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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

ワシントンの桜郷帰り

2015-08-29 08:27:21 | 日記
 今回は、野毛山公園に行って見ました。公園を横断している横浜市道を渡り遊園地近くに、日米国際親善・有効の象徴桜とハナミズキと云う看板が目に入って来ました。内容を見ると桜の寄贈から100周年を記念して、ワシントンから里帰りした桜の苗木と共にハナミズキをここに植樹したとありましたので、早速(「友情の二つの花」著者手島悠介 発行者岩崎弘明)と云う本を借りて読んでみると、次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 第27代目米国大統領 ミセス・ヘレン・タフトの夫人(ミス・エリザ)が、ポトマック川を埋め立てて造る新しい公園に、どんな樹木を植えようかと考えていました。
 2年ほど前に、大統領が陸軍長官だったご主人と日本を訪れたさいに、上野公園に案内されて、山一面にピンクにそめるソメイヨシノ桜の美しさに心を奪われたことがあり、ミス・エリザの友達で旅行好きの友人が、日本は京都・奈良・東京の向島等各地の桜を見ていることから、大統領夫人に是非桜をとすすめている。
 そこで、桜の生育に適した気候であるかについても、植物研究家・フェアチャイルド博士や農務省のスウィングル博士に問うたところ、2人から大丈夫と回答があったので、大統領夫人は桜の苗木を買う予算、苗木の種類をスウィングル博士に依頼した。
 これを知ったニューヨークに住んでアメリと日本のかけはしとなっている高峰譲吉(ジァスターゼ「アミノサン」を発見)氏が、東京市長 尾崎幸雄に伝えたところ、願ってもないチャンスと思った市長は、東京市からの贈り物として、市民に反対する者もたいが、苗木2000本を送ることを決定し送った。ところが、太平洋を渡って、シアトルの港についた2000本の苗が病気にかかっていることがわかり、やむなく焼き捨てる以外方法はなかった。
 尾崎市長は、約束をはたすために、二度目の苗は、荒川堤のソメイヨシノを主に12種類。3000本余りの榾木の桜を選んで、静岡県の園芸試験場に運びヤマザクラの根に接ぎ木をして、丹精込めて育て上げてられて、これを明治45年(1912)3月にアメリカに届いた。
 このうち、2本は、西ポトマック公園に、大統領夫人と珍田 日本大使夫人の手で、植えられた。アメリカと日本との友情を深めてくれるでしょう。東京市の皆さん、日本の皆さんに心からお礼をされて、しっかりと根づきました。そこには、記念碑が建てられ、次のように、刻まれている。
「ジャパニーズ・チェリー(ソメイヨシノ)東京市からの贈りもの1912年3月27日珍田 日本大使夫人とウィリアム・タフト夫人によって、植樹された。」
 一方、桜の御返しとして、大統領夫人から送られているハナミズキが、「ワシントンの桜祭り実行委員」をしている者から、管野 (日本エネルギー経済研究所の研究者として、ワシントンに滞在中) 氏に、アメリカから送ったハナミズキは、東京の何処に植樹されているかと問われ、本人は全く送られたことすら知らなかった。
 管野氏は、毎年桜祭りをしている実行委員に聞かれ、ショックを受けて、アメリカの友人や、東京出身の日本人に尋ねても誰一人知っている人はいませんでした。しかし、聞いた以上しらべて見なくてはと思うようになり、東京の友人峰与志彦に、東京市から、アメリカワシントに桜を送られてきて、その御礼に、ハナミズキを東京市に送られている。しかし、その花水木の原木の行方が分からないと詳しく手紙に書いた。
 峰さんは、手紙が重い歴史を秘めていることに驚き、国会議事堂前の憲政記念館のものは、戦後の1958年に、尾崎幸雄をたたえた記念館で、ハナミズキは新しいものである。また、日々谷公園にハナミズキがあるが、東京大空襲にも遭っているし、当時英語は敵性語といわれ、使うことが出来なかったそんな暗黒の時代に、アメリカからのハナミズキがあることは奇跡のように思われた。
 しかし、峰さんは日比谷公園の資料館尋ねることにした。事務所に若い男の人に声をかけ、アメリカから送られたハナミズキの原木があるそうですが、どこにあるのでしょうかと尋ねると、資料を何冊か出して来てくれました。その中に、「米国より東京市へ寄贈されたる花水木の現況、昭和6年(1931)と云う古い書類を峰さんは手にとりました。
 アメリカ農務省より、大正4年(1915)及び大正6年(1917)に東京市へ寄贈された花水木の生育は大変良好で、大きなものは、高さ4.5メートル、幹9センチになっていて、毎年春には見事に花を咲かせ、秋には美しく紅葉し、冬には紅の実をつけて、東京市民をよろこばせる」
また、白花種大正4年に20本。日比谷公園に5本、羽根沢苗圃に5本
   紅花種大正6年に10本。日比谷公園に5本、羽根沢苗圃に5本
 この資料をコピーしてくれました。だが、以前の資料には、40本の花水木が送られて来たとなっているが、残りの20本は何処に分けられたのだろう?。
 峰さんのところには、いろいろな情報がよせられ、上野公園の美術館周辺を確認するが、原木ではなかった。また、多磨霊園の正門右の外国人墓地をまもるように13本あり、幹まわり1メートル11センチ、樹木の高さ12メートル、枝張り11メートルどうどうとそびえているが、これは原木に違いない!しかし、確認はできない。野方苗圃については、羽根沢苗圃同様に大正初期にひらかれ、大正9年には、東京療養所ができて、当初4本あった原木は今は無い。
 最後に寄せられた都立園芸高校(世田谷区深沢)の門をくぐった峰さんは、自然の森が、萌えるように芽吹いているイチョウ、カツラ、トウカエデなど、東京に残っていたなんて、学校の敷地も広くビックリしました。
 (ここに、2本の原木があるのだ。明治の終わりころ、東京府立園芸学校としてひらかれ、学校長熊谷八十三という人だった)現校長の上松信義校長に、これまでの知識など峰さんは、話をしたところ、案内を造園科担当の矢田勝男先生にしていただき、歩きながらこんもりした林の中に、まだ葉をつけていない、大きな1本の木を指さし、あれが、原木といわれているハナミズキです。世田谷区の指定保存樹にもなって居ます。
 こうして原木に巡り合い、幹の周りは1メートル余り、樹高10メートルほど、枝張りは7メートルほどであった。もう1本は、4,5メートル余り離れて、やや小ぶりの幹まわり70センチ、樹高8メートルほどのハナミズキが、ややかたむいた形で立ってたい。矢田先生は、いとおしむような目で、このハナミズキを見上げて微笑した。。
 峰さんがいらっしゃると聞いて、新聞のコピーを取っておきました。矢田先生が取り出したのは、「返礼の花水木 今も3ケ所に」という平成2年(1990)4月の新聞の投書で、「農林水産省果樹試験場、興津支場長 広瀬和栄さん」と云う人が書いたものでありした。
 それには、返礼でおくられた花水木の苗は、5本充て分けられて、各地に植えられたのですが、戦災をまぬがれて残っているのは、以下のものと思います。
 「都立園芸高校」に1樹、「日比谷公園」に5樹、「静岡県清水市興津中町の果樹試験場・興津支場」に1樹となっていた。この支場に植えられているのは、桜を接木して無病の苗木の生産を心く引き受けてくれたためでした。と記述されていました。
 この様な経緯のある桜の孫、いや、ひ孫?が野毛山公園に里帰りしたのであります。別添、写真の木であります。

(野毛山公園見取り図)


(桜の経緯を書いた看板)

(帰って来たソメイヨシノ)

(ハナミズキ)


日本初のワルツ「港」の作曲碑について

2015-08-22 09:37:31 | 日記

 今日は、港の見える丘公園に行って来ました。公園の霧笛橋と云われるところに、真新しい日本初のワルツと云う碑がありましたので、資料を収集に図書館へ行って見ましたが、新聞以外には資料は見当たらないと云われ、「産経新聞」平成24年(2013)6月23日に掲載され記事を頂きましたので、その内容を次の通り投稿いたします。
 明治29年(1896)に発表された日本初のワルツとして知られる歌唱「港」の作曲碑が港の見える丘公園(横浜市中区)の霧笛橋広場に完成し、平成24年(2013)6月22日除幕式が行われた。
 「港」がにぎわう様子を描いた歌唱「港」は、旗野十郎作詞、吉田信太氏が作曲した。この曲がどこの風景を歌ったかは明らかになっていないが、吉田氏が本牧に住み、県内で教壇に立つなど横浜に縁が深いことから、市民有志らでつくる「歌唱「港」の歌碑の会」が同公園に歌碑を建立ようと平成21年から募金活動を始めた。東日本大震災の影響で活動を一時中断していたが、昨年から再開した。
 作曲家の佐藤愛さん(67)は”特等席”に建てられた歌碑を前に、「人がたくさん集まる場所なので、これを見て「港」を知ったり、思い出したりしてほしいですね」とほほ笑んだ。と云うものでありました。

(公園見取り図)

(日本初のワルツ「港」の作曲碑)

(港の誌)

(公園の霧笛橋)

(港が見える丘公園展望台)

(港が見える丘公園展望台)

レンガ井戸遺構について

2015-08-15 08:35:16 | 日記
 今日は、港の見える丘公園の「ランス山公園(山手185・186番)」に行って来ました。ここは、港の見える丘公園から山下公園に向かう木橋を渡り終えた場所に「レンガ造り井戸遺構と云う表示版とともに、金網の遺構の井戸がありました。
 「開港のひろば」(80)の資料によれば、次のような記述がありました。
 今回、井戸の周囲から煉瓦造基礎4基礎が掘り出され、市教育委員会事務局文化財課と横浜大学吉田鋼市教授による調査を実施した結果、明治26年(1896)にフランス領事公邸が建築された時に、山手まで水道がなかったために、設置さられた井戸水及び組み揚げ用風車の基礎であることが判明した。
また、これらに関わる図面・経費についても一連のフランス外交文書で見つかり、給水設備建設費として、1,529.81ドルと記載されており、実に、建設されてから、107年の歳月を経た貴重な遺構であることが判明した。
 なお、風車本体は関東大震災によって倒壊したものと考えられる。また、市緑政局公園部によると、基礎2基は埋め戻し、残り2基と井戸は現地で展示公開
した。となっていました。
 一方、フランス領事は、関東大震災で倒壊し、スイス人建築家、ヒンデルの設計で再建されたが、戦後間もない昭和22年1月、不審火で焼失してしまいましたが、幸いなことに鉄筋コンクリート造り1階部分が遺構として現存し、当時の意匠をよく残している。
 昭和46年に、横浜市がフランス政府から買収整備し、翌年の昭和47年からフランス山公園として市民に開放され、今日に至っている。
幕末から一環して、フランス政府の施設が置かれ、それを物語る遺構が多数、現存する歴史的場所である。と掲載されていた。

(フランス山公園)

(山下公園からフランス山公園への路)

(港がみえる丘公園からフランス山公園への路)

(レンガ井戸遺構)

(金網で覆われたレンガ井戸)

(レンガ井戸の内部を撮ろうと思うが深くて映らない)

(風車の基礎らしい)

(井戸水汲みの再現風車)

(レンガ井戸について)

(広場)

(フランス山公園配置図)

(風車について)

(領事館入口)

(領事館遺構)

(領事館遺構)

(領事館説明)

(領事館説明)

(領事館説明)

(領事館説明)

(領事館説明)

インド水塔について

2015-08-08 09:00:07 | 日記
 今回も山下公園へ行って見ました。この公園の東端にほど近い所に、インド水塔と云うモニメントがあり、そのプレートを読んでみると関東大震災に、横浜市がインド商人をはじめとする外国商人の救済措置を積極的に講じた返礼として、インド商組合から寄贈されたものである。と掲載されていました。そこで「郷土よこはま」中央図書館編集発行を見ると、次のような事を記述されていた。
 関東大震災の際に、インド商人が近隣法人から助けを受けた横浜在住のインド人の感謝の意がこめられて、在日インド人協会から、昭和14年に寄贈されたものである。それは、イスラム教の寺院モスクの中庭にある泉亭(ハウズという)に似た日本には珍しいモニメントである。
 これが、東京築地の本願寺(昭和9年)思わせるような形であり、そのミニチュアといえなくもないものです。現に、この設計者は、当時、横浜市の建築課長だった人で、本願寺を参照したかもしれない。ドームの内側など、随所に精巧な造形が見られる。
 資料によれば、関東大震災の際、在留のインド人に対しての日本側の措置に対する感謝の意を込めて寄贈されたとあり、現地の説明ブレート以上のことはよくわからない。となっていた。
 一方、「ヨコハマ歴史散歩」には、「戦前の昭和12年、インド政府寄贈の水塔」の記述。横浜の水道がいつも水量豊富であることを祈って、インド政府から横浜市に送られた水塔とあった。
 困った時の助け合いは、何時の世も当然の様に行われている美しい話があったことをしみじみ感じました。

(山下公園見取り図)

(インド水塔モニメントです)

(塔のプレート)

(天井部分)

(標示版)

かながわ景勝50選の碑について

2015-08-01 09:01:44 | 日記
 今日は、山下公園へ行って見ました。この公園に、かながわ景勝50選の碑がありましたので、「かながわの景勝ウォーク50選」により調べると、次のような事が記述されていました。
 「のどかな港の風景」中華街、外国人墓地、ランドマークタワー横浜を訪ねる楽しみは尽きないが、最もミナトヨコハマらしい風景に山下公園をあげる向きは多い。
 臨海公園としては、日本で初めてという。海鳥の舞うのどかな港の景色はいつも心をなごませるが、四季の中でも春がいい。霞にゆらめく対岸の埠頭や沖を行く舟影、見通しの利く清涼な秋や冬よりも、春ののどかな空気が旅情を誘う。お弁当を広げて日がな一日のんびりするのもいい。桜や噴水公園の草花も楽しみだ。
 山下公園のシンボルは「太平洋の女王」氷川丸。公園の誕生と同じ1930年(昭和5年)に水進。病院船や引き揚げ船、シアトルの航路の使命を終えて、公園前に係留されたのが昭和36年(1961) 以来公園に欠かせない存在となった。甲板からのみなとみらい21の夕景がとてもいい。
 馬車道、横浜開港当時、異人たちの乗った馬車が行き交った道。アイスクリームやガス灯など馬車道発祥のものは多い。県立歴史博物館は、青銅のドームと重厚な外壁が目印。横浜税関は、スイラム風の塔が目を引く。県庁の「ギング」横浜開港記念館の「ジャック」とともに「クイーンの塔」と呼ばれた。
 横浜開港資料館には、日米和親条約調印の場所でもある。開港当時の横浜の資料を多数所蔵している。また、横浜中華街、500メートル四方に二百軒余りの中華料理店が並ぶ。年間1700万人もの観光客訪れるという。とありました。
 一方、神奈川景勝100選には、横浜を代表する海に面した公園。関東大震災の瓦礫を使った埋立地。園内は、芝生広場、「水の守護神」の像が立つ中央広場、春には美しいバラが咲き誇る花壇、おまつり広場、石のステージ、世界の広場からなる。
 船の往来やベイブリッチ赤煉瓦倉庫みなとみらい21と港町の風景が楽しめる。「赤い靴はいてた女の子」の像や日本郵船氷川丸も有名と記述があった。
 さて、前述の県庁の「ギング」横浜開港記念館の「ジャック」とともに「クイーンの塔」と記述しましたが、これについて、横浜港大さん橋のパンフレットに記述がありましたので、追記いたします。
 外国人船員たちが名づけたと云われる建物の名称であります。明治、大正、昭和初頭には、沖合から入港してくると目前にこれらの建物の塔が目に入って来たことでしょう。以下、写真で建物および山下公園をご紹介いたします。

(山下公園見取り図)

(山下公園50選の碑)


(県庁建物「キング」)関東大震災1928年(昭和3年10月四代目の県庁、「国の登録有形文化財」設計競技コンペが行なわれ、実施賞金5000円、塔は五重の塔をモチーフにしたとされていました。


(開港記念館「ジャック」 国指定重要文化財)1909年明治42年横浜開港50周年を記念して建築決定、1914年(大正3)着工1917年(大正6)竣工その後1978年(昭和53)改修工事 
 横浜で日米和親条約締結したのは、安政元年(1854)3月、その後、安政5年(1858)米・蘭・露・英・仏と修好通商条約を締結(安政の五カ国条約)であります


(横浜税関「クイーン」1,917年(大正6年竣工)) 
 横浜税関は、安政6年(1859)6月2日から、横浜開港と同時に開設され「神奈川運上所」が前身で、明治5年(1872)に横浜税関と称された。


(横浜正銀行本店1904年(明治37)竣工国指定重要文化財))現在神奈川県立歴史博物館


(旧横浜生糸検査所1926年(大正15年)竣工「キイケン」)1993年創建当時の状態に復元 現在横浜第二合同庁舎
 横浜の生糸検査所業務を開始したのは、明治29年(1896)から始まったのであります。


(横浜大さん橋)
(平成13年2002に完成した 横浜大さん橋) 前身は、1894年に鉄桟橋を造った。

(横浜大さん橋)

(横浜大さん橋からベーブリッチ棟沖を望む)

(横浜大さん橋からみなとみらい21方向)中央左にランドマーク、手前は赤レンガ倉庫です

(山下公園の花壇とマリンタワー)

(山下公園の花壇)

(山下公園の花壇)

(山下公園の花壇とマリンタワー)

(山下公園の芝生とマリンタワー)

(公園の芝生 中央後方に氷川丸)

(赤い靴の人形)

(山下公園の花壇とマリンタワー)

(山下公園の噴水)

(山下公園の花壇とマリンタワー)

(山下公園の花壇とマリンタワー)

(人工の泉、いや小川?) この後方に石のステージ広場があります

(銀杏並木秋の紅葉は見事です)

(氷川丸現役を退き1961年係留されて早や50年が過ぎ去りました)