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玉縄城跡についてNO79(西22)

2019-07-20 08:51:58 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 城は永正9年(1512年)に北条早雲が築き、その一族が居城として来た。天文年中(1532年~1555年)には北条綱成がこの城の主となった。綱成は駿河国(静岡県)に勢力を張っていた今川氏の一族福島氏の家に生まれた孤子であったが、早雲の長子氏綱に養われる身となり、その後、北条の姓を名乗り、氏綱の女を妻とし、かつこの玉縄の城を与えられたのである。
 それ以来、子孫の氏繁、氏勝があとを継ぎ、この小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅亡するに及んで廃城となった。
 此の城は鎌倉、藤沢の辺の中で高い丘の上にあり、古くからの交通路の道すじにもあって、四方を塞いだ要衝の地に位置していた。その上この城には、勇武すぐれた武将が陣していたので、その当時勢あたりを威服した、かの黄八幡の旗風の勢いをしのぶことができるであろう。

 {参考}
 北条綱成と黄八幡
 綱成はもとは源氏で、福島を姓として代々今川氏につかえ、その家は一城の主となるほどの家がらであったが、綱成は幼少のころ、父が義元に殺された為弧子となってしまった。
 当時小田原にいた北条氏綱は、綱成の人物を見こんで、娘のむことし、北条の一族としたのであるが、その綱成は氏綱の期待にそむかず、戦陣にあること37年、戦いをかさねること36度、その間一回の敗戦も経験しなかったと伝えられるほどの猛将であつた。
 彼は戦いに臨むとき、常に黄色の四角の布に八幡の二字を書した旗を背にして、軍の先頭にたって敵陣に突入し、「吾等勝ちしぞ、わが軍勝てり」と大声で部下を励ましたので、一軍これに勢づけられて「吾等勝ったり、わが軍勝ちぬ」と叫びつつ綱成のあとについて奮戦したという。綱成と戦う関東の武者どもは、「それ北条の黄八幡が来た」とおそれ威伏したと言われている。

 玉綱城
 永正9年(1512年)北条早雲が三浦道寸を攻める為に築城し、相模第一の堅城と称され、上杉朝興、里見義弘、上杉謙信等がこの城を攻めても、ついに攻略することができず、武田信玄もこの城を攻めることをさけている。
 この地は、今、清泉女学院中学・高校が建っているが、城の最高部諏訪壇と呼んでいたところ(標高80メートル余)はそのまま保存され、付近の地名には、「七曲坂」「おんまや」「寺やしき」「大鋸」「鉄砲宿」等、当時の城構えや人工の居住のようすをしのばせている。
 ありし日の玉縄城の要害は、今、本丸東の諏訪壇を残すばかりで、すっかり変貌してしまった。
 七曲、たいこやぐら、くいちがい、お花畑、の一つひとつ、あるいは、井戸や池の所在をたしかめたり、四方にくもの足の如く張り出す山なみの尾根に築かれた砦に、往時の不落の堅城を想見することができよう。
 諏訪壇にのぼって、黄八幡の旗を風に靡かせ、四方を睥睨したであろう綱成の心のうちを思い見るのも一興であろう。などという記述がありましたので投稿いたします。

(玉縄城跡の碑)

(玉縄城について)

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