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稲村崎についてNO74(西17)

2019-06-15 08:56:03 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 今を去る五百八十四年昔(昭和57年から649年の昔)、元弘三年(1333年)5月21日、新田義貞が、此の岬を廻って鎌倉に攻め入ろうとし、黄金作りの刀を海に投げ入れて、潮の退くことを海神に祈ったという所はここである。

 {参考}
 稲村崎干潟となる事(太平記巻十)
 去る程に、極楽寺の切通へ向われたる大舘二郎宗氏、本間に討たれて、兵ども片瀬越まで、引き退きぬと聞けば、新田義貞遑兵二万余騎を率して、5月21日の夜半ばかりに、片瀬腰越をうち廻り、極楽寺坂へ打ちのぞみ給う。明けゆく月に敵の陣を見給えば、北は切通まで山高く路嶮しきに、木戸をかまえ垣楯をかいて、数万の兵陣をならべてなみいたり、南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打ぎわまで逆茂木(さかもぎ)を繁く引きかけて、沖四、五町が程に大船どもをならべて、矢倉をかきて横矢に射させんと構えたり。
 げにも此の陣の寄せ手、かなわで引きぬらんもことわりなりと見給いければ、義貞馬より下り給いて、冑(かぶと)をぬいで海上をはるばると伏し拝み、竜神に向って祈誓し給いけるは、伝えうけたまわる日本開闢の主、伊勢天照大神は、本地を大日の尊像にかくし、垂跡(すいじゃく)を滄海の竜神にあらわし給えりと、吾が君其の苗裔として、逆臣のために西海の浪に漂い給う。義貞今、臣たる道を尽さんために、斧鉞(ふえつ)をとって敵陣に臨む。其の志ひとえに王化をたすけ奉って、蒼生を安からしめんとなり、仰ぎ願わくは、内海外海の竜神八郎、臣が忠を鑑みて、潮を万里のほかに退け、道を三軍の陣に開かしめ給えと、至信に祈念し、自ら佩(は)き給える金作りの太刀を抜きて、海中へ投げ給いけり、真に竜神納受やし給いけん、その夜の月のいり方に、前々更に干ることもなかりける稲村が崎、俄かに二十余町干上りて、平沙渺々のたり、横矢射んと構えぬる数千の兵船も、落ち行く潮に誘われて、遥の沖に漂えり、不思議というもたぐいなし。
 貞義これを見給いて、(中略)進めや兵共と下知られければ、江田、大舘、見里、鳥山、田中、羽川、山名、桃井の人々を始めとして、越後、上野、武蔵、相模の軍勢共、六万余騎を一手になして、稲村崎の遠干潟を、真一文字にかけ通りて、鎌倉中へ乱れ入る。

 稲村が崎の今昔
 碑の前の道路を由比が浜に向って歩き、由比が浜を見渡せるところに立ちどまってみょう。今立っているこの道は、かつてはもちろんなかったし、眼下に見下ろす防波堤も、平坦な部分の地もなかつたはずである。左手の山に海が迫り、到底海岸ぞいに大部隊が攻め込むことなど至難なわざであったろう。
太平記よれば、竜神の助けによって、思いがけなく砂浜が広く開かれ、その砂地をまっしぐらに鎌倉中に突入し、鎌倉川のあたりの町屋に火をつけたから、浜風にあおられて、今立つ所から見える限りの市街地は、紅蓮の炎と黒煙のうずまく凄惨な修羅場を現出したことであろう。
なお、海岸の砂浜を徒歩して、鎌倉攻めに加わった軍勢の大部分は、山国に育ち海を知らぬ者たちであったけれど、義貞は潮の干満を承知しており、折からの大潮で干潟の大きくなることを計算の上で、これを神仏の加護と称して、士気を鼓舞したという説もある。耳を傾ける意見であろう。
中世研究の大家、大森金五郎博士は、この点をたしかめるべく、みずから潮時を計算して、海べりを徒渉した記録も残しておられる。
昔の稲村が崎路について、高柳光寿博士は次のように述べておられる。
治承四年十月鎌倉に入った政子も、平家の大将平宗盛が捕らわれの身として鎌倉に入ったときも、この稲村が崎を通ったらしい。「梅松論」によると、この道は、石高く道が細いために、多数の軍兵を通すのに困難だと記しているので、稲村が崎道は、相当高い所を通っていたのではないか。「海道記」にも稲村という所があり、そこは嶮しい岩が重り合っている。その迫(はざま)をつたっていくと、砕ける波が花のように散りかかると書いている。
今立つ地点から左手に吃立している切り立った崖を望み見て、稲村が崎古道は、この崖の上をくねって通じていたのだろうかと思い見るのも一興であろう。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(稲村崎の碑)

(稲村崎から江の島を望む)

(富士百撰の碑)

((稲村崎の全景))

(条件が良ければ稲村崎からの富士山がみえるそうです)

(神奈川五拾撰の碑)

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