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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

町屋址についてNO41(南11)

2018-10-20 09:01:43 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 此のあたりは、鎌倉時代に鎌倉の最も栄えていたころの、商家の地域であった。
 その賑やかな商店街の中央の通りを大町大路と呼び、そのほか米町、辻町、魚町、名越等に区分けした呼び名もあった。それぞれに商家が立ち並んでいたらしく、これらの名は「東鑑」(吾妻鏡)の中にしばしば出て来ているし、今もその名がのこっている。
(参考)
町屋
 今この碑の立つところを大町四つ角と呼んでいて、商店が立ち並んでいる。この商店街は、鎌倉時代には市中有数の繁華をきめたところであって、大町大路と呼ばれる大通りの賑やかな街並は、さらに米町、辻町、魚町、名越等の呼び名のもとに商店街が広がっていたようである。

長勝寺町屋跡
 この大町四つ角の広い通りを東へ向かっておよそ7百メートルほど行くと、横須賀線の踏切に出る。踏切に出る。踏切をこえて右側にある寺が長勝てらであるが、昭和51年にこの寺域の発掘をしたところ、鎌倉時代にまでさかのぼり得る、数百年間に亘る町屋の遺蹟をさがしあてることができた。
 この土間状遺構が折りかさなっている町屋の遺跡は、広島県福山市で見つかった中世の町あと草戸千軒遺跡につぐものとして、全国的に珍しい発見とさわがれた。
 発見された、瀬戸、常滑、素焼きの皿、青磁、白磁の破片から、この町屋は、鎌倉時代の末期から南北朝の時期にかかる頃のものと、大三輪籠彦氏は推定している。
 珍しい出土品として、「永福寺」と刻印のある瓦が見つかったが、鎌倉時代初期の三大寺と呼ばれた永福寺が、屋根の葺きかえか、改築のとき、鎌倉内の寺院では、その古瓦をわけてもらって更に使用したことが、この発掘によって立証された。
 この発掘調査については、大三輪団長によって膨大な報告書が出されているし、出土品は鎌倉市教育委員会で保存し整理中である。
 今は、発掘の現場は埋められてしまい、その上に長勝寺の新しい堂が建っている。

鎌倉七座
 座とは、中世の頃に、商工業をいとなむ者たちが、自分利権を守るために独占的な組合をつくった。特権的な同一職業団体である。
 座は、かならずしも商工業者のみに限らず、馬借や船頭などの交通労働者や、能楽、田楽、琵琶法師、遊女などあらゆる職業にわたっているが、鎌倉には、木材座という地名が今も残るように、商工業の座があった。
 七座とは、絹座、炭座、米座、檜物座、千朶積座、相物座、馬商座をいうと「庭訓往来」があげているが、これらがたしかに存在していたかどうかは明らかでない。
 今たしかにあったとされているのは、木材座と博労座だけである。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(町屋址の碑)

(町屋の碑が建立されている通り)
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日蓮上人草庵跡についてNO40(南10)

2018-10-13 09:29:20 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 建長五年(1253年)に、日蓮上人が房州(千葉県)小湊より来て、此の地に小さないおりをつくり、始めて法華経の経文を唱え、正嘉元年(1257年)から文応元年(1260年)に至る間、巌窟の中にこもって「立正安国論」一巻を編述したのは、此の所であるという。
(参考)
日蓮上人
 「日蓮辻説法址」の碑NO35を参照。
立正安国論
 日蓮が鎌倉に入って、布教につとめる一方で、この地に草庵をむすんでこもり、有名な「立正安国論」をまとめあげたので、そのいわれをもとにして、安国論寺が建てられた。寺域内には、日蓮がこもったといわれる巌窟も残っている。
 「立正安国論」は、文応元年(1260年)に、日蓮が一巻にまとめて、北条時頼に提出した仏教書である。日蓮はこの中で、「法華経」こそ信ずべき唯一の正しい教えであること、世上頻々として起こる天災地変や飢饉の難をさけるには、世に広がる真言、禅、念仏、律などの邪宗を排除して、ひたすらに法華経を帰依する以外に道なきことを、問答形式で書きあげたのである。日蓮は、これがもとで焼打ちにあったり、翌年伊豆に流されるという法難をうけたのであった。

窟の丘からの展望
 窟の上方の丘には、窟に向って右手の方にある細い石段をたよりにのぼることができる。
 丘の上に立と、眼下には下馬から名越の切通しに向かう道の両側に、往時の町屋の繁華街を想見することができるし、左手には長勝寺を見下ろし、そこから由比ガ浜を越えて、はるかに稲村か崎が浜のはずれに吃立している。
 日蓮上人も、つれづれにこの丘にのぼって、布教伝道の情熱に燃えたまなざしで、この鎌倉の街並を見下ろしたのではなかろうか。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(日蓮上人草庵跡の碑)

(安国論寺の本堂)

(安国論寺についての告知標)
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佐竹屋敷跡についてNO39(南9)

2018-10-07 14:29:55 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 この所は、佐竹四郎秀義このかた、代々の屋敷のあとであるという。
 昔は、ここに佐竹氏の霊社があったが、後年になって、村内の天王社にいっしょにまつるようになった。
 後の山を佐竹山と呼んでいて、その形が扇の地紙に似ている。中に三本の疇(さかい)があって、左右をあわせると5本骨の扇の形にみえる。
(参考)
佐竹四郎秀義
 治承四年(1180年)頼朝が源家再興の旗あげをしたとき、同じく源家の出である佐竹義政(尊卑分脈では忠義)は、頼朝に味方せず、常陸(茨城県)にあって、むしろ頼朝の背後をおびやかす勢いを示した。そこで頼朝は富士川の合戦で平家を撃退するや、直ちに鎌倉に戻って佐竹氏討伐の軍を起こし、頑強に抵抗する義政を殺した。その甥にあたる佐竹秀義は奥州へ逃げたが、後になって頼朝に降服した。
 この地は、その秀義が鎌倉に居を得て屋敷をいとなんだところである。秀義がこの地を定めたのは、祖先にあたる新羅三郎義光が後三年の役のあと、ここに居をかまえたという故事によったのであった。

佐竹屋敷
 今、大宝寺のある地域一帯を、佐竹屋敷と言って、佐竹氏代々の居住したところと伝えている。うしろに見える山を佐竹山と呼んでいるが、山の形が扇に似ていて、左右のうねの間に、三すじのさかいを示すようなうねが見られるので、佐竹氏はこの扇の地紙をかたどって家紋にしたという。

釈迦堂口
 佐竹屋敷に入る小道を曲がらずに真直ぐ進むと、釈迦堂口に至るとある。
 この釈迦堂口は、杉本寺の前に通ずる道で、今は土崩れのおそれがあるので、車での通行はとめられている。
 鎌倉時代から、若宮大路と反対の裏道として南に通ずる近道として使われたようで、この釈迦堂口の近くには、北条時政の館が、さながら砦を思わせるように堅固に構えていた。
 頼朝の命をねらって捕らえられ、押しこめられたと伝えられる。「唐糸やぐら」も、この釈迦堂口すぐ上にある。
 今もなお、ひとりで歩くときは、気味の悪い欝蒼とした道であるが、崩れやすい岩を抉ってたくさんの「やぐら」のあることでも、一度は通って見たい道である。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(佐竹屋敷跡の碑)

(大宝寺の釈迦堂)

(大宝寺の告知標)
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万葉集研究遺跡についてNO38(南8)

2018-09-29 15:31:12 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 此の地は、比企が谷新釈迦堂、つまり二代将軍頼家の女で、将軍藤原頼経の室となった竹の御所夫人の霊を、まつった堂のあったところである。
 この堂に仕えていた僧で、権律師(ごんのりっし)仙覚という者が、万葉集研究の偉業を成しとげたのは、実にこの僧坊であった。
 今、竹の御所夫人の墓標として大石を置いてあるのは、ちょうどこの堂の須弥壇のま下にあたっているところである。
 この堂は、おそらく南面し、僧坊は西方を向いていたであろう。
 西方のがけの下のいわやは、仙覚等代々のこの堂に仕えた僧たちの、埋骨のところでなかろうか。くわしいことは、「万葉集新考」の付録の「万葉集雑攷」に述べてある。
(参考)
竹の御所
 今の妙本寺の本堂に向って左奥に、比企が谷新釈迦堂という廟があった。これは竹の御所といわれた女性の霊をまつったところである。
 竹の御所は美子といい、源家第二代の将軍頼家と若狭の局との間に生まれた女子で、小御所の変のときには、生まれてまもなくのころであったが、危うく命ながえて成人した。
 一説に、竹の御所の母は、木曽義仲の女であるともいう。
 実朝の死後、京都より第四代の将軍として藤原頼経(頼朝の妹の血すじをひく)が鎌倉に来て13歳になったとき、竹の御所は28歳で頼経の室となった。二人の年齢から見るとあまりにも不釣りあいを感ずるが、あるいは数年前に死んだ政子の遺言でもあったかもしれない。
 その竹の御所は天福二年(1234年)7月に出産したが、不幸にして死産であった。その上、竹の御所も難産のために悩乱のあまり、出産の翌日死去した。行年32歳であった。源家の最後の人として、生まれるより不遇の生涯にあけくれした。気の毒な女性であったが、この人が死にのぞんで、釈迦信仰にあついところから釈迦像をまつることをねがったので、その遺言により新釈迦堂が建立されたのである。
 幕府はこの堂のため供田(寺の維持をはたすための資産となる)を定め、初代の住職として仙覚律師が住むことになった。
仙覚
 常陸(茨城県)の人で、権律師にまでなった。早くから万葉集の研究に没頭し、寛元四年(1246年)には、従来訓読できなかった152首に新しい読み方を付し、翌年「仙覚奏覧状」と共に、後嵯峨院に奉った。
 その後も万葉集の校訂を続け、文永二年(1265年)には、時の将軍宗尊親王に書写本を献上している。文永六年(1269年)ついに「万葉集注釈」全二十巻を完成し、東国の地理についての豊かな知識を生かして、東歌の解釈に独特の意見をのせている。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(万葉集研究遺跡の碑)

(正面に妙本寺の本堂)
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比企能員邸址についてNO37(南7)

2018-09-22 14:42:12 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 比企能員(ひきよしかず)は、頼朝の乳母であった比企禅尼の養子で、禅尼と共に此の地に住んでいた。このあたりを比企が谷と称するのはこのためである。
比企能員の娘は、二代将軍頼家の寵愛を受け、若狭局(わかさのつぼね)と称し、一幡という男子を産んだ。
 建仁三年(1203年)頼家が病いの床につくと、母の政子は、天下の地頭職を二分して、関東の地頭職を頼家の子の一幡に、関西の地頭職は頼家の弟の千幡(後の実朝)に分けて継がせようとした。
 能員はこれを聞いて怒り、ひそかに北条氏を倒すことを計画したが、密計が漏れて、逆に北条氏のために一族みな此の地で滅ぼされたのであった。
(参考)
源家と比企氏
 比企の尼は、頼朝が14歳で京から伊豆へ流されることになったとき、何人もいた乳母の中でただ一人、夫と共に関東に下り、頼朝が伊豆の蛭が小島にて20年間に及ぶ流人生活の間、その不自由なくらしをなにくれとなく支えて来た人である。
 頼朝は、比企の尼の恩義を深く心に感じていたればこそ、その養子比企能員を、とりわけとりたて、長子頼家の乳母には、能員の妻をあてるほどに重用した。さらに能員の女若狭局が頼家の室となり一幡を産むようにって、比企一族の権勢は、将軍の舅という立場から極めて強力となった。
頼家と北条氏
頼朝の死後、第二代の将軍頼家に比企一族が接近して、権勢を強めて来たことは、北条氏にとって好ましいことではなかった。頼家の乳母が比企氏であるのに対応する如く、実朝には政子の妹(頼朝の弟である全成の妻)すなわち北条氏が乳母となって比企の権勢に対抗した。
 当時は、生まれた子が女児であれば、母の手元において育てるが、男児であったときは、母の手元を離れて、専ら乳母の元でそだてられるのがしきたりであった。従って、乳母は育ての児の成長した後までも隠然たる力を持ち、育てられた者としても、乳母に対する恩義は深く忘れられぬものであった。
 それだけに、北条氏はライバルとしての比企氏に対して、その行動に警戒の目を離さなかったであろうし、その勢いの行くところ、頼家に対する態度も、実朝に対するそれとはおのずからちがう、冷やかなものがあったにちがいない。北条氏の圧力が政子を動かし、母としての政子の裁断をかさにして、頼家の将軍としての実権を滅殺したり、その病床の身となるや、いちはやく天下の地頭職を、頼家の子一幡と実朝とで二分することを強行したりしたことは、明らかに比企氏抬頭の頭打ちを策したものであろう。
小御所の変
 頼家と比企能員とが、天下二分の処置に反し、北条氏打倒の挙を図ったことは、北条方にとっては思う壺であった。
建仁三年(1203年)9月2日、北条時政は、自邸の薬師如来の供養にことよせて、能員を招待した。能員の子等は、時政の策謀を警戒して引き止めたが、能員は赴かねば、かえって疑いをまねくと言って、名越の時政の邸に参り、その場で謀殺されてしまった。
 小御所(現在の妙本寺の地)にあって、この異変を聞いた比企一族は、頼家の嗣子一幡を擁して小御所(一幡の館なる故にこのように呼んでいた)にたてこもって北条氏との決戦をかまえた。その日の午後4時に近い頃には、政子の指示を受けた北条義時、泰時、畠山重忠、三浦義村、和田義盛以下の武将が雲霞の大勢をもって、この小御所に襲い迫った。
 比企一族は、死を恐れず防戦につとめたが、衆寡敵せず、いずれも一幡の前で斬り死し、一幡もまたあわれ6歳の身で、火に包まれた館の中に果てたのであった。
 翌日、源性という者が、一幡の遺骨をさがしあてて、その遺骨を高野山奥の院に葬るべく、焼けあとを立ち去ったという。
 かくて、北条氏はライバルの比企一族を全滅させ、頼家は全く孤立無援の状況に追いこまれた。やがて将軍職を実朝に譲らせられ、淋しく伊豆修善寺へと、配流の身を移した頼家を待っていたものは、北条の魔手だったのである。頼家は、翌年7月に殺害されている。
五輪塔
 宇宙の森羅万象は、空、風、火、水、地の五元によって構成されると説く密教の教えをあらわしている塔で、平安時代頃から石造塔としてつくられ、鎌倉地方ではこのかたちの塔が特に多い。
 五輪の各輪には空風火水地とか、妙法蓮華経とか、あるいは梵字でキャ、カ、ラ、バ、アの五字を刻んだものもある。
 この一幡の五輪の塔は、後世のものなので形もちがっている。などとう記述がありましたので、投稿いたします。

(比企能員邸址の碑)

(現在の妙本寺 山門から)


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