「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
大慈寺は、建暦二年(1212年)源実朝が創建したものであつて、新御堂と号した。
建保二年(1214年)7月27日に大供養が行なわれ、尼御台の政子も、将軍の実朝も大いに格式をととのえてこれに臨んだ。
後、正嘉元年(1257年)征夷大将軍宗尊親王の時に、本堂をはじめ、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重の塔、鐘楼等すべてに修理を加えたので、その威儀の美しさは創建当時にまさるほどであつたと「東鑑」(吾妻鏡)に記されている。当時の立派な寺のかまえはさぞやすばらしいものであったろう。
それ以来700年の歳月が過ぎ(昭和57年からは770前年前の創建)、壮麗な堂塔のあった此の地にはたった一つの礎石も残ることなく、世の転変を思うと感無量である。
参考
(大慈寺)
源実朝の発願で、建暦二年(1212年)4月18日、大倉郷の勝地を時のして大慈寺建立の立柱上棟式を行なった。
二年後の建保2年7月27日は、終日ひどい雨であったが、政子、実朝が臨場して、鎌倉の武将があまた供奉の中で、大供養が行われた。導師として栄西禅師が28の伴僧をひきつれて奉仕したので、お布施として30重ねの装束と20頭の馬をととのえたというから、さぞや盛大な儀式がとり行われたことであろう。
大供養の翌月8月7日には、大雨が洪水となって、惣(総)門が顚倒したという大椿事が起こったことを伝えている。
建立以来45年をへて、正嘉元年(1257年)4月15日には、大慈寺が破壊したので大修理が行われ、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重塔、鐘楼がことごとく旧をしのぐほどに改修され、10月1日には大供養が執行された。供養の堂塔は、すべて幔幕のうちにかこまれ、庭の池の橋から本堂の階の近くまでは、通路に敷物がのべられ、堂中の門ごとに彩幡や華曼、灯明が飾られ、初冬の青空の下、僧正頼兼が30人の職衆をしたがえて、おごそかに供養が行われた。将軍宗尊親王は、午前10時頃若宮大路幕府を出御して、60余人の供奉の列が大慈寺に着くと、正午より供養が始められた。式が終わり、それぞれの関係者にお布施がくばられた後、将軍が還御の頃には、薄幕に及んだので、途中からは道筋に松明をともしたと、当日の盛儀を吾妻鏡は詳細に述べている。
760余年をへて、今はこの碑が当時の堂塔の所在を知らせるのみで、鎌倉初期三大寺の一つといわれた大伽藍はその片鱗も残っていない。などという記述がありましたので投稿いたします。
(大慈寺跡の碑)
大慈寺は、建暦二年(1212年)源実朝が創建したものであつて、新御堂と号した。
建保二年(1214年)7月27日に大供養が行なわれ、尼御台の政子も、将軍の実朝も大いに格式をととのえてこれに臨んだ。
後、正嘉元年(1257年)征夷大将軍宗尊親王の時に、本堂をはじめ、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重の塔、鐘楼等すべてに修理を加えたので、その威儀の美しさは創建当時にまさるほどであつたと「東鑑」(吾妻鏡)に記されている。当時の立派な寺のかまえはさぞやすばらしいものであったろう。
それ以来700年の歳月が過ぎ(昭和57年からは770前年前の創建)、壮麗な堂塔のあった此の地にはたった一つの礎石も残ることなく、世の転変を思うと感無量である。
参考
(大慈寺)
源実朝の発願で、建暦二年(1212年)4月18日、大倉郷の勝地を時のして大慈寺建立の立柱上棟式を行なった。
二年後の建保2年7月27日は、終日ひどい雨であったが、政子、実朝が臨場して、鎌倉の武将があまた供奉の中で、大供養が行われた。導師として栄西禅師が28の伴僧をひきつれて奉仕したので、お布施として30重ねの装束と20頭の馬をととのえたというから、さぞや盛大な儀式がとり行われたことであろう。
大供養の翌月8月7日には、大雨が洪水となって、惣(総)門が顚倒したという大椿事が起こったことを伝えている。
建立以来45年をへて、正嘉元年(1257年)4月15日には、大慈寺が破壊したので大修理が行われ、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重塔、鐘楼がことごとく旧をしのぐほどに改修され、10月1日には大供養が執行された。供養の堂塔は、すべて幔幕のうちにかこまれ、庭の池の橋から本堂の階の近くまでは、通路に敷物がのべられ、堂中の門ごとに彩幡や華曼、灯明が飾られ、初冬の青空の下、僧正頼兼が30人の職衆をしたがえて、おごそかに供養が行われた。将軍宗尊親王は、午前10時頃若宮大路幕府を出御して、60余人の供奉の列が大慈寺に着くと、正午より供養が始められた。式が終わり、それぞれの関係者にお布施がくばられた後、将軍が還御の頃には、薄幕に及んだので、途中からは道筋に松明をともしたと、当日の盛儀を吾妻鏡は詳細に述べている。
760余年をへて、今はこの碑が当時の堂塔の所在を知らせるのみで、鎌倉初期三大寺の一つといわれた大伽藍はその片鱗も残っていない。などという記述がありましたので投稿いたします。
(大慈寺跡の碑)