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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

埋蔵文化財センター

2013-06-28 09:26:53 | 日記

(センター正面)
 今日は、埋蔵文化財センターへ行ってきました。このセンターは、昭和44年に発足した横浜市埋蔵文化財調査委員会が永年に亘って市内、特に、港北ニュータウン地域や各地の遺跡で出土した遺物、報告書の保管及びその一部を展示し、加えて、研修室も備え講座や体験学習などに活用している建物であります。
 パフレットによれば、横浜市全体の遺跡はおよそ2、500ケ所が確認され、神奈川県全体の1/3に達していて、これらの年代は、約20、000年前の旧石器時代から、新しいものでは、約130年前の近世末期まで、うち、最も多いのは、縄文時代の遺跡で、全体の7割にも達していると書いてありました。
 また、遺跡は、市内18区全域にわたり発掘されており、最も多いのは、都筑区の429ケ所、次いで港北区の244ケ所、第3位は、戸塚区の188ケ所であります。逆に最も少ないのは、中区の17ケ所で調査確認されたとなっていました。
 なお、中区の少ないのは、遺跡発掘が行われないまま開発が進んだためか、展示室の解説による地球の温暖化によって、現在の気温より2度高く海面が4メートル位高とあります。これらの関係から地盤の低い中区には、遺跡が少ないのかと思われます。
 学芸員の説明によると各地域での土地開発はもとより、道路の新設などにより、遺跡が発見される度に調査を行い埋蔵の実態等を調査報告書として纏められると遺跡は埋め戻されて、それぞれ開発の目的に沿った土地利用を行っているそうであります。
 従って、遺跡として保存されているところは、それなりの価値のある場所に限り保存されている。このようなことから、埋蔵文化センターは、遺跡として保存されなかった各地の埋蔵品や調査報告書を保存していると書かれています。
 一方、今回、埋蔵品として展示されている古いものでは、縄文時代の中期から江戸時代までのものをショーケースに、年代別順に配置展示されていました。
 中でも驚いたのは、縄文中期に、既に、装飾品の数々があったことです。また、この装飾品を付けていたのは、村の長老と思われるが、その装いがどのような状態にあったか興味深いところであります。
何れにしても、当時は、食べること住むこと「いわゆる”衣食住”」が最も優先されると思っていましてが、何と装飾品が出土していることにビックリでありました。

(装飾品の数々)

(江戸時代太刀など)

(弥生時代土偶御守?)

菖蒲園にて

2013-06-21 10:52:56 | 日記

(正面入口)
今日は、曇天であることから、花を撮影するには絶好の日和で、数年振りに「横須賀しょうぶ園」に出掛けました。
このしょうぶ園は、6月1日から6月30日まで「花しょうぶまつり」の期間中なので期待して行って見ると花が終わった田んぼが目に付きビックリでした。春以来の気温上昇により、桜の開花を初め、菖蒲の開花までも同様に早まったのでしょうか。
平日のため、家族連れや若者の姿はありませんでしたが、数人カメラを持った人々が思いの構図でシャッターを切っていました。
私は、園内を一巡していると「J:COMチャンネルデジタル11ch」の地域情報を生で届ける「夕なび」テレビ取材が入って来て、花殻を摘んでいる絣姿の女性に、立ち位置や花殻の積む姿勢について、いろいろと注文やお願いをしながら、カメラを回していました。
園内には、菖蒲の他、フジ、ツツジ、チュウリップ、バラ、アジサイ、カンツバキやサザンカなどの草花が植栽され1年中花を絶やさない様に、公園の運営がなされているようで、ふじは、既に終わっていて、アジサイも水不足なのか最盛期を過ぎて花びらが枯れているものがありました。菖蒲は、今でしょうと云わんばかりに、園内の花壇を賑わしていました。
私は、気に入った菖蒲の花びらを探し、これと狙いを定め構えて見るが、風が強く1時間ほど頑張りましたが、花びらが風になびき思うような写真にならないので諦めて、風景写真に切り替え、菖蒲園と花殻摘みの女性の外プラスワンを何か入れようと悪戦苦闘の末3時間が過ぎてしまいました。
このうち、気に入ったものが何枚有るか、現像仕上がりに期待と不安が交錯する1日になってしまいました。
この菖蒲園のパンフレットで見ると、面積38、000㎡で、しょうぶの田んぼは、7000㎡で、品種は、江戸系、伊勢系、肥後系約412種類で、その数14万株あると書いてありました。規模、種類ともに、相当なものように思われます。
ここの菖蒲は、花びらの多ものや少ないものまた、1株から茎が何本もある株など区画によって違いがあるので、花殻摘の女性に尋ねると”花びらの多いものは”「9枚」あると聞きビックリしました。また、”分蘖によって茎の本数が多くなると区画毎に「3年に1回」卓越した技能と判断で1株からの茎の本数を揃えて植替えを行うそうであります。
このように、日頃から丹精込めて手入れの成果、満遍なく花を咲かす骨なのですと話されていました。
世の中、持ち屋、持ち屋と云いますが、花が咲いている期間中は、雨の日も風の日も花殻摘み始め、子供を育てるように、怠りのない丹精込めての手入れこそ、この菖蒲園があるのだと感心させられました。

(花殻摘みの風景)

(菖蒲園の木道

(水車小屋)

(菖蒲)





雨の三殿台遺跡

2013-06-14 09:55:41 | 日記
今日は、予てから予定していた横浜市の磯子区にある「三殿台(さんとのだい)遺跡」を見に行くことにしていましたが、あいにくの雨をバスから降りて、坂道を暫く歩いて行くと今度は、60段ほどの階段上り更に、坂道を上って行くと三殿台遺跡の正門に辿りついた。
 この「三殿台遺跡」の名称の由来を学芸員の方に尋ねると、旧横浜村次代に、(郡の地名で大字、字名で)「三度台」と云う地名はあったのは確かであると話されておりました。
バンフレットによれば、三殿台遺跡は、標高55メートル程の小高い丘にあり、明治30年代に「屏風ヶ浦岡村貝塚」の名称で紹介されていたが、昭和36年に隣接する岡村小学校の校地拡張予定地となったため、その夏一万平方メートルある丘の全体を発掘調査することになり、学芸員からの説明によれば、考古学者のほか、夏休みと云うこともあり、大勢の大学生の力を借りて、全体を4分割して、調査が行われた模様で、発掘された遺跡の番号や土器などに、アルハベットの小番号を付して整理されたとの説明を受けました。
その結果、縄文時代、弥生時代、古墳時代の三代に亘る約270棟の竪穴住居跡が複雑に重なり合って見つかったとありました。
この丘は、大岡川の流域の原始・古代のムラの様子と当時の生活を知ることができる大変貴重な遺跡あることが判明したとあり、また、この遺跡の一部を学校用地として、大半は史跡として地中に保存されているそうであります。
この三つの時代で、三殿台に始めて人が訪れたのは、4、500年前の縄文時代の中期に狩猟民族として生活を営んでいた形跡があり、その後、3、500年前の縄文時代後期にも大きくはなかったが、ムラが形成されていて、貝塚や獣骨・魚骨などから当時の生活を知る多くの発見があった。
更に、弥生時代の中期、今から2000年前には、稲作や金属器など新しい生活様式を持った人達がこの三殿台にやって来て、この時代の後期に多くの竪穴住居を作り、その規模は当時としては大きく、大岡川流域を中心にしたムラの形跡が、発掘された壷や石器、青銅製の装飾品や炭化米などさまざまな生活品が見つかったとありました。
次代が進み古墳時代初期と後期を中心に営まれました。約1400年前の後期のムラは、薫で焼いた須恵器(すえき)や鉄製品などが出土し、この時期の竪穴住居の形は、四角く、住居の奥の壁側には、粘土で作ったカマドが築かれ、食生活も大きく変わり、甑(こしき)などを組み合わせて米などを蒸してたべるようになったとありました。
発掘調査跡地には、年代毎に、形や大きさが崩れてしまうものは、擬木を縦に並べて表示し、竪穴の住居跡は、萱葺による復元住居や発掘当時のままの常態を大きな建物により、保護して見学が出来るようになっておりました。
一方、出土品は、復元してショーケースに整理して、観察が出来るようになっておりました。
管理事務所に行くと未だ出土した土器をブラシで一つ一つ丁寧に汚れを落とし、乾かし、ジグソーパズルのように、発掘場所等の番号にしたがって、貼り合わせて、復元作業を続いていることに、二度ビックリでありました。
古代人は、今の梅雨期があったとしたら、衣食住を始め、何を考えどの様な振る舞いをしていたのか、現代に生きる我々の幸せをつくづく考えさせられ帰宅しました。

(途中の階段道)

途中の階段道)

(竪穴復元住居)

(竪穴内部)

(発掘形跡の保存のための擬木)

(発掘現状保存建屋)

(建屋の内部発掘当時の現場)

(出土した土器の一部)

(出土した土器の一部)

(神事事に使用したと考えられる石塔)





九州ツアー4日間

2013-06-08 18:51:28 | 日記
2013年6月1日から4日間の九州ツァー、北海道千歳発、福岡空港から大分別府まで移動、一方、羽田から特別参加組とは別府で合流しての旅となりました。
6月の始めは、梅雨季になるので心配はしていたが、前半は雨、後半は晴天の旅であり、終わりよければすべて良しですね。
旅の順路は、1日目は、移動日、2日目は、別府海地獄、湯の花製造小屋、湯布院金鱗湖、九重”夢”大吊橋、久住花公園、久住ワイナリーと盛り沢山の観光でありました。中でも大吊橋は、当時メデアが批判したとおりの吊橋で19億円相当の工費を掛けたようですが、今現在、工費の大半を回収しつつあるとガイドさんから説明がありました。
宿泊先は、コテージとなっていたが、標高が高く小雨に加え風も吹いていたため、夜は冷え込み暖房が恋しい気温でした。しかし、ツァーの仲間には風邪を引いた者もいなく43名皆健康そのものでありました。
翌日は、ホテルを出て、阿蘇山並ハイウェーを走り、火口を眺めるも霧で真っ白何も見えなかった。しかし、カルデラを後にして山を降りるに従って、空は晴れ渡り、阿蘇五岳が時折雲の合間から姿を魅せていた。
次いで、熊本城を隅々まで観て、一路、島長崎県の島原港へと走ると正面に、あの普賢岳が爆発当時から、更に成長を思わせられる姿に変身していた。仁田峠を登る途中深山ツツジが、最後の力を振り絞って、色鮮やかに見せられ、登り詰めるとあの普賢岳が、目の前に緑のマントを装い山頂の極一部を残し、山の緑は回復していた。それから、雲仙の噴煙立ち込める地獄谷を見て、今回の最後の目的地ハウステンボスへと向い泊となった。
夜は、教会の建物風の壁に写し出される3D映像を見た後は、8時間半から仮面舞踏会となり、人数は少なかったものの音量は最高潮で、アット云う間の一時であった。ホテルに入りシャワーで汗を流し、最終日に備えた。
朝起きると空は晴天渡り、少し蒸し暑い天候であった。9つもの町(ハーバータウン、フォレストヴィラ、スリラーシティ、アトラクションタウン、アートガーデン、タワーシティ、ワールドバザール、フラワーロード、アドベンチャーパーク)に別れていて、各所に、アミューズメント・ミュージアムやショップ街など、それらに向う足は、シャトルバス、水路を走る遊覧ボート、また、自転車での移動手段も考えられて、本当に便利に出来ていました。アミューズメントなどの入場は、所謂「パスホート」で全てOKであるが、一旦ハウステンボスの敷地外に出るとパスポートは、出国とみなされる仕組みであった。
ハウステンボス名物のチューリップは終っていたが、オランダ情緒を思わせる風車や色鮮やかな花を一面に植えられていて、ニコヤカに観光客を迎えているが如く、アット云う間の半日、約束の集合時間12時半、バスには殆どの参加者が乗車して出発を待っていた。
それから、一路福岡空港へと向けバスは「一輪」「一輪」旅の終わり告げ、ツアー参加者の脳裏に4日間の思い出をまた一輪と焼付けさせるが如く、何事もなく空港に入り、全員無事に九州を後に、北海道千歳・羽田空港へと引き返して行った。


(宮崎県日南 鵜戸神社石を投げてしめ縄内に石が留まれば願いが叶う)

(宮崎県日南サンメッセ日南モヤイ像)

(宮崎県えびの高原 深山ツツジ園)

(別府海地獄)

(大分県 九重大吊橋)

(九重大吊り橋)

(九重大吊り橋からの眺め)

(湯布院金鱗湖)

(阿蘇山山並ハイウエーから)

(長崎県雲仙普賢岳)

(ハウステンボス 仮面舞踏会)

(ハウステンボス 風車とお花畑)

(ハウステンボス水路に写るドムトールン)

(ドムトールン展望から大村湾を望む)