「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
和賀というのは、今の木材座の古い呼び名であって、此の地はむかし竹・木材の集散した港であったところから、やがて地名も木材座と称するようになった。
和賀江島は、その和賀の港口をまもる築堤を言ったのであって、今から690余年(昭和57年から750年)の昔、貞永元年(1232年)に、資金あつめに奔走した往阿弥陀仏の申請によって、平盛網が監督となり、7月15日起工、8月7日に竣功したものである。
{参考}
往阿弥陀仏の悲願
建保4年(1216年)の11月、三代将軍源実朝が渡宋の計画をたて、宋の工人陳和卿に命じて、この由比が浜で造船工事をさせたが、船は完成したものの、海岸が遠浅のため、船を海に押し出すことができず、ついに進水を断念せざるを得なかったということがあった。
しかも、当時の鎌倉は、人口およそ15万(現在の鎌倉の市域は、当時の二倍以上に広がっていて人口は約17万人)と言われ、日本の大中心都市であったから、陸上ばかりでなく、海上を物資の輸
送にあてる船の数も、おびただしいものがあったにちがいない。しかし、大きな船になればなるほど、遠浅の海岸では、はるか遠くに錨をおろして小舟に積みかえる手数をかけねばならぬ不便さが、当時の商人たちを、どれほど難渋させたかわからない。その上、ひとたびしけや大風にあえば、船は難を避けるにも容易なことでなかった。
この大都市にも似あわぬ不便な港に、せめて海岸近くに舟つなぎ場をつくりたいと念願した往阿弥陀仏は、貞永元年(1232年)7月、築島の工事を幕府に申請した。ときの執権北条泰時は、この申し出を非常に喜び、すすんで力を貸すことを約し、市中の人々も、この大工事に協力を惜しまなかった。
伊豆石をはじめ、多くの石が運ばれて、7月15日に始められたこの工事は、翌月の9日に完成し、これ以来鎌倉への海運はきわめて便利になった。
往阿弥陀仏は、この工事の前年に、筑前国(福岡県)新宮浜の鐘が崎に防波堤をつくる工事に成功した僧であったというから、鎌倉の要路の人々も、往阿弥陀仏に対する信頼があって、工事の認可支援がスム一ズにすすめられたのであろう。
和賀江島の管理は、極楽寺が所管し、室町、江戸の時代に数回修理が行なわれたが、今は、当時をしのぶ遺蹟として残るのみである。満潮時には、海面から隠れてしまうので、それをたしかめるにも困難なほどであるが、それでも干潮時にその洲に立つと、当時運ばれた青磁のかけら、銅銭等を見つけ出すことがあり、そぞろ七百余年昔の繁華、往阿弥陀仏の達眼を思いうかべることができよう。などと言う記述がありましたので、投稿いたします。
(和賀江島の碑が立つ突先)
(和賀江島の碑)
(ウインドーサーフィンを楽しむ人々)
(ウインドーサーフィンを楽しむ人々)
(主人を待つ)
和賀というのは、今の木材座の古い呼び名であって、此の地はむかし竹・木材の集散した港であったところから、やがて地名も木材座と称するようになった。
和賀江島は、その和賀の港口をまもる築堤を言ったのであって、今から690余年(昭和57年から750年)の昔、貞永元年(1232年)に、資金あつめに奔走した往阿弥陀仏の申請によって、平盛網が監督となり、7月15日起工、8月7日に竣功したものである。
{参考}
往阿弥陀仏の悲願
建保4年(1216年)の11月、三代将軍源実朝が渡宋の計画をたて、宋の工人陳和卿に命じて、この由比が浜で造船工事をさせたが、船は完成したものの、海岸が遠浅のため、船を海に押し出すことができず、ついに進水を断念せざるを得なかったということがあった。
しかも、当時の鎌倉は、人口およそ15万(現在の鎌倉の市域は、当時の二倍以上に広がっていて人口は約17万人)と言われ、日本の大中心都市であったから、陸上ばかりでなく、海上を物資の輸
送にあてる船の数も、おびただしいものがあったにちがいない。しかし、大きな船になればなるほど、遠浅の海岸では、はるか遠くに錨をおろして小舟に積みかえる手数をかけねばならぬ不便さが、当時の商人たちを、どれほど難渋させたかわからない。その上、ひとたびしけや大風にあえば、船は難を避けるにも容易なことでなかった。
この大都市にも似あわぬ不便な港に、せめて海岸近くに舟つなぎ場をつくりたいと念願した往阿弥陀仏は、貞永元年(1232年)7月、築島の工事を幕府に申請した。ときの執権北条泰時は、この申し出を非常に喜び、すすんで力を貸すことを約し、市中の人々も、この大工事に協力を惜しまなかった。
伊豆石をはじめ、多くの石が運ばれて、7月15日に始められたこの工事は、翌月の9日に完成し、これ以来鎌倉への海運はきわめて便利になった。
往阿弥陀仏は、この工事の前年に、筑前国(福岡県)新宮浜の鐘が崎に防波堤をつくる工事に成功した僧であったというから、鎌倉の要路の人々も、往阿弥陀仏に対する信頼があって、工事の認可支援がスム一ズにすすめられたのであろう。
和賀江島の管理は、極楽寺が所管し、室町、江戸の時代に数回修理が行なわれたが、今は、当時をしのぶ遺蹟として残るのみである。満潮時には、海面から隠れてしまうので、それをたしかめるにも困難なほどであるが、それでも干潮時にその洲に立つと、当時運ばれた青磁のかけら、銅銭等を見つけ出すことがあり、そぞろ七百余年昔の繁華、往阿弥陀仏の達眼を思いうかべることができよう。などと言う記述がありましたので、投稿いたします。
(和賀江島の碑が立つ突先)
(和賀江島の碑)
(ウインドーサーフィンを楽しむ人々)
(ウインドーサーフィンを楽しむ人々)
(主人を待つ)