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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

鎌倉「星の井について

2017-07-29 07:33:31 | 日記
 この井戸の場所は、江ノ電極楽で下車して、極楽寺切通を鎌倉八幡宮段葛のある方向に歩いていくと、左の路傍にあります。
 「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 井戸の深い穴の底から天を仰ぐと、真昼に星のまたたくのが見えることがあるそうです。カメラ内部が真黒に塗ってあるのが乱反射を防いで、ものの写りを鮮鋭にすると同じ理屈で、井戸の底では青空のまぶしさがうんと減って、元来見えている筈の星たちが、夕暮れどきを待たないで輝いてみえるのでしょう。
 井戸掘り職人でなくては、そのようなチャンスはめったにないことですが、鎌倉市坂ノ下の路傍にある星の井(一名星月の井)はサービスがとてもよく、上から覗いただけで、水面に星が写って見えたというのです。
 昔は、今よりもうっそうと木々が繁り、青空はちょっぴりとしか見えないという好条件と水質の良さが相まって、昼にも星影を映したのでしょう。
 極楽寺切通を往き還る旅人たちは、伝えとこの水を愛でて、ひとときを井戸のほとりの茶店に憩いました。慶長五年(1600年)6月、京都より江戸への帰りに、ここを通った家康もこの井戸を見学して行ったという記録も残っていますが、忙中閑あり、というのでしょうか、まことに奥床しい心がけと思います。
 その後、近くに住む下女が菜っ切り包丁を誤って井戸へ落としてしまい、それからというものは、井戸はいやな顔をしてしまい、星を映さなくなったということです。ささいな失策であっても、重大な風致破壊を招来した罪により粗忽者のこの下女の仕業は永遠に鎌倉郷土史の中に語り伝えられることとなりました。
 こりより約一千年昔。鎌倉が相模の国の僻地であった頃、この井中より隕石が出たのが星の井の名の起こりという伝えもあります。
 一方、弘法大師よりも先輩にあたる、我国奈良朝時代の名僧・行基大菩薩は全国修行巡錫の途中、この辺で虚空蔵求聞持の法を修行しておりました。智慧と頭脳明晰と広大無辺の宇宙を掌る仏様・虚空蔵菩薩を本尊(念持仏)として、頭脳明晰・記憶力増進を計ろうという秘法であります。
修業を続け、一心に祈っていると、ここに奇跡が現れました。この井の中に三つの明星が輝き、夜も真昼のように付近の木々を照らし、それは七日七夜にわたって起こり土地の人達を怪しみ畏れさせたのです。
 それ見て「これはきっと井の中に何か珍しいものが入ったに相違ない」と行基は言い、とり出してみるように、と指示しました。人々は水をかい出し、井戸を干して入ってみると、果して井の底にはビカビカと光る黒い石がありました。その石を前にして。僧は厳かに言いました。
 「これは虚空蔵菩薩が石になって降り給うたに相違ない。石が明星の光を放って鏡のように四辺を照らすのは、世の人々に信仰心を起こさせ、平和とよろこびを招かんがためであろう。
 やがて、このことは聖武天皇のお耳に達しました。天皇は行基に命じて、大きな虚空蔵菩薩の像を作って、井戸の近くに祀るようにと仰せられました。今ある坂ノ下の虚空蔵堂は、このとき行基の刻んだ木像を祀ったお堂と言われます。また、「明星石」は、極楽寺切通頂部近くの左側の小高いところにある「成就院」に、保管されてあるのを筆者は先日、拝観いたしました。というような記述がありました。
 井戸の存在場所
 坂ノ下虚空蔵堂下

(星の井通り前方左側 鎌倉駅方向から)

(星の井正面)

(星の井の説明)

(星の井の表示票)

(虚空蔵菩薩)

(虚空蔵菩薩から星の井)

鎌倉十井戸について

2017-07-22 08:42:47 | 日記

 何時も閲覧ありがとうございます。鎌倉について、鎌倉五山、そして七切通しと投稿させてまいりましたが、今回からは、鎌倉の十井戸について、具体的には、極楽寺切通しの「「星月ノ井(ほしづきのい)」、小町道を八幡宮へ向かう雪ノ下1丁目2-2の「鉄ノ井(くろがねのい)」、材木座6丁目23-7の「六角ノ井(ろっかくのい)」、覚園寺境内の「棟立ノ井(むねたてのい)」、扇ケ谷 海蔵寺門前の「底脱ノ井(そこぬけのい)」、北鎌倉浄智寺総門の前の「甘露ノ井(かんろのい)」、来た鎌倉名月院倉裏前の「瓶ノ井(つるべのい)」、大町5丁目2-17石渡政治氏方「銚子ノ井(ちょうしのい)」、泉ケ谷 浄光明寺の「泉ノ井(いずみのい)」、そして扇ケ谷個人宅の「扇ノ井(おうぎのい)」を投稿させていただきますが、これら鎌倉の井戸の中で,最も美味しく、また伝説やいわれのある十の井戸を「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸」をもとに、紹介・投稿してまいりますので、今まで同様閲覧いただければさいわいであります。

名越の切通しについて

2017-07-15 08:43:24 | 日記

名越の切通しについて、「かまくら切通しストーリー」著者堤治郎 によれば、次のようなこがらの記述がありましたので、投稿いたします。
 法印堯(ほういんきょう)恵(え)が鎌倉を訪れたのは、道興や万里の訪問からまだ4ケ月と起たない翌年に訪れ、記録に残した旅人がいます。「北國紀行」の作者法印堯恵なのです。
 季節は大きく移り変わっていました。ひと月ほど前、堯恵は隅田川に近い湯島で、「寒村の道すがら、野梅盛んに薫ず」ときしていますから、鎌倉はもう春らんまんの陽気だったでしょう。堯恵は悠々58歳のひとり旅です。しかし、残念なことに、堯恵の旅の目的は鎌倉ではありません。三浦半島の芦名でした。堯恵にとっては、江戸から芦名に向かう通リ道にたまたま鎌倉があったにすぎません。
 芦名は、鎌倉を越えて半島を西海岸沿いに南下し、秋谷海岸からちょっと山に入ったあたりです。その東の方、直線距離にしてほぼ2キロの所が鎌倉幕府の実力者三浦一族の本拠地だった衣笠です。芦名にも三浦一族からわかれた芦名氏の屋形がありました。この芦名に住む武将の東常和に逢うことが、堯恵の旅の目的でした。
 法印堯(ほういんきょう)恵(え)については、1430年(永亨2)生まれで家柄はあまり高くなかったこと、天台宗の僧侶だったらしいこと堯孝を師として二条派の歌道を学び、二、三の紀行文を世に残したこと以外、くわしいことはあまりわかっていません。
 一方、堯恵が尋ねて行った常和は美濃の領主東常緑の二男であり、堯恵と常緑とは歌道の二条派で同門の関係にありました。二条とは、阿仏尼の章に出てくる藤原為家の嫡男為氏を家祖とする歌道の名門です。為氏の代で兄弟が二条、京極、冷泉の三家に分裂したことはすでにかきました。
 この時代、和歌や連歌の交わりを通じてのきずなは想像以上に強いものがありました。そのうえ、堯恵の場合は、二条派に伝わる古今伝授という特技を持っていました。旅に出る前の美濃でも、常和の兄常緑の嫡男頼数に古今伝授をしており、堯恵の芦名に四カ月も滞在します。
 さて、堯恵の書いた「北國紀行」に拠りますと、堯恵の鎌倉到着は、2月20日でした。江戸からの道筋はとくに記載はありませんが、前の年に聖護院道興や万里集九がたどった道と大差はないはずです。いずれも鎌倉七口のひとつで、鎌倉八幡宮の北西に出る巨福呂切通しです。
 鎌倉の第一夜は、なぜか山中の庵のような小屋でした。どうやら、鎌倉入りする前に日が暮れてしまったらしいのです。
 「都思ふ 春の夢路も うちとけず あなかまくらの 山の嵐や」
鎌倉には知人や歌仲間はいなかったことが、これでわかります。
翌日、何はともあれ八幡宮を参拝。松並木に囲まれ森閑とした社殿のたたずまいに感動します。はるか南に由比ケ浜の大鳥居が霞んで見えました。まことに妙なり、と一首。
「吹残す 春の霞も 奥つ州に 立てるや鶴が 岡の松風」
これが、堯恵の鎌倉の第一印象です。堯恵はその日のうちに鎌倉を後にして、三浦半島を南下し芦名に赴くのですが、その道筋がこれまでの訪問者とはまったく変わっています。鎌倉七口のひとつ、名越切通しを利用したようなのです。鎌倉から三浦に向かうには、東海岸に出るのが朝夷切通し、西海岸に出るのが名越切通しです。
芦名は西海岸沿いですから、堯恵は名越坂切通しを越えたことになります。
「畳々たる巌を切り、山を穿ち、旧跡の雲に連なれる所を過ぎて、三浦が崎の遠き渚をへんぺんとして行くに、蒼海のほとりもなき上に、富士ただ虚空にひとり浮かべり」
 これが、堯恵が描いた名越口とその先の逗子、葉山の景観でした。そこで一首
 「春の色の 碧に浮かぶ 富士の嶺 高天の原も 雪かとぞ見る」
 それにしても、今に残る名越切通しは「巌を切り」は分かるものの、「山を穿ち、旧跡の雲に連なれる所」


というほどの険しさありません。
現代の名越切通しは、鎌倉時代当時の面影を最も残す切通し遺構として、考古学的にも高い評価を受けています。源氏三代から武家政権を引継いだ北条が、有力武将の三浦を警戒するあまり防衛上の築工を施したため、と説明されてきました。
 ところが、最近の逗子市の遺構調査で、90センチと最も狭い道幅も上部の堆土を取り除いたところ、実際には270センチもあったことが明らかになりました。鎌倉幕府も源氏三代ころまでは三浦一族は身内も同然であり、三浦への道が想像以上に広く整備されていた、というのはうなずける話です。
 さて、堯恵その日芦名の浜辺には常和が出迎えており、いよいよ堯恵による古今伝授が始まりました。古今伝授とは、十世紀初頭に編纂された我が国初の勅撰和歌集「古今集」を教本として、語句の解釈や詠み込まれた樹鳥についての秘説を特定の人物に伝授する学問の方法をいいます。先の二条派の為氏に始まり、代々武芸の奥義を伝えるように師から弟子へ一対一で伝えていましたが、時代が下って室町中期には廃れてしまっていました。その伝統的な古今伝授を再興したのが堯恵で、秘伝は門下生の堯恵や東常緑に引き継がれました。などという記述がありましたことを申し添え、投稿いたします。

(逗子方面への国道の道案内票)

(国道から名越の切通への道)

(ここから切通入口)

(最初の名越の切通道)

(切通の標示版)

(切通の途中脇にに、まんだら堂やぐら郡3月から6月、10月から12月中旬まで毎週土日開放)

(遺構の説明版)

(同じく説明版)

(まんだら堂全景 ボランティアの方々の説明があります。)

(まんだら堂から先の名越の切通道)

大仏切り通しについて

2017-07-11 07:26:45 | 日記
 大仏切り通しについて、「かまくら切通しストーリー」著者堤治郎 によれば、次のような事柄の記述がありました。
 さて、大仏切通しについては、結果的に歌人・武将など幾人かの可能性を含んだものはなかった。だだ、幕府開設50年、宿駅の整備もようやく整ってきたのでしょか。旅人は箱根越えの険峻さを嘆き、芦ノ湖の景観に心を打たれ箱根権現に参拝までしています。
(前夜泊まった湯本を発って海岸沿って進むうち、にわかに雨が降ってきた。大磯、平塚、茅ケ崎、江の島と名所をゆっくり見定めることもできないままの鎌倉入りで、残念だ。結局名の知れぬ谷あいの粗末な宿に泊まることになった。宿は道に面して門もなく、窓の下を人や馬が行き交い、背後は山がせまっている。)
 旅人は、やはりサムライの都、鎌倉の予想以上の繁盛ぶりに驚き、二階堂といわれる永福寺の壮厳さに打たれ、勝長寿院の禅修行に心を留めています。「海道記」の著者と同様、手放しの礼讃ぶりです。「関東紀行」の作者の行動範囲は以外と広く、2カ月に及ぶ滞在中、旅のつれの慰みにと、舟にのって三浦半島の隅々まで岬見物を敢行しています。
 さらに特記すべきは、10年ほど前に完成した和賀江ノ島と長谷の大仏を見ていることです。和賀江島は遠浅な由比ケ浜の東端に石を積み重ねて築いた、鎌倉で唯一の人工の港です。しかし、完成後もたびたび波のために崩れた記録が残されていて、港としてどの程度に役に立ったのかは明らかではありません。旅人は「和賀江の島築島」と言い方をしており、港としての機能などについては何も触れていないのです。
 800百年近く経った現在の和賀江島は、潮が引くと、丸石で積み上げられた暗礁の一部が頭をのぞかせます。
 一方、大仏は4年前から造営が始まっていましたが、この時点ではまだ製作過程でした。この大仏は今に残る青銅づくりの大仏ではなく、木造の大仏でした。しかも、今のように露座ではなく、奈良の東大寺と同様、大仏殿の中に安置されていました。ただ、あいにくなことに、大仏殿が完成したのは旅人の鎌倉滞在から1年後でした。ですから、旅人が見たのはすでにできあがった木像と、3分の2ほどの仕上がりの大仏殿でした。
 旅人は、東大寺の大仏と比較します。(この大仏は8丈の高さだから、かの東大寺の10丈余りの大仏に比べると、半分よりは上の高さだ。金銅製と木造の違いはあるが、末法の時代ではこれも不思議と言うしかない。仏法がしだいに東方に伝わる時にあたり、仏がこの世に現れて力を貸してくれた姿だと思うと、有り難くも尊いことだ)
 明治の歴史学者大森金五郎によれば、古来、大仏の高さは座像が立ったとして計算する習慣がありました。つまり、東大寺の方は座像の長けが6丈ほどなので10丈、鎌倉の方は4丈なので8丈と書いたというのです。
 今に残っていれば、かなり貴重な歴史的記念物になっていたに違いありません。しかし、この木造の大仏は意外と短命でした。この時点からちょうど10年経った頃、同じ深沢の里にこんどは金銅作りの大仏を鋳造し始めた記録が残っているからです。この間、台風や大火事の被害があったことも記録されていて、貴重な木造の大仏は、どうやら10も経たずして倒壊か焼失の憂き目にあったらしいのです。
 ところで、この旅人の鎌倉入りが1242年(仁治3)ということが、実は、歴史資料の上ではちょっとした意味を持つことになります。「吾妻鏡」の中からこの記録自体がすっぽりと抜け落ちているからです。
この年に、鎌倉では何があったのでしょうか。
 実は、6月に、名執権と言われた三代目北条泰時が60歳で亡くなっているのです。命日は6月15日でした。「東関紀行」の作者の鎌倉入りは8月25日で、泰時の死からわずか2ケ月余りしか経っていません。しかし、旅人はすでに泰時の逝去を知っていました。鎌倉到着の1週間前、場所は三河路。今の愛知県豊川市あたりです。
(山もなく、見渡すかぎりの笹原だ。幾つもの道がわかれていて、危うく迷いそうになるが、亡き執権の北条泰時殿が土地の者に言いつけて植えさせた柳が、どうにか道標となっているのもうれしい) などと言う記述がありましたので、投稿いたします。

(県道鎌倉から大船道)

(道路から大仏切通し入り口)

(大仏切通の案内票示版)

(大仏切通始め付近)

(大仏切通)

(中間付近)

(鎌倉大仏トンネルの付近出口)

極楽寺切通しについて

2017-07-01 08:29:45 | 日記

 極楽寺切通しについて「かまくら切通しストーリー」著者堤治郎 によれば、次のようなことがらの記述がありました。古典文学史上に名高い「十六夜日記」は作者の阿仏尼が鎌倉を訪れた時の記録です。「日記」には京からの道中、歌枕に触発されて詠んだ歌や、鎌倉での暮らしからにじみ出る都への望郷の思いがちりばめられています。しかし、阿仏の鎌倉下向の本当の目的は、見物遊山でも歌枕を尋ねての旅でもなく、裁判のためでした。
 時代は、「関東紀行」の作者が鎌倉を訪れてから、すでに半世紀近く経過しています。阿仏を迎える鎌倉では、幕府トップが頼経、頼嗣父子の摂家将軍から宗尊、惟康の宮将軍へと引き継がれ、執権も経時から弟の時頼、さらには長時、政村を経て、八代目時宗の代になっていた。
 女の旅と言っても実は、御年60歳に近い阿仏の道中は一人旅でありません。「十六夜日記」の文脈をやや子細に分け入ってみると、出発前に阿闍梨の君なる山伏をしている息子が登場します。どうやらこの旅の案内人なのです。この阿闍梨の君は道中、大井川を渡り宇津山を越えるあたりでも再び文中に登場して、しっかり案内役を果たしています。他に三河路では、八橋で泊まりましょうと提案する「人々」が出てくし、天竜川の渡しでは、「供なる人」まで登場します。
 どうやら、阿仏一行は総勢4、5人と結構賑やかな顔触れなのです。しかも阿仏は京の出口として知られる粟田口までは牛車に乗っていて、そこで車を返しています。以後の道中も馬を乗り継いでいたとみる研究者もいます。高貴な生まれとはいえないまでも、やはり、京歌檀の名門の名に恥じないご一行なのです。
 さて、阿仏とは、そもそもどんな女性なのでしょうか。実は、彼女の氏素性ははっきりとはわかっていません。生まれはあくまでも推定です。実の父母の名もまた不明のままです。佐渡守をしていた貴族の養女となって公家社会に入り、初め、天子の姫君に仕えて四条と名乗っていましたが、貴族の出ではなさそうです。しかし、持ち前の勝ち気と才気を武器に、当代屈指の歌壇の名門、藤原為家の下で秘書として仕えているうちに、男女の仲になったことから運が開けました。為家との年の差は25歳ほどひらいており、為家50の半ば、阿仏は30に届いていたらしいのです。側室になったときには、すでに前夫との間にできた2人の子連れの身でしたが、阿仏は為家との間に新たに3人の男子をもうけ、藤原家の立場をゆるぎないものとします。
 為家の家系は祖父が俊成、父が定家と三代にわたる歌道の超エリートとして知られていました。為家には本妻との間にすでに為氏、為教という2人の後継者がいて、しかも、長男の為氏は阿仏と同年配でした。為家が78歳で無くなったと、遺産相続の問題が起きることは当然の成りゆきでした。為家は、亡くなる少し前に長子為氏に譲る予定の所領の一部を阿仏との子為相に遺しますが、これを認めない為氏を相手どって、未亡人阿仏の闘いが始まったのです。
 「十六夜日記」は全体が四部構成で、その一部で、阿仏の裁判にいたる経緯と鎌倉に下る事情を明快に述べています。
 「さても猶 東の亀の鏡に映さば 雲らぬ影も顕はるゝと」
 亀の鏡とは、古来、亀の甲羅を焼いて吉凶や正邪を判断した事故を指します。京の朝廷にはすでに裁定の力はなく、阿仏は為氏横領の事実を関東の新政権、鎌倉幕府に訴えるしかなかったのです。旅日記の題名にも固い決意がこめられていたのです。旅立ちの十六日は前日十五夜よりも月の出が遅れます。ためらいがちに出る月です。こころ進まずためらいがちの旅立ちをそのままの本の題名として、ただならぬ才気を感じさせるネーミングです。
 第二部は紀行文、第三部は鎌倉での暮らしとなっています。さて、その阿仏の鎌倉入りに入りましょう。ヒントは「はるばる浜路を行く」だけです。はるばる浜路を伝って行けば、腰越を抜け稲村ケ崎に突き当ります。やはり、稲村ケ崎を越えたのでしょうか。
 しかし、滞在地は「月影の谷」です。月影ケ谷は昔も今も極楽寺地区にあり、当時は鎌倉の外になります。内側の由比ケ浜に出るには稲村ケ崎に連なる霊仙山を越えねばなりません。そんなに不便な土地に、尼御前とはいえ京歌壇の女あるじの阿仏がなぜ住むはめになったか。「日記」には何の説明もありません。
 ただし、極楽寺の切通しが完成していれば話はべつです。稲村ケ崎の手前の七里浜から谷沿って入って行けば比較的容易に極楽寺まではたどりつけます。そこに切通しができれば、それを抜けると目の前は由比ケ浜です。稲村の岩壁沿いに危険を冒してまで越える必要はありません。
 極楽寺はすでに建立されていました。切通しは完成していたのでしょうか。極楽寺の創建は1259年(正元1)、阿仏が下向する20年も前のことです。開基は三代執権泰時の弟で北条一門の有力武将重時で、開山には僧忍性が京から招かれました。阿仏の鎌倉入りのときはすでに切通しは完成していた可能性が高いのです。しかも阿仏の滞在先は極楽寺近くの月影ケ谷です。切通しの開通が先きで、その後、極楽寺周辺にも人家が建つなど開発が進んだと考える方が自然でしょう。と言う記述がありましたので、投稿いたします。
 なお、訴訟は結局のところ、10年裁判のすえ阿仏の息子為相の勝訴に終わりましたが、当の阿仏はすでにこの世のものではありません。また、阿仏の訴訟に賭ける執念と活力は息子たちに引き継がれました。為相、為守兄弟は冷泉家を創始して、京と鎌倉往復するうちに、歌道師範として双方に重きをなし、冷泉家は、古書や家伝書、写本などを貯蔵し続けました。為相は鎌倉で客死し、浄光明寺に眠っています。との記述がありましたことを申し添えます。

(江の島電鉄 極楽寺駅からの現在の極楽切り通し 一般道の変身)


(極楽寺の表示版)

(総門からの本殿)

(極楽寺境内)

(鎌倉十井戸の一つ星の井の表示版)

(現在の切通しは、一般道の変身)

(同じく現在の切通しは、一般道の変身)