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岩亀楼の石灯籠について

2015-02-21 12:18:43 | 日記
 今日は、横浜市中区の横浜公園の「岩亀楼の石灯籠」について投稿いたします。まず、岩亀楼とはなにか。でありますが、「中区の歴史を碑もトーク」によれば、横浜開港にともない新田の沼地約15000坪(45平方メイトル)を埋め立し、港崎町と命名されその中に岩亀楼などが開業し国際社交場とし栄えた港崎町一帯は慶應2年(1866年)大火で (通称豚屋火事)消失し跡地は当時在留外国人の要望として再生することに決まり、明治9年(1876年)日本初の洋式公園(現横浜公園)が誕生した。
 この灯籠は妙音寺(南区三春台)から横浜市に寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字から、岩亀楼にちなむものであることがわかる。
 岩亀楼は、始め港崎町に建てられ、慶應2年の大火で類焼、以後二転三転して明治16年(1883年)永楽町に移り、明治17年に廃業した。
 この灯籠は、明治初年頃のものと思われるが、何時妙音寺に移されたかは判明していない。震災、戦災によって多くの文明開化の遺物をうしなった横浜にとっては、貴重な文化財の一つと云えよう。となっていました。
 一方、「都市ヨコハマ物語」には、安政(1854年から1859年)の開港時代は、港に遊郭はつきものであった。幕府は、神奈川に対して横浜の魅力を増し、人を引き付けるには、遊郭が必要だと考え条約にはないが、ハリスが要求してという説もあるが、これは疑問である。
 横浜開港に反対で神奈川を主張していたハリスがそんなことを云うはずがない。ハリスに対しても横浜を繁栄させなくてはならなかった幕府の策と考えるのが自然である。
 町に近くすぐ裏手に当たる太田屋新田といわれる沼地のようなところに計画された港であるが、居留地からも、日本人の町からも便利なところに、港崎町と名づけられたところの港町である。初めは「みよざきちょう」と呼ばれ、後には「こうざきちょう」とよばれた。
 しかし、遊郭を幕府自らはしないで、江戸時代でも民活事業はあった。民間から願いを出させるのである。品川宿の旅籠屋佐吉と神奈川祝の旅籠屋善二郎など5人の共同事業として、土地の埋立から建設までの願書が出される。意外と金が掛るので、外の者は下りてしまい結局埋立は佐吉1人に任せることになった。
 初めは、8千坪であったがすぐに拡張して1万5千坪ほどになった。開港には間に合わなかったが、これが開港後8日目というから実に早い。
 たちまち、内外人で大繁盛になった。江戸の「吉原」京都の「島原」と並び称されるほどの盛況であった。それに、外国人も大勢やって来て、妓楼は18軒、に下級の遊女を置く局見世が84軒で最盛期には1400人ほどの遊女を抱えていたといわれる。その中でも一際立派なのが岩亀楼である。佐吉は岩槻出身なので「岩亀楼」と名を付けたが、幕府は初めから財力のある佐吉に頼っていた。
 しかし、港崎町の繁盛は僅か7年で終わる。慶応2年10月20日(1866年11月26日)の豚屋の火事で、朝の8時から夜の10時まで火災は収まらず、居留地の1/4日本人町の1/3という関内大半を焼いてしまったのである。それは、周りが沼や海で入口が1ヶ所しかない不運の立地にあった。
 豚屋火事の2年前の元治元年11月(1864年12月)に結ばれた「横浜居留地覚書」では,外国人側からさまざまな要求が出ていた。風紀上よろしくないから、港崎町を他へ移転して公園にすることや万一火事になったときでもここに遊郭の再建はしないことを幕府に約束させていた。
 それにしてもタイミングよく覚書から2年も経たないうちに火事になったものである。なにか外国人に関係のありそうな肉屋から出火しているというのも妙な感じがする。外国人の誰かが横浜の都市改造を促進するために、豚屋を言いくるめて放火をしたのではないかとうたがいたくなる。
 火事の直後に先の覚書をいっそう具体化し促進するために「横浜居留地改造及び競馬場、墓地等約書」が慶応2年11月23日(1866年12月25日)に締結された。 この約書によって、港崎町の遊郭は、外国人と日本人の双方が利用する公園になることに決定した。また、遊郭は横浜の街を時代と共に変遷して行った。この続きの公園造りは、前回、投稿を見て下さい。
 時代をリードする者は、都合の悪いことは民活事業と云う。最近の日韓関係同様に、脳裏を過ぎります。

(公園の南西の隅の日本庭園にヒッソリ佇む 岩亀楼の石灯籠)

(同じ)

(灯籠の説明)

リチャード・ヘンリー・ブラント象

2015-02-14 17:27:00 | 日記
 今日は、横浜公園に行って見ました。この公園は、開港当時の居留地などの火災跡地の再開発として、居留地に住む関係各国との話し合いにより、建物は堅固に造り屋根は瓦、壁はレンガ、石または分厚い石灰を指定し、基本合意となった。
 道路は、歩車道を区別した街路樹のある36mの広幅員をもつ中に、「彼我共用の公園」(彼は「彼ら」我は「我ら」の意味)を造ることで合意し、これらの事業が居留地と日本人町の間に防火帯の役割をもつことであった。
 時代は、明治維新の激動期を迎え、これら事業の完成は明治初年にずれ込むが、何れにしても国の近代都市の先駆けになった。公園の事業実施には、明治3年(1870)である。それから2年余り日本、外国双方により、公園設計の打ち合わせが行われるが難航した。
 日本側は、各国公使あての文書に公園の「造園模様不案内」と書いている。初めての経験と中央の役所も外務、大蔵両省に加え、地元の県庁など関係する機関が多岐にわたり、工事が居留地改造の一連の事業に係る他事業との調整も必要となった。
 この内容は、「横浜市史」第三巻上、「神奈川県史」資料編十五(外務省外交史料館蔵「横浜新埋立地並公園創設1件」)に記述されております。
 イギリスは、リチャード・ヘンリー・ブラント土木技師を推薦し、その内容は、「西洋之公園」「芝生」「築山泉水」を設け草花を植え付け、かつ、公園の周囲には5から6尺(2メイトル)ほどの「駒寄木」を建て、入口の門を4ケ所にする案であった。
 しかし、この案に、アメリカの公使デロングより、異議の申し立てがあった。それは、英国の案に公園の半分を芝生として、クリケットを楽しもうとしている。その遊びは、中央部に円形にとればたりるなどの提案であったが、最終的には、中央に縮小され矩形になった。
 このようにして、「彼我公園」明治9年に開園されたが、初めのうちは、漠然と芝生の広がったった洋式の公園を日本人には、どのように利用したらよいか分からなかった。そもそも日本には、公園がなかったので止むを得ない。公園の運営は外国に人クラブに任され、ほとんど外国人が利用することになっていたようである。中でもイギリスが多くクリケットなどによく使われ、アメリカ人は野球をやっていた。
 このようなことから、「彼我公園」と云うより「彼らの公園」ではないかとも言われた。歴史は繰り返しすではないが、ずっと後になって、敗戦後、米軍によって13年間接収されていた。この公園はやはり「彼らの公園」になっていた。と「ヨコハマ公園物語」に記述してありました。
 さて、「リチャード・ヘンリー・ブラント」の本来の来日の目的は、日本の開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設することであったが、土木技師として、8年間に亘り、電信施設、新橋東京間の鉄道意見書,築港計画、水道計画、横浜居留地測量、日本大通り設計、横浜公園設計及び施工など幅広く近代的な町つくりに大きな足跡をのこしたことからか、横浜公園の一角には、「リチャード・ヘンリー・ブラントの象」とミニ灯台が建立されている。
 この他「岩亀楼の石灯籠」がありましたが、次回に投稿いたします。

(公園の経緯解説その1)

(公園の経緯解説その2)

(公園の経緯解説その3)

(リチャード・ヘンリー・ブラントの象)

(同背後から)

(建設した模擬灯台)

(同模擬灯台)

我国塗装発祥之地

2015-02-06 16:50:52 | 日記
 今日は、横浜市西区の元町公園にやってきたのは、わが国塗装発祥之地記念碑があることが、分かったからであります。今までにない高さの記念碑であることにビックリしました。また、何故か支柱が二本あるのでその謂れが何かであります。
 公園からの帰り、横浜中央図書館行き関係書物を結索してもらったところ「碑もトーク」中区の歴史には次のような記述がありました。
 寛永6年2月(1854年)米艦来航に際し、米国使節接見のため神奈川宿に、交易談判所を急設してこれに洋風塗装を施工したことに創まる。幕府は、この工事を江戸の住人渋塗職町田辰五郎に命じた。命を受けた彼にとって洋風塗装は全く最初の試練であった彼は、苦心研究の末在来の色胡紛に桐または荏の油を以て艶出しを施したが成果は甚だしく予期に反した。此に於て人を介し資材を米艦に需め塗法を外人職工に学び遂に同年5月6日邦人最初の塗装を完了した。
 幕府は、彼の功を評価し、塗装資材買入の特権を与えたところ、彼は、居を横浜太田屋新田に移し、鋭意精励外国公館貿易商舎等の塗装に貢献する所多大であった。洋館建築の増設に伴い同業者は横浜中心として全国各地に排出し斯界は急速の進歩を遂げたが、多くは彼の系列に繋がるものである。
 現下我国塗装界の情勢は、各種の建築物を始め調度装飾に至るまで著しき進境を示し、今や外国を凌ぐ隆昌を見るに至った。これ偏に先人並に関係業者の研鑽努力の賜で邦家興業のため慶賀に堪えぬ所である。
 横浜開港百年祭を機とし塗装業者の発企により、我国塗装発祥の地横浜を相し記念碑を建設して斯界先輩の業績を景仰し、且つこれを顕彰すると共に将来業界の進運に寄与せんとする洵に意義深いと言うべきである。と記述されていたが、横に添えられている対の柱についての記述はなかった。

(元町公園見取り図)

(記念碑への道)

(記念碑への道)

(せせらぎ)

(記念碑)

(建立者一覧)