gooブログはじめました!よろしく

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

西御門について 東NO11

2018-03-31 08:30:52 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
西門という地名は、法華堂(頼朝の墓の下にある)の西方の地をさしていう。
大蔵幕府の西門に面しているところからこの名がつけられた。
かつて此の辺には、報恩寺、保寿院、高松寺、来迎寺等の寺々があったが、今は高松寺、来迎寺の二寺だけがこの碑の北方にあるだけである。
 建立場所 筋替橋から横浜金沢八景方へ面初めての左小道の左側
 参考
 「西御門」
 頼朝がこの大蔵の地に幕府を開き、おのが館も設けたのであるが、そのとき持仏堂として法華堂を建てた。この法華堂の西にあたる一帯の地を西御門というようになったのは、幕府の西門があったことによる。
 「報恩寺」
 南朝の建徳二年、北朝の年号では応安四年(1371年)に開かれた臨済宗の寺院で、開基は上杉能憲、開山は義堂周信と言われている。一時はかなり栄えて加藍も立派であったようであるが、百年たらずの歳月の後に衰滅してしまったらしい。
 この寺にあった本尊の木造地蔵菩薩坐像(宅間浄宏作)と、南北朝時代の木造跋陀姿羅尊者像とは来迎寺に保存され、梁牌は瑞泉寺につたわっていると言う。
 「報恩寺」
 南朝の建徳二年、北朝の年号では応安四年(1371年)に開かれ臨済宗の寺院で、開基は上杉能憲、開山は義堂周信と言われている。一時はかなり栄えて伽藍も立派あったようであるが、百年たらずの歳月の後に衰減してしまったらしい。
 この寺にあった木尊の木造地蔵菩薩坐像(宅間浄宏作)と、南北朝時代の木造跋陀姿羅尊者像とは来迎寺に保管され、梁牌は瑞泉寺に伝わっていると言う。
 「保寿院」
 足利尊氏の室で、基氏の生母である清江禅尼の菩堤寺(臨済宗)で、正平二三年(北朝では応安元年)(1368年)に禅尼が他界したあと、その遺命によって西御門の別殿を保寿院と号したと、鎌倉事典に述べてあるが、西御門のどこにあったか、また廃寺となった年も明らかでない。足利氏と縁の深い寺であったし、瑞泉寺の塔頭ともなっていたらしい。
 「高松寺」
 日蓮宗の尼寺で、甲州身延山の末寺にあたる。寛永一九年(1642年)8月、水野淡路守重良が、その父高松院日仙の追福のために建てたと言われているが、昭和になってから、この寺は宮城県栗原郡若松に移されたので、今はこの地にはない。
 「来迎寺」

(西御門の碑)

(各方面への道標と碑)

(鎌倉駅方面から西御門への道とととと)

筋替橋について 東NO10

2018-03-24 08:19:58 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
宝治元年(1247年)6月、三浦泰村一族の乱があったとき、北条時頼の母方の祖父にあたる安達景盛が一族と共に兵をひきつれて三浦氏を攻め、此の橋の北側のあたりから三浦泰村の屋敷を討ったということが東鑑に記されている。
また、文永2年(1265年)3月、鎌倉にある商家の営業地域を数か所に限定する触れ書が出された。その中に「一所は須地賀江橋」とあるが、これは此のあたりのことをさしいる。
 建立場所 横大路を横浜八景に向う横浜国大付属手前の右カーブ付近
 参考
 「須地賀(すちか)江橋(えはし)」
 若宮大路の東にあって、それとほぼ平行にある小町大路は、北上して、三浦邸の方に伸びていたと思われるが、これは暗渠になった下水路の水すじによってたしかめることができる。
 この橋は、小町大路と金沢方面六浦路との合するところであるので、「新編相模国風土記」「鎌倉攪勝考」などにもこの橋の名が出ているし、また文永二年(1265年)には町屋の免許がこの地におりていることから、この辺が商業地域でもあり、従って要衝の地点であったことも明らかである。
 「三浦と安達の合戦」
 宝治元年(1247年)6月、三浦合戦の火付けとなった安達一族が、長谷甘縄の館を出て鶴岡八幡宮からこの筋替橋のあたりに兵力を集め、ときの声をあげると共に、薩摩十郎公義なる者が鳴鏑を三浦の屋敷に向けて放ち、激しい市中戦のまき起こったことが吾妻鏡に記されている。
 この一戦によって三浦一族破は滅亡するのであるが、その詳細は、「法華堂跡」の碑の所とで述べる。
 なお、この筋替橋のあとに立って、南方200メートルほどの地点にある北条氏の邸(今の宝戒寺)と北方200メートル位の地にあった三浦氏の邸(今、国大付属小・中学校の敷地の北はずれのあたり)とを交互に見るとき、当時の市中戦の規模と、そこに展開される凄じい修羅場を、それぞれ想見することができよう。などというような記述がありました。
2017.11.4投稿の筋替橋も併せご覧ください。

(筋替橋の碑)

(鎌倉駅方向を望む)

(横浜金沢八景方向を望む)

畠山重忠邸址について 東NO9

2018-03-17 09:00:56 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
正治元年(1199年)5月、すでに亡くなった頼朝の次女である三幡姫が病み、この病気を治療のために、当時の名医丹波時長という者が京都から鎌倉へ下って来た。
東鑑(吾妻鏡)には、これについて
「七日(正治元年5月)時長が、掃部頭(かもんのかみ)親能の亀が谷の家から、畠山次郎重忠の南御門の家に移った。姫君のごく近いところに居て、御病気の治療にあたるための転居である。
と記している。
此の池は、この記録にある南御門の宅のあったあとである。
 建立場所 
 参考
 「三幡の生涯」
 三幡は乙姫と号し、頼朝、政子の次女として頼家の次に生まれた。歿年は正治元年6月30日で、時に14歳であったと吾妻鏡は記しいる。一説には、15歳、あるては17歳であったろうとも言われている。
 いずれにしても。歿年について一致しているので、三幡は頼朝が正月13日に死んだその年に、父のあとを追うように、半年を経ずしてこの世を去ったのであった。
 もともと病気がちであった三幡は、亡くなる年の3月5日には高熱によって危篤の重態となった。二年前に長女の大姫を病にて失い、つづいて数カ月前には夫頼朝とも死に別れた政子にとって、この三幡の重病は、まことに身を切られるような切なさであったろう。
病いが重くなって、日を追うて憔悴のひどくなるわが子の看病に夜も日もなくつとめてきた政子は、3月12日、京都にあって名医の名の高い針博士丹波時長に対して、鎌倉に下向し三姫の治療にあたることを乞うた。時長がしきりに固辞するので、遂にはこれ上拒むとあらば後鳥羽院に申し上げて、無理にも時長を差しつかわされるようにすると迫り、政子は必至の思いで三幡の命をつなぐことにつとめたのであった。
 医師時長は、政子の懇請に動かされて、やっと5月6日に鎌倉に着いた。時長の再三の固辞に対して、後鳥羽院の院宣までが下されて、時長の下向が実現したのだという。鎌倉に着いて最初の一夜は、亀ガ谷の掃部守親能の宅に泊ったが、翌日雨の中をおして、畠山重忠の邸、すなわちこの碑の立つ地に移った。三幡の住む大蔵幕府内の邸に、少しでも近いところに時長を住まわせ、治療にこと欠かぬようにとの、政子の切なる母心であったろう。
 5月29日の夕がになって少々食事もとるようになり、吾妻鏡は喜びのさまを記している。しかし、6月に入ると目の腫れ朱ってしまい、侍医の時長もあきらめて、6月26日には、医師時長も京に戻ってしまい、30日の昼頃、三幡は遂に短い生涯の息を引きとり、政子はじめ諸人の歎きは、記すにいとまもなきほどであったと、吾妻鏡の筆者も共に悲しみのうちに記している。
 亡きがらは乳母の夫、中原親能の住む亀ガ谷堂の傍にひっそりと葬られた。北条義時、大江広元、三浦義澄、畠山重忠、梶原景時そのたの武将の面々も供奉して、薄幸の少女の野辺送りをしたという。などという記述がありました。
 「畠山重忠の邸」
 畠山重忠は、頼朝の信頼あつき武将であったので、この地に邸を与えられたという。
 幕府に最も近い位置に邸をゆるされた畠山氏(現横浜国立大学付属小・中学校の北の地域に宅があった。)和田氏(一族が荏原天神社のわきに邸をかまえた。)等の邸配置を見ると、これら三氏がいかに頼朝の信頼深き武将であったかを知ることができよう。
 畠山重忠の邸の碑が、現在の位置にあたることについては、かねてより疑問がもたれていた。「新編相模国風土記」には、重忠の宅蹟は筋替橋の南西に在りときされているし、吾妻鏡には、南御門の宅とあるので、現在の位置の信憑性はぐらついて来ている。
 たまたま昭和五十五年の夏、位置の発掘調査が行われ、思いよらぬ貴重な出土品が次々とあらわれたので、すわ畠山屋敷かと色めき立ったのであるが、発掘の指導にあたった大三輪龍彦氏の推定では、重忠の頃より百余年を下った鎌倉時代末期か、南北朝の頃にかかる遺跡であろうとのことであった。
 畠山邸あとの確証は得られなかったが、この発掘調査からは、当時の生活状況を知ることができた。この発掘を度々訪れて見学する間だけでも、次のようなめずらしい出土品を目にし、(高さ八センチ程の五輪塔、骨製のサイコロやガラスのビーズなど)このところに住んでいた武人は、かなりの身分の者であったろうことは、動かすことのできぬ事実となった。
 さらに驚くべきことは、鎌倉期の地表の五十センチ程の下層から、二千年も遡る弥生時代の住居あとが見つかったことであった。ほぼ完全な弥生武士器、水がめ、炉のあとと思われる赤い焼け土、長径七メートル位もあるこの住居の下には、さらに弥生住居のあることも確認されたので、鎌倉の歴史は、一気に二千年も古き時代から書き改められなければならなくなった。土器の紋様から判断して、弥生中期の後半と、発掘の人々は推定したので、ほぼ紀元一世紀の頃のものということになろうか。そうすると邪馬台国に卑弥呼が出る少し前、北九州で倭の奴国王が後漢の光武帝から金印を受けた頃に、すでに、この地にも、なりわいをもつ人々が滑川の河岸段丘を生活の基盤としていたことになるので、鎌倉の古きをたずねる者に、大波紋を投げかけたことになってしまった。などという記述がありました。

(畠山重忠邸址)

(写真奥方 鶴岡八幡宮)

源平池について 東NO8

2018-03-10 09:28:20 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の内容概要としては、碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
寿永元年(1182年)4月、源頼朝の命により、専光坊と大庭平太景義が工事の責任者として、鶴岡八幡宮境内に池を掘ったということが、「東鑑」(吾妻鏡)に記されている。
一説には、頼朝の夫人政子が、源家の興隆を祈願して此の池をつくらせ、東の池には白蓮を西の池には、紅蓮を植え、源平の旗の色を表したと伝えられ、源平池の名もこれら出たという。というような記述がありました。
 建立場所 八幡宮境内入った橋の両方
 「源平池」
 養和二年(5月に寿永と改元)4月24日の吾妻鏡は、「鶴岳若宮の辺の水田(絃巻田と呼んでいた田)三町余りの耕作を止めさせて、池に改められた。この監督の役は、専光坊良暹と大庭景義がつとめた。」
と記しているから、頼朝が鎌倉に入り、鶴岡八幡宮を現在の池に移してから1年半の間は、この池のあたりは水田であったことが明らかである。そして、この池に橋がかけられたのは翌5月のことであった。
 「紅白の蓮」
橋によって区切られた東の池には白い蓮を、また西の池には紅の蓮を植え、さらに東の池に三つの島をつくって「産」になぞらえ、西の池には四つの島をおいて「死」を暗示するよう、政子が命じたという伝承がある。
 養和二年という年は、夫の頼朝が兵を挙げた二年後で、平氏は、前年に平清盛が死んだとはいえ、全国に命を下した源氏討滅の軍が、じりじりと迫りつつあるときであり、源氏は平氏に対して決定的な勝算も得られぬ有様であった。
 政子が、この苦しい源氏に大きな蓮の開かれるようにと、ひたすらに祈ったであろうことは想像に難くないから、その悲願がこのような伝説をうみ出したのであろうか。
 源平池と呼ぶようになったのは、江戸時代にまでなってからのことらしい。
 「大庭景義」
 頼朝の父義朝に従って保元の乱の時に、源為朝の剛弓に負傷したが、それら28年を経て、頼朝が兵を挙げると、直ちに参じて石橋山の合戦以降、終始忠実に頼朝に仕えた武将である。石橋山の戦で、頼朝を攻めた総大将の大庭景親はこの景義の弟である。
 「赤橋」八幡宮の入口、源平池にかかる朱ぬりの橋のことで、古くから赤橋と呼ばれていたようである。鎌倉幕府の末の頃、北条氏の一族である守時、英時兄弟は赤橋と名乗っていたが、これは、八幡宮の赤橋の近くに住むところからそう号したという。
 「新編鎌倉志」によると、「本社へ行反橋ナリ、五間に三間アリ、昔ヨリ是レヲ赤橋トイフ」と記されている。などという記述がありました。

(源平池の碑)

(鶴岡八幡宮)

(欄干手前からの八幡社)

(源平池の向かって左側の池)

(源平池の向かって右側の池)



柳原について 東NO7

2018-03-10 09:14:42 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
此のあたりは、むかし柳の名所で柳原と呼んでいたと言われ、言い伝えにも
「年へたる鶴が岡べの柳原
   青みにけりな春のしるしに」
という古歌が伝えられている。
 この歌の作者はあきらかでなく、一説では北条泰時がうたったとも言われている。
 現在ある柳は、当時の名残であろう。
 建立場所 八幡宮階段の右国宝館付近
 「柳原」
 源平池を小さくしたような池にかけてある橋の上に立つと、いろいろの古木が池に影を映し、幽邃の中にある思いを与えるところである。この柳原について鎌倉事典では「八幡宮の舞殿の東方、もと薬師堂の前までを称した地名である。」といい、新編鎌倉志によると、「このあたりに柳が多かった」と伝え、鎌倉攬勝考によると「片枯れした柳の老大樹が」一本あって、水辺に根をおき、わずかに枝葉を生やしていたのが、地名の由来であるといっている。また、古木の柳に蛇が棲んでいたが、八幡宮の炎上のとき焼けたという伝説がある。」と述べている。
 「白幡神社」
 柳原のすぐわきにある黒塗り唐破風の社を白幡神社という。天正年間、豊臣秀吉が八幡宮の修営計画をつくらせたが、その図によると、この社は石段の上の本宮の西にあった。今の地に移ったのは明治20年(1887年)で、頼朝と実朝を祭神としている。政子・頼家の創建、造立といわれている。
 この社の頼朝の像については、つぎのような話が伝えられている。
 豊臣秀吉は小田原攻めの折にこの社に参拝し(当時この社は石段の上にあった。)頼朝の木像を見てその肩をたたき、「苦労を重ねて天下をとったことでは、あなたとわたくしは同じである。しかし、あなたは源家の御曹子としてれっきとした家柄に生まれ、しかも旗挙げのときには、たくさんの味方がいた。それにひきかえ、わたしはまったくの独力で天下をとった。その点から見れば、あなたとわたしとは天下の友といえようが、でもわたしの方があなたよりは一段上というべきであろう。」と語ってこの社を去った。などという記述がありました。

(柳原の碑)

(白幡神社への橋)

(奥の石は頼朝の碑)