「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
古くから金洗沢とよばれていたのは、此の辺である。
文永八年(1271年)6月、ひどい旱魃で雨が少しも降らなかったとき、幕府は、良観房忍性に雨乞いの祈禱をさせたが、その効がなかった。
その時、日蓮が此の池のほととりで雨乞いの祈りをしたら、たちまち恵みのあめが降り、地面をうるおわせたという。世に日蓮上人祈雨の霊場といっているのは、此の地のことである。
{参考}
良観と日蓮
良観とは忍性の字である。良観すなわち忍性については、「極楽寺坂」や「桑ケ谷療養所跡」の碑のところでふれているが、奈良西大寺の叡尊の弟子で、弘長二年(1261年)のころに鎌倉入り、極楽寺の開山住持となっている。元寇にあたっては、時宗の命によって蒙古調伏の祈禱をおこなっている。律宗の僧であったので、日蓮とは真向から対立の立場にあった。
日蓮については、「辻説法阯」や「草庵阯」の碑のところにのべてある。
文永八年(1271年)6月の旱魃は、全国的な大飢饉をひきおこすほどのひどいものであったから、鎌倉でも雨乞いの祈禱が行われたことはうなずける。このような場面では、祈禱の効験をせり合うというような事態も起こったのであろう。
忍性は54歳、日蓮は49歳、のときのことであった。
金洗沢
金が掘り出されたと記した史書もあり、江の島で採掘した銅を製錬したところとも言うが、あまり信用できない。むしろ七里が浜は一帯に砂鉄が多くとれるところから、その採取もさかんであったにちがいないから、それに関連した名と見た方が近いのではなかろうか。
このあたりには、頼朝も頼家も、また頼経(四代将軍)も来て、牛追物や狩をしたりしている。
ある時期には、刑場にもあてられたらしく、罪人の首をさらしたり、「海道記」の著者源光行も、ここで危うく斬罪にされようとしたこともあった。
また、鎌倉の守りのために、七か所をえらんで霊所祭を二度も行なっているが、二度とも、この金洗沢を霊所として、御祓の儀が行なわれている。
行合川
文永八年(1271年)国難来たるを警告し、既成の諸宗(念仏宗・禅宗・真言宗・律宗)を攻撃のかどで、日蓮は捕えられて松葉谷の小庵から、この七里ガ浜を経て江の島に近い片瀬龍の口へと引かれ、ついに処刑されることとなった。9月12日のことであった。
いよいよ首をうとうとすると、俄かに空がかきくもって、稲妻がはしり、処刑の武士は目が眩んで太刀をおろすことができなかったとか、いろいろの不思議が起こって、刑を執行することができなく、この事態を知らせる使者が急ぎ東に向かい鎌倉へと走った。
折も折、幕府でも日蓮を処刑すべきではないという赦免の議が決まり、その書面を持った使者の馬が七里ガ浜を西に向かった。
不思議を伝えんとする使いの馬と、赦免の状をもった使の馬とがばったり出会ったところが、この川であったという。里人が行合川というのはこのわれからであるという。などという記述がありましたので、投稿いたしのす。
(日蓮上人祈雨旧蹟の碑)
古くから金洗沢とよばれていたのは、此の辺である。
文永八年(1271年)6月、ひどい旱魃で雨が少しも降らなかったとき、幕府は、良観房忍性に雨乞いの祈禱をさせたが、その効がなかった。
その時、日蓮が此の池のほととりで雨乞いの祈りをしたら、たちまち恵みのあめが降り、地面をうるおわせたという。世に日蓮上人祈雨の霊場といっているのは、此の地のことである。
{参考}
良観と日蓮
良観とは忍性の字である。良観すなわち忍性については、「極楽寺坂」や「桑ケ谷療養所跡」の碑のところでふれているが、奈良西大寺の叡尊の弟子で、弘長二年(1261年)のころに鎌倉入り、極楽寺の開山住持となっている。元寇にあたっては、時宗の命によって蒙古調伏の祈禱をおこなっている。律宗の僧であったので、日蓮とは真向から対立の立場にあった。
日蓮については、「辻説法阯」や「草庵阯」の碑のところにのべてある。
文永八年(1271年)6月の旱魃は、全国的な大飢饉をひきおこすほどのひどいものであったから、鎌倉でも雨乞いの祈禱が行われたことはうなずける。このような場面では、祈禱の効験をせり合うというような事態も起こったのであろう。
忍性は54歳、日蓮は49歳、のときのことであった。
金洗沢
金が掘り出されたと記した史書もあり、江の島で採掘した銅を製錬したところとも言うが、あまり信用できない。むしろ七里が浜は一帯に砂鉄が多くとれるところから、その採取もさかんであったにちがいないから、それに関連した名と見た方が近いのではなかろうか。
このあたりには、頼朝も頼家も、また頼経(四代将軍)も来て、牛追物や狩をしたりしている。
ある時期には、刑場にもあてられたらしく、罪人の首をさらしたり、「海道記」の著者源光行も、ここで危うく斬罪にされようとしたこともあった。
また、鎌倉の守りのために、七か所をえらんで霊所祭を二度も行なっているが、二度とも、この金洗沢を霊所として、御祓の儀が行なわれている。
行合川
文永八年(1271年)国難来たるを警告し、既成の諸宗(念仏宗・禅宗・真言宗・律宗)を攻撃のかどで、日蓮は捕えられて松葉谷の小庵から、この七里ガ浜を経て江の島に近い片瀬龍の口へと引かれ、ついに処刑されることとなった。9月12日のことであった。
いよいよ首をうとうとすると、俄かに空がかきくもって、稲妻がはしり、処刑の武士は目が眩んで太刀をおろすことができなかったとか、いろいろの不思議が起こって、刑を執行することができなく、この事態を知らせる使者が急ぎ東に向かい鎌倉へと走った。
折も折、幕府でも日蓮を処刑すべきではないという赦免の議が決まり、その書面を持った使者の馬が七里ガ浜を西に向かった。
不思議を伝えんとする使いの馬と、赦免の状をもった使の馬とがばったり出会ったところが、この川であったという。里人が行合川というのはこのわれからであるという。などという記述がありましたので、投稿いたしのす。
(日蓮上人祈雨旧蹟の碑)
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