「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
西門という地名は、法華堂(頼朝の墓の下にある)の西方の地をさしていう。
大蔵幕府の西門に面しているところからこの名がつけられた。
かつて此の辺には、報恩寺、保寿院、高松寺、来迎寺等の寺々があったが、今は高松寺、来迎寺の二寺だけがこの碑の北方にあるだけである。
建立場所 筋替橋から横浜金沢八景方へ面初めての左小道の左側
参考
「西御門」
頼朝がこの大蔵の地に幕府を開き、おのが館も設けたのであるが、そのとき持仏堂として法華堂を建てた。この法華堂の西にあたる一帯の地を西御門というようになったのは、幕府の西門があったことによる。
「報恩寺」
南朝の建徳二年、北朝の年号では応安四年(1371年)に開かれた臨済宗の寺院で、開基は上杉能憲、開山は義堂周信と言われている。一時はかなり栄えて加藍も立派であったようであるが、百年たらずの歳月の後に衰滅してしまったらしい。
この寺にあった本尊の木造地蔵菩薩坐像(宅間浄宏作)と、南北朝時代の木造跋陀姿羅尊者像とは来迎寺に保存され、梁牌は瑞泉寺につたわっていると言う。
「報恩寺」
南朝の建徳二年、北朝の年号では応安四年(1371年)に開かれ臨済宗の寺院で、開基は上杉能憲、開山は義堂周信と言われている。一時はかなり栄えて伽藍も立派あったようであるが、百年たらずの歳月の後に衰減してしまったらしい。
この寺にあった木尊の木造地蔵菩薩坐像(宅間浄宏作)と、南北朝時代の木造跋陀姿羅尊者像とは来迎寺に保管され、梁牌は瑞泉寺に伝わっていると言う。
「保寿院」
足利尊氏の室で、基氏の生母である清江禅尼の菩堤寺(臨済宗)で、正平二三年(北朝では応安元年)(1368年)に禅尼が他界したあと、その遺命によって西御門の別殿を保寿院と号したと、鎌倉事典に述べてあるが、西御門のどこにあったか、また廃寺となった年も明らかでない。足利氏と縁の深い寺であったし、瑞泉寺の塔頭ともなっていたらしい。
「高松寺」
日蓮宗の尼寺で、甲州身延山の末寺にあたる。寛永一九年(1642年)8月、水野淡路守重良が、その父高松院日仙の追福のために建てたと言われているが、昭和になってから、この寺は宮城県栗原郡若松に移されたので、今はこの地にはない。
「来迎寺」
(西御門の碑)
(各方面への道標と碑)
(鎌倉駅方面から西御門への道とととと)
西門という地名は、法華堂(頼朝の墓の下にある)の西方の地をさしていう。
大蔵幕府の西門に面しているところからこの名がつけられた。
かつて此の辺には、報恩寺、保寿院、高松寺、来迎寺等の寺々があったが、今は高松寺、来迎寺の二寺だけがこの碑の北方にあるだけである。
建立場所 筋替橋から横浜金沢八景方へ面初めての左小道の左側
参考
「西御門」
頼朝がこの大蔵の地に幕府を開き、おのが館も設けたのであるが、そのとき持仏堂として法華堂を建てた。この法華堂の西にあたる一帯の地を西御門というようになったのは、幕府の西門があったことによる。
「報恩寺」
南朝の建徳二年、北朝の年号では応安四年(1371年)に開かれた臨済宗の寺院で、開基は上杉能憲、開山は義堂周信と言われている。一時はかなり栄えて加藍も立派であったようであるが、百年たらずの歳月の後に衰滅してしまったらしい。
この寺にあった本尊の木造地蔵菩薩坐像(宅間浄宏作)と、南北朝時代の木造跋陀姿羅尊者像とは来迎寺に保存され、梁牌は瑞泉寺につたわっていると言う。
「報恩寺」
南朝の建徳二年、北朝の年号では応安四年(1371年)に開かれ臨済宗の寺院で、開基は上杉能憲、開山は義堂周信と言われている。一時はかなり栄えて伽藍も立派あったようであるが、百年たらずの歳月の後に衰減してしまったらしい。
この寺にあった木尊の木造地蔵菩薩坐像(宅間浄宏作)と、南北朝時代の木造跋陀姿羅尊者像とは来迎寺に保管され、梁牌は瑞泉寺に伝わっていると言う。
「保寿院」
足利尊氏の室で、基氏の生母である清江禅尼の菩堤寺(臨済宗)で、正平二三年(北朝では応安元年)(1368年)に禅尼が他界したあと、その遺命によって西御門の別殿を保寿院と号したと、鎌倉事典に述べてあるが、西御門のどこにあったか、また廃寺となった年も明らかでない。足利氏と縁の深い寺であったし、瑞泉寺の塔頭ともなっていたらしい。
「高松寺」
日蓮宗の尼寺で、甲州身延山の末寺にあたる。寛永一九年(1642年)8月、水野淡路守重良が、その父高松院日仙の追福のために建てたと言われているが、昭和になってから、この寺は宮城県栗原郡若松に移されたので、今はこの地にはない。
「来迎寺」
(西御門の碑)
(各方面への道標と碑)
(鎌倉駅方面から西御門への道とととと)