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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

和賀江島についてNO46(南16)

2018-11-24 08:51:56 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 和賀というのは、今の木材座の古い呼び名であって、此の地はむかし竹・木材の集散した港であったところから、やがて地名も木材座と称するようになった。
 和賀江島は、その和賀の港口をまもる築堤を言ったのであって、今から690余年(昭和57年から750年)の昔、貞永元年(1232年)に、資金あつめに奔走した往阿弥陀仏の申請によって、平盛網が監督となり、7月15日起工、8月7日に竣功したものである。
 {参考}
 往阿弥陀仏の悲願
 建保4年(1216年)の11月、三代将軍源実朝が渡宋の計画をたて、宋の工人陳和卿に命じて、この由比が浜で造船工事をさせたが、船は完成したものの、海岸が遠浅のため、船を海に押し出すことができず、ついに進水を断念せざるを得なかったということがあった。
 しかも、当時の鎌倉は、人口およそ15万(現在の鎌倉の市域は、当時の二倍以上に広がっていて人口は約17万人)と言われ、日本の大中心都市であったから、陸上ばかりでなく、海上を物資の輸
送にあてる船の数も、おびただしいものがあったにちがいない。しかし、大きな船になればなるほど、遠浅の海岸では、はるか遠くに錨をおろして小舟に積みかえる手数をかけねばならぬ不便さが、当時の商人たちを、どれほど難渋させたかわからない。その上、ひとたびしけや大風にあえば、船は難を避けるにも容易なことでなかった。
 この大都市にも似あわぬ不便な港に、せめて海岸近くに舟つなぎ場をつくりたいと念願した往阿弥陀仏は、貞永元年(1232年)7月、築島の工事を幕府に申請した。ときの執権北条泰時は、この申し出を非常に喜び、すすんで力を貸すことを約し、市中の人々も、この大工事に協力を惜しまなかった。
 伊豆石をはじめ、多くの石が運ばれて、7月15日に始められたこの工事は、翌月の9日に完成し、これ以来鎌倉への海運はきわめて便利になった。
 往阿弥陀仏は、この工事の前年に、筑前国(福岡県)新宮浜の鐘が崎に防波堤をつくる工事に成功した僧であったというから、鎌倉の要路の人々も、往阿弥陀仏に対する信頼があって、工事の認可支援がスム一ズにすすめられたのであろう。
 和賀江島の管理は、極楽寺が所管し、室町、江戸の時代に数回修理が行なわれたが、今は、当時をしのぶ遺蹟として残るのみである。満潮時には、海面から隠れてしまうので、それをたしかめるにも困難なほどであるが、それでも干潮時にその洲に立つと、当時運ばれた青磁のかけら、銅銭等を見つけ出すことがあり、そぞろ七百余年昔の繁華、往阿弥陀仏の達眼を思いうかべることができよう。などと言う記述がありましたので、投稿いたします。

(和賀江島の碑が立つ突先)

(和賀江島の碑)

(ウインドーサーフィンを楽しむ人々)

(ウインドーサーフィンを楽しむ人々)

(主人を待つ)

辨谷についてNO45(南15)

2018-11-16 15:34:51 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 元亨元年(1321年)相模守北条高時が創建した金剛山宗寿寺は、此の地域にあった。
 道興准后の記した廻国雑記の中に紅谷とあるのと、田代系図に拠って千葉の介の敷地としている別谷とは、共に辨谷に同じであるという説もあるが、はっきりとはしていない。
{参考}
 崇寿寺
 この碑の立っている地域には、北条高時が元享元年(1321年)に創建した金剛山崇寿寺があったという。
 臨済宗に属し、元享3年に北条貞時の13回忌の供養が行われたときには、当寺から13人もの僧が参じていたというから、寺は、かなりの規模をもっていたと思われる。
 この寺は、応永31年(1424年)まで存在していたことはわかっているが、その後いつ廃寺となったかは不明である。
 廻国雑記
 道興准后のものした「廻国雑記」には、「べにが谷をとをりて化はひ(粧)坂を越すとて、かほ(顔)にぬるべに(紅)がやつよりきて、はやくも越ゆるけはい坂かな」とある。
 千葉介
 「田代略図系図」によると、「別谷は千葉殿の敷地なり、介の唐名を別賀(駕)と言う間、別の谷と言う」と記されている。
 千葉介は、ここに住んでいたと、碑は説明しているが、千葉介がここにいたとは考えられないことで、佐竹屋敷に近いところから、常陸介、上総介に付会したのであろうと、「鎌倉攪勝考」は反論している。
 辨が谷、紅が谷、別が谷が、別が谷が、同一の地をさすものかどうかは、今も判然としていない。
 などと言う記述がありましたので、投稿いたします。

(辨谷の碑)

(碑設置の街路)

荒井閣魔堂跡についてNO44(南14)

2018-11-10 08:31:58 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 滑川の下流を閣魔川と呼んでいるが、それは、むかし此の辺に閣魔堂があったところからいわれている。
 その閣魔堂後に、山ノ内に移されて、今新居山円応寺と称しているが、その移転の年代ははっきりしていない。
(参考)
閻魔堂
 ここにいう閻魔堂は、今、建長寺のななめ向かいの、小袋坂上にある円応寺として移建されている。
 この閻魔堂は、はじめは由井の郷、見越岩にあって荒井閻魔堂と称してした。それが足利尊氏の手によって、海に面した場所に移された。江戸時代の貞享二年(1685年)に出された「新編鎌倉志」によれば、この閻魔堂は、由比が浜の大鳥居(今の一の鳥居であろうか)東南にあって、新居山と号していたとある。
 その後、元禄十六年(1703年)に、震災にあってひどく破損してしまったため、さらに現在の地に移したのである。
 碑では、その移転の年代は不明とあるが、「建長寺参暇日記」によって、その時期は宝永元年(1704年)であることが明らかとなっている。
 閻魔大王
 閻魔堂の本尊は、閻魔大王で、運慶の作と言われているが、その真偽は明らかでない。5メートルの背丈をもつ巨象は、その目、口、あから顔でこぶのもりあがったような額など、異様で恐怖をいだかせる容貌をもち、裁きの場に引き出された亡者たちは、ふるえおののかずにはいなかったであろう。
 鶴岡八幡宮の境内にある国宝館には、閻魔十王のうち、初江王が展示されているので、わざわざ小袋坂の円応寺までいかずとも、ここで閻魔の形相にふれることはできる。
 碑の現在地
 もとは道路のかたわらにあったこの碑なのだが、たびたび位置を動かされ、今は、木材座5ノ11ノ9布川氏宅の奥に立っているので、この碑を訪ねるためには、府川氏の諒承をえなければならなくなっている。
以上よう記述がありましたので、投稿いたします。

(荒井閣魔堂跡の碑)

(碑のある沿道)

乱橋についてNO43(南13)

2018-11-03 09:12:38 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 乱橋は、また濫橋とも記し、一石橋という名がある。橋の南方には連理の木があって知られている。
 「東鑑」(吾妻鏡)の宝治二年(1248年)6月の記事に、「十八日の夜明四時のころ、濫橋の辺一町ばかりの南に雪が降って、其の辺霜がおりたようだ。」などとある。
 辻町木材座との、境をなす細流にかかる逆川橋と共に、鎌倉十橋にあげられている。
(参考)
 乱橋
 今は舗装された道路である上に、小さな橋であるため、気づかずに通り過ぎてしまうような現況であるから、この碑が無かったらたいていの人は見落としてしまうであろう。
 この通りの北片よそ500メートルのところにある逆川橋と共に、いずれも鎌倉十橋の一つである。
 新田義貞が鎌倉に攻め入ったとき(1333年)北条勢がこの橋のあたりからくずれはじめたので、乱橋の名がついたと、土地の人は言っている。
 一石橋という別名は、この川幅からおして、一枚石がわたされていたところからつけられたものではなかろうか。
橋の南に、もとは2本の木でありながら、先の方で一つにくっついてしまった連理の木があったと、碑は伝えるのだが、そのような木はもう見当たらない。
 乱橋の雪
 吾妻鏡には、「十八日甲午、寅刻、濫橋辺一許町以下南雪降、其辺如霜云々」と記されいるから、旧暦の6月は、今では7月頃と思われる夏の夜明けに、雪が降ったことを珍事として記録に残したのであろう。
 もっとも、吾妻鏡のこの記録の前後を読むと、相模川の水が血の如く赤くなり、白布をひたしたら紅梅のように染まったとか、常陸国(茨城県)で白雪が降ったとか、黄色の蝶の大群が鎌倉へとんで来たとか、異変を伝える記事が多い。
 鉢の木の挿話で知られた執権北条時頼の代であるが、世情の不安が巷に流れていたことが、こんな記事の中からも知ることができる。
 九品寺
 乱橋を渡って南に少し歩くと、九品寺のかどにでる。
 浄土宗の寺であって、鎌倉攻略の総大将新田義貞が開基した。義貞は鎌倉に突入した元弘三年(1333年)5月22日、このあたりに陣をとって号令したと伝えられているが、その義貞が北条氏の滅亡後、戦死者を弔ってこの寺を建てたという。
 この寺には石造りの美しい薬師如来の座像があり、永仁四年(1296年)の年号が刻まれてある。この石像は、今は八幡宮境内の国宝館に置かれている。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。

(乱橋の碑)

(現在の乱橋のランカン)

(現在の乱橋のしたをながれる川)