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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

元八幡についてNO42(南12)について

2018-10-27 08:40:15 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 鶴岡八幡宮は「東鑑」(吾妻鏡)に、「本社は、伊予守源頼義が勅命によって安部貞任征伐の時、ねんごろに祈って康平六年(1063年)秋8月、ひそかに石清水(いわしみず)八幡宮の神霊を移し迎え、その社を当国由比の郷(ごう)に建てた。永保元年(1081年)2月、陸奥守義家が修理をした」とあるのは此の所であって、鶴岡というのは、昔のこのあたりの呼び名と思われる。
 その後、治承四年(1180年)10月12日、源頼朝が祖宗を尊崇するため、小林の郷、北の山を定めて宮を建て由比の宮を遷し奉った。これが現在の八幡宮であって、「東鑑」(吾妻鏡)に「治承四年十月七日、頼朝はまずはるかに鶴岡八幡宮を拝んだ」とあるのは、由比が浜の宮居である。遷宮の後も、鶴が岡八幡宮と言っているのは、昔のままの呼び方に従っているのである。
 その後は、此の地を元八幡と言っている。
(参考)
源氏と八幡信仰
 八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后を主神とする武門の守護神として、平安時代から、伊勢神宮とならんで朝野の信仰をあつめていた。
 北九州の宇佐八幡から、京都に近い石清水八幡宮が勧請(神仏の霊をわけてまつること)され、鎌倉には、源頼義が石清水八幡宮を勧請したのである。
 頼義の父頼信は、とりわけ石清水八幡宮に対する尊崇があつく、孫の義家が13歳になったとき、石清水八幡宮の神前で元服の式をあげ、八幡太郎義家と名のらせる程であった。頼信、頼義父子のこの深い信仰は、八幡宮を源氏の氏神とあがめ、以来源氏は代々八幡宮と離れてあり得ぬ関係となったのである。

由比の郷の八幡宮
 源頼義が康平六年(1063年)に鎌倉に勧請した八幡宮は、由比の郷の鶴が岡という地、すなわちこの元八幡の位置に建てられたのである。今は大きな銀杏の木かげに、小さな朱ぬりのお宮が残るだけであるが、頼朝が今の位置、すなわち小林の郷に移建するまでは、およそ百年余りの間、源氏にゆかりのある地方武士によってまもられて来たのである。
 当時、由比が浜はこの近くまで湾入し、滑川の川口も近い、海岸の宮居であったと言われるから、鶴も舞おりてくるのどかなところであったことがしのばれる。
 今ある鶴が岡八幡の地は、小林の郷というのであったが、この鶴が岡の名を、そのままに伝え残したものであろう。そしてこの地にも宮居を残し、以来これを元八幡と呼んで来たのである。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。

(元八幡の碑)

(元八幡神社)

(手水所)

(元八幡の告知版)

町屋址についてNO41(南11)

2018-10-20 09:01:43 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 此のあたりは、鎌倉時代に鎌倉の最も栄えていたころの、商家の地域であった。
 その賑やかな商店街の中央の通りを大町大路と呼び、そのほか米町、辻町、魚町、名越等に区分けした呼び名もあった。それぞれに商家が立ち並んでいたらしく、これらの名は「東鑑」(吾妻鏡)の中にしばしば出て来ているし、今もその名がのこっている。
(参考)
町屋
 今この碑の立つところを大町四つ角と呼んでいて、商店が立ち並んでいる。この商店街は、鎌倉時代には市中有数の繁華をきめたところであって、大町大路と呼ばれる大通りの賑やかな街並は、さらに米町、辻町、魚町、名越等の呼び名のもとに商店街が広がっていたようである。

長勝寺町屋跡
 この大町四つ角の広い通りを東へ向かっておよそ7百メートルほど行くと、横須賀線の踏切に出る。踏切に出る。踏切をこえて右側にある寺が長勝てらであるが、昭和51年にこの寺域の発掘をしたところ、鎌倉時代にまでさかのぼり得る、数百年間に亘る町屋の遺蹟をさがしあてることができた。
 この土間状遺構が折りかさなっている町屋の遺跡は、広島県福山市で見つかった中世の町あと草戸千軒遺跡につぐものとして、全国的に珍しい発見とさわがれた。
 発見された、瀬戸、常滑、素焼きの皿、青磁、白磁の破片から、この町屋は、鎌倉時代の末期から南北朝の時期にかかる頃のものと、大三輪籠彦氏は推定している。
 珍しい出土品として、「永福寺」と刻印のある瓦が見つかったが、鎌倉時代初期の三大寺と呼ばれた永福寺が、屋根の葺きかえか、改築のとき、鎌倉内の寺院では、その古瓦をわけてもらって更に使用したことが、この発掘によって立証された。
 この発掘調査については、大三輪団長によって膨大な報告書が出されているし、出土品は鎌倉市教育委員会で保存し整理中である。
 今は、発掘の現場は埋められてしまい、その上に長勝寺の新しい堂が建っている。

鎌倉七座
 座とは、中世の頃に、商工業をいとなむ者たちが、自分利権を守るために独占的な組合をつくった。特権的な同一職業団体である。
 座は、かならずしも商工業者のみに限らず、馬借や船頭などの交通労働者や、能楽、田楽、琵琶法師、遊女などあらゆる職業にわたっているが、鎌倉には、木材座という地名が今も残るように、商工業の座があった。
 七座とは、絹座、炭座、米座、檜物座、千朶積座、相物座、馬商座をいうと「庭訓往来」があげているが、これらがたしかに存在していたかどうかは明らかでない。
 今たしかにあったとされているのは、木材座と博労座だけである。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(町屋址の碑)

(町屋の碑が建立されている通り)

日蓮上人草庵跡についてNO40(南10)

2018-10-13 09:29:20 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 建長五年(1253年)に、日蓮上人が房州(千葉県)小湊より来て、此の地に小さないおりをつくり、始めて法華経の経文を唱え、正嘉元年(1257年)から文応元年(1260年)に至る間、巌窟の中にこもって「立正安国論」一巻を編述したのは、此の所であるという。
(参考)
日蓮上人
 「日蓮辻説法址」の碑NO35を参照。
立正安国論
 日蓮が鎌倉に入って、布教につとめる一方で、この地に草庵をむすんでこもり、有名な「立正安国論」をまとめあげたので、そのいわれをもとにして、安国論寺が建てられた。寺域内には、日蓮がこもったといわれる巌窟も残っている。
 「立正安国論」は、文応元年(1260年)に、日蓮が一巻にまとめて、北条時頼に提出した仏教書である。日蓮はこの中で、「法華経」こそ信ずべき唯一の正しい教えであること、世上頻々として起こる天災地変や飢饉の難をさけるには、世に広がる真言、禅、念仏、律などの邪宗を排除して、ひたすらに法華経を帰依する以外に道なきことを、問答形式で書きあげたのである。日蓮は、これがもとで焼打ちにあったり、翌年伊豆に流されるという法難をうけたのであった。

窟の丘からの展望
 窟の上方の丘には、窟に向って右手の方にある細い石段をたよりにのぼることができる。
 丘の上に立と、眼下には下馬から名越の切通しに向かう道の両側に、往時の町屋の繁華街を想見することができるし、左手には長勝寺を見下ろし、そこから由比ガ浜を越えて、はるかに稲村か崎が浜のはずれに吃立している。
 日蓮上人も、つれづれにこの丘にのぼって、布教伝道の情熱に燃えたまなざしで、この鎌倉の街並を見下ろしたのではなかろうか。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(日蓮上人草庵跡の碑)

(安国論寺の本堂)

(安国論寺についての告知標)

佐竹屋敷跡についてNO39(南9)

2018-10-07 14:29:55 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 この所は、佐竹四郎秀義このかた、代々の屋敷のあとであるという。
 昔は、ここに佐竹氏の霊社があったが、後年になって、村内の天王社にいっしょにまつるようになった。
 後の山を佐竹山と呼んでいて、その形が扇の地紙に似ている。中に三本の疇(さかい)があって、左右をあわせると5本骨の扇の形にみえる。
(参考)
佐竹四郎秀義
 治承四年(1180年)頼朝が源家再興の旗あげをしたとき、同じく源家の出である佐竹義政(尊卑分脈では忠義)は、頼朝に味方せず、常陸(茨城県)にあって、むしろ頼朝の背後をおびやかす勢いを示した。そこで頼朝は富士川の合戦で平家を撃退するや、直ちに鎌倉に戻って佐竹氏討伐の軍を起こし、頑強に抵抗する義政を殺した。その甥にあたる佐竹秀義は奥州へ逃げたが、後になって頼朝に降服した。
 この地は、その秀義が鎌倉に居を得て屋敷をいとなんだところである。秀義がこの地を定めたのは、祖先にあたる新羅三郎義光が後三年の役のあと、ここに居をかまえたという故事によったのであった。

佐竹屋敷
 今、大宝寺のある地域一帯を、佐竹屋敷と言って、佐竹氏代々の居住したところと伝えている。うしろに見える山を佐竹山と呼んでいるが、山の形が扇に似ていて、左右のうねの間に、三すじのさかいを示すようなうねが見られるので、佐竹氏はこの扇の地紙をかたどって家紋にしたという。

釈迦堂口
 佐竹屋敷に入る小道を曲がらずに真直ぐ進むと、釈迦堂口に至るとある。
 この釈迦堂口は、杉本寺の前に通ずる道で、今は土崩れのおそれがあるので、車での通行はとめられている。
 鎌倉時代から、若宮大路と反対の裏道として南に通ずる近道として使われたようで、この釈迦堂口の近くには、北条時政の館が、さながら砦を思わせるように堅固に構えていた。
 頼朝の命をねらって捕らえられ、押しこめられたと伝えられる。「唐糸やぐら」も、この釈迦堂口すぐ上にある。
 今もなお、ひとりで歩くときは、気味の悪い欝蒼とした道であるが、崩れやすい岩を抉ってたくさんの「やぐら」のあることでも、一度は通って見たい道である。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(佐竹屋敷跡の碑)

(大宝寺の釈迦堂)

(大宝寺の告知標)