衰退し、封建制度の下では近畿地方の一部に僅かに残るのみとなった。その後。耳目口歯科は耳目と口歯の2つに別れ、歯科が歴史上はじめて独立し、口歯科或は口中科として専門医の立場を確立するのである。
 西洋歯科医学の発祥は横浜である。それまで漢方医学の一分野としての口中科であった我が国の歯科に近代歯科医学がもたらされたのは、横浜の開港により、外国人歯科医師も来日し在留外国人の治療に当ったことに端を発する。こうした外国人歯科医師に師事した日本人の歯科医師たち先輩諸氏による指導により、多くの日本人近代歯科医師が誕生していったのである。
 これとは別に、単身渡米して向うの歯科医学で勉強し、日本に帰って後進の指導に当った高山紀斉らの教育を受けた歯科医師もいて、近代歯科医学の伝来には2つのルートがあった。
 外国人歯科医師の来浜は、
1 米国人 ウイリアム・イーストレーキ1860年に診療するも居留外国人が少なく中国に渡る
 2 米国人 レスノーで居留地11番地にて18664年開業し、象牙や陶材又は金にて義歯を作製すると宣伝している
 3 米国人 ヘンリー・ウィンという歯科医師が1867年開業
 4 セント・ジョージ・エリオット1870年から1875年まで横浜で居留外国人専門に治療を続け。この間に、小幡英之助・佐治職の2名を助
手として採用して指導している。
 5 エリオットの診療所を引き継ぐ形で5人目の来航者ハラック・パーキンスが1874年来浜し、1881年の秋に日本を去る。
 6 フランス人のB・アレキサンドルは1870年に松江藩の医学教師として来日し1872年に横浜で歯科診療所を開いたが、僅かな期間の後東京
築地入船町に居を移している。医師の資格を併せ持っていた彼であったが、日本では歯科に専念し、日本人門下生を数多く指導して1877年
3月2日当地で死亡している。
7 もう1名米国人セオドラ・W・ギュリックは1879年横浜にて暫時開業したがすぐ神戸に移って再度開業するもその後英語教師に転身して
1885年帰米した。
 一方、1906年(明治39)に医師法と歯科医師法が制定され、試験もそれぞれ行われるようになるのだが、これに先立って、医科の中での一分野としての歯科なのか、歯科と一線を画するべきなのか、といった一元論、vs二元論が沸きおこった。
 当時、一元論の中心人物は佐藤運夫、彼はアメリカに留学して歯科医学を専攻、帰国後1916年(大正5)に東洋歯科医学校を創設し、1922年(大正11)に日本大学と合併して日本大学専門歯科の創設者となった人物である。その後、彼は第二次大戦後の新生日本歯科医師会初代会長も務めた。
 対する二元論の中心人物は前出の血脇守之助、高山紀斉より高山歯科医学院を受け継いで1907年(明治40)に東京歯科医学専門学校を創立し、論争当時は大日本歯科医師会の会長職にあった。結局のところ、医科二元論に落ち着いたところで歯科は医科から離れ、ひとり歩きを始めることとなった。
 しかし、この論争が数十年を経て再燃することとなった。原因は第二次大戦。日本が太平洋戦争に突入した1941年(昭和16)軍医の不足がその理由であった。
 この時の一元論者は東京高等歯科学校(現東京医科歯科大学)初代校長・島峰徹、二元論者は東京歯科医学専門学校二代目校長、奥村鶴吉。大論争の末、歯科における補綴(入歯等)の特殊性から軍部も二元論に傾き、結局のところこの時も二元論に落ち着くのである。以後歯科は医科から独立したまま現在に至っている。とありましたので併せて投稿いたします。


(西洋歯科医学勉学の地の碑)

(我が国西洋歯科医学発祥の地の碑)

(勉学の地の碑についての説明版)

(社団法人神奈川県歯科医師会)

(碑全景)

秋元不死男の句碑について

2016-05-07 09:50:28 | 日記
横浜大桟橋ふ頭ビル壁面に句碑がありましたので、ヨコハマ文学散歩によると{秋元不死男の句碑について。横浜生まれ、享年75歳(古沢太穂)}
 当時の筆名東京(ひがし)三による第一句集「街」は新興俳句運動にかかわった1936〜1939年の172句を収めたもので、大方東京巣鴨から横浜根岸海岸に転居以後の作、(高炉より人尿をしぬ尿吹きとばされ)(冬空おふりかぶり鉄を打つ男)(製鉄所に女を見ざりし冬)は鶴見製鉄所見学とした5句の中のもの。冬空の句は、後年俳句事件で捕らわれた時プロレタリア革命を暗示おうかしたものと見られたという。
なお、区内三ツ池公園には、1972年に建てられた(この池の受蔵の水温みけり)の句碑が鎮まっている。記述とありましたので、投稿いたします。

(秋元不死男の句碑)

(句碑のある埠頭ビル)