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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

大慈寺跡についてNO28

2018-07-29 04:38:09 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 大慈寺は、建暦二年(1212年)源実朝が創建したものであつて、新御堂と号した。
 建保二年(1214年)7月27日に大供養が行なわれ、尼御台の政子も、将軍の実朝も大いに格式をととのえてこれに臨んだ。
 後、正嘉元年(1257年)征夷大将軍宗尊親王の時に、本堂をはじめ、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重の塔、鐘楼等すべてに修理を加えたので、その威儀の美しさは創建当時にまさるほどであつたと「東鑑」(吾妻鏡)に記されている。当時の立派な寺のかまえはさぞやすばらしいものであったろう。
 それ以来700年の歳月が過ぎ(昭和57年からは770前年前の創建)、壮麗な堂塔のあった此の地にはたった一つの礎石も残ることなく、世の転変を思うと感無量である。
 参考
 (大慈寺)
 源実朝の発願で、建暦二年(1212年)4月18日、大倉郷の勝地を時のして大慈寺建立の立柱上棟式を行なった。
 二年後の建保2年7月27日は、終日ひどい雨であったが、政子、実朝が臨場して、鎌倉の武将があまた供奉の中で、大供養が行われた。導師として栄西禅師が28の伴僧をひきつれて奉仕したので、お布施として30重ねの装束と20頭の馬をととのえたというから、さぞや盛大な儀式がとり行われたことであろう。
 大供養の翌月8月7日には、大雨が洪水となって、惣(総)門が顚倒したという大椿事が起こったことを伝えている。
 建立以来45年をへて、正嘉元年(1257年)4月15日には、大慈寺が破壊したので大修理が行われ、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重塔、鐘楼がことごとく旧をしのぐほどに改修され、10月1日には大供養が執行された。供養の堂塔は、すべて幔幕のうちにかこまれ、庭の池の橋から本堂の階の近くまでは、通路に敷物がのべられ、堂中の門ごとに彩幡や華曼、灯明が飾られ、初冬の青空の下、僧正頼兼が30人の職衆をしたがえて、おごそかに供養が行われた。将軍宗尊親王は、午前10時頃若宮大路幕府を出御して、60余人の供奉の列が大慈寺に着くと、正午より供養が始められた。式が終わり、それぞれの関係者にお布施がくばられた後、将軍が還御の頃には、薄幕に及んだので、途中からは道筋に松明をともしたと、当日の盛儀を吾妻鏡は詳細に述べている。
 760余年をへて、今はこの碑が当時の堂塔の所在を知らせるのみで、鎌倉初期三大寺の一つといわれた大伽藍はその片鱗も残っていない。などという記述がありましたので投稿いたします。

(大慈寺跡の碑)

足利公方(くぼう)邸旧蹟NO27

2018-07-21 11:13:58 | 日記
 鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 源頼朝が幕府を開いたとき、足利義兼は、この地に居を定めた。それ以来義兼の子孫は、代々ここに住んで二百数十年に及んだ。
 足利尊氏が天下の覇権をにぎって京都に移り、その子義詮も二代将軍として京都に定住するに及び、義詮の弟の墓氏が関東管領(かんれい)となって此の地に住んで、軍事の権にぎりそれ以来、基氏の子孫が関東管領となり、京都にある将軍になぞらえて公方と称した。
享徳四年(1455年)、時の公方足利成氏は、執事の職にあった上杉憲忠との不和がもとで、茨城県の古河(当時は下総に属した)に移ってしまったので、その後は、此の地はすっかり荒れはててしまった。
 参考
 (足利公方)
 足利尊氏が源家の拠点としてかまえた鎌倉を離れ、京都に幕府開くにあたって、鎌倉の要地を保持するために、わが子基氏をこの地に住まわせ、関東一円の軍事の権をゆだね、関東管領と呼んだ。
 後に、京都の将軍を公方と呼んだところから、関東管領にかわって鎌倉御所とか公方と称するようになり、その公方を補佐する執事職を、いつか関東管領と呼ぶようになった。
 (足利成氏)
 足利公方持氏の第四子(1434~97年)で、父の持氏が自刃の時、信濃に逃れたが、後十五歳の元服の時、鎌倉に入り公方の地位についた。五年後、執事の上杉憲忠を殺したことから、上杉家と不和が深まったために、関東が大いに乱れた。京都の室町幕府は、鎌倉を捨てて古河に走った成氏にかえて、京より足利政知(将軍義政の弟)をつかわして鎌倉に入れようとしたが、鎌倉入りを果たせず、伊豆の堀越に止まった
 以来、古河公方成氏と堀越公方政知が、同族相争うこと27年、やがて両者相和したが、すでに足利氏の威令は全く衰えてしまった。
 (足利義兼)
 源頼朝の挙兵に加わって平家討伐、奥州平泉の藤原攻めなどに功をたてた。頼朝の信任を得て、その命によって北条時政の女(政子の妹)を娶った。八尺に余る身長で武勇にすぐれたが、絵のたしなみも深かったという。
 後に奈良東大寺にて仏門に入り、出家して義称と号した。などという記述がありましたので投稿いたします。

(足利公方(くぼう)邸旧蹟の碑)

青砥藤綱邸旧蹟についてNO26

2018-07-14 16:17:57 | 日記
鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
鎌倉での執権の立派な業績を語るときは、大抵まず北条時頼、時宗をあげるが、これについては、この二代の執権を助けてその業績をささえ、忠実につとめをつくした青砥左衛門尉藤綱の功績をあげねばならない。
 藤綱については多くの逸話があるが、次の挿話は世の人にもよく知られている。
 藤綱が、かつて夜、滑川をわたるときのことであるが、誤って十文の銭(ぜに)を川の中に落としてしまった。藤綱は、この十文の銭を探し求め、見付け出すまで五十文もの炬(たい)火(まつ)をつかって、川の中を照らしたずねたとのことである。
 此の地は、その藤綱が居住していたところであると言う。
 参考
 (青砥藤綱)
 藤綱の祖は、伊豆の住人大場十郎近郷と言い、この近郷は承久の乱(1221年)の功によって、上総国(千葉県)青砥の荘を給されたので、青砥の姓を名乗るようになったと伝えている。
 龍粛氏は青砥藤綱について、次のように述べている。
 藤綱は妾腹の生まれで、殊に末子であつたので、所領をもつこともできず、11歳で真言僧の弟子となった。幼少の折から利発であったので、僧として勉学の上にすぐれた才をあらわしたが、如何なる事情があってか21歳の時に還俗して、青砥三郎藤綱と名乗った。その後行印法師というI仏兼学の沙門に教えを受けて、28歳の時、二階堂信濃入道の推挙によって時頼に仕えることとなった。藤綱の器量は政道においても抜群であったので、評定衆(北条執権政治に合議の一員として加わり、政策を議し、行政を担当する役)の末座に列し、後には評定頭にまで進んだ。天下の事大小となく関与する身分となつたが、富あっても驕らず、権威あっても猛きことなく、遊楽を好まず、身のために資財をみだりに消費することをせず、その衣裳は、粗末な直垂,麻や葛で織った大口袴を用いるだけであり、朝夕の食事の菜にも、焼塩や干魚一品のみですませた。出仕のときも白木で塗りのかかっていない鞘の太刀を平然と差していたという。しかし、公けのためには千万の金銀を惜しまず、貧しき者には慈悲を施したので、まことに賢人のほまれ高き武士であったとのことである。
 藤綱の逸話については、五十文をついやして、川中に落とした十文の銭を探させたという碑文にある話が最も知られているが、これについては、後の「青砥藤綱旧蹟」の項で述べることとして、ここには太平記に記されているほかの逸話をあげることにする。
 ある時、執権の所領のことで、世にときめく執権と公文(荘園の管理にあたる身分の低い役人)との間に訴訟が起きた。理非のすじは明らかに公文にあるのだけれど、時の奉行は、執権をはばかってみな公文を負けとしたが、藤綱は一人権門におそれず、理の当たるところをつぶさに申し立てて執権の負けとした。公文は恩に感じて、銭300貫を、俵につめて藤綱の邸の裏山より邸内に投じて去ったところ、藤綱は非常に怒って、裁きにおいて理非を正すのは天下政道のためであって、なにも公文に心をよせたからではない。このようなものを受ける理はないと言って、はるかに遠い田舎までこれを送り返した。
 また、ある時、執権が「政道を正し、世を永く保とうと思ったら、私心なく理に明るい青砥左衛門を重用せよ」との八幡の夢告を受けたので、近国の八ケ所の荘園を与えた。藤綱はその辞令を見て大いに驚き、その理由を執権にたしかめたところ、執権は、夢に八幡の告げのあつたことを答えた。これを聞いた藤綱はとんでもないことと首を振って「では、もし私の首をはねよという夢をごらんなったなら、私に咎(とが)がなくとも夢の告げのままになさいますか。」と辞令を返し、執権の与えようとした所領をすべて辞退した。
 ほかの奉行らもこのことを聞いて深く恥じ、藤綱にならって、理にはずれて賄賂をとるようなことをしなかったで、北条氏は八代まで天下をよく保つことができたのである。
 右の逸話の中で執権と称して、あえてその名をあげなかったのは、太平記では、時宗、貞時仕えたと記されているのに、碑文では時頼、時宗に仕えたとあって、執権の名にくいちがいがあるからである。藤綱のことを記した説話としては、現在太平記が最も古いとされているが、その中に「時宗、貞時に仕えて」とあるにもかかわらず、そのあとにまとめられたものである。「大日本史」「弘長記」などはいずれも時頼としているので、説話の内容を重んずることを第一として、執権の名は明記することをひかえた次第である。
「青砥藤綱は実在した人か」
 青砥藤綱の存在は古くから疑問とする人があった。藤綱のことを記している太平記が、明治以来史実としての信憑性に乏しいと言われて来たことが、一方鎌倉幕府の記録である吾妻鏡に藤綱の名がなく、評定衆の名を記した「関東評定伝」にも記載がないということと相まって、その存在否定の傾きはかなり強かった。
 しかし、現在太平記の評価が見なおされ吾妻鏡に欠落の多いこと、「関東評定伝」が弘安七年までの記録であるだけに、そのあとで評定衆になっていれば、藤綱の名は乗ってなくても当然という実在可能の論拠も抬頭し、藤綱実在についての論議実在についての論議は依然として結論が出ていない。
 藤綱という人物存在の有無についての論争もさることながら、この藤綱の事蹟としてあげられたその内容には、当時の人々の政治のあり方を知る上に、貴重な資料となることがあるのは、だれしもうなずくところである。
 為政者に廉直を求め、至公至平を善政の根本と断ずる政治思想は、まさしく鎌倉幕府の政治を貫く心柱であったことが推察できるであろう。などと言う記述がありましたので、投稿いたします。

(滑川に架かる青砥橋)


(青砥藤綱邸旧蹟の碑)

上杉朝宗及氏憲邸阯について NO25

2018-07-07 13:07:02 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 上杉朝宗は、足利氏満、満兼に仕え、出家して入道となり、禅助と号した。人々は朝宗に対して犬懸(いぬかけ)の管領と呼んだ。
 朝宗の子の氏憲は、あとをついで足利持氏の執事となり、入道して禅秀と号した。しかし後に持氏と不和になり、応永二十三年(1416年)氏憲は持氏の叔父の満隆等と相はかって、満仲をおし立てて兵を起こしたのであるが、戦いにやぶれ、氏憲は、翌年の正月、一族と共に雪ノ下の鶴岡別当坊で自殺して果てた。
 ここは右上杉朝宗と、その子氏憲(禅秀)との邸宅のあった地である。
 参考
 「上杉朝宗」
 室町時代の武将(1339年~1414年)で、鎌倉御所の足利氏満・満兼の二代に仕え、執事として補佐の任をつくした。
 満兼が死んでからは、その埋葬の日より家にもどることなく、上総国長柄山胎蔵寺に隠棲して、ついにその地で歿したという。
 禅助とは、朝宗が出家して後の号である。
 上杉氏は、鎌倉にて居館の所在地によって、扇谷、詫間、犬懸、山内の四家にわかれ住んでいて、朝宗は犬懸氏を名乗り、此の地に居をかまえていた。
 「上杉氏憲」
 上杉朝宗の子で、入道して後は、禅秀日山と号した。
 鎌倉にあった足利氏は、鎌倉御所、足利公方と呼ばれ、その執事職は関東管領と呼ばれるようになり、扇谷、詫間、犬懸,山内の四家が交互につとめるようになった。
 応永二十二年(1415年)2月氏憲は執事職を継いだが、時の鎌倉御所足利持氏は、同年5月執事職を山内上杉憲基に譲るよう画策したことから、持氏と氏憲との不和が表面化し、氏憲には持氏に不満を抱く足利義嗣(将軍義持の弟)や、持氏の叔父の満隆も味方し、持氏の弟持仲を押したてて翌二十三年(1416年)8月鎌倉御所に対して謀反を起こした。京都にあった室町幕府は、東国の諸将に足利持氏救援を命じたため、氏憲方は敗れ、二十四年(1417年)正月10日、氏憲、満隆、持仲らは鎌倉雪ノ下で自刃した。世に上杉禅秀の乱というのがこれである。などという記述がありましたので投稿いたします。

(上杉朝宗及氏憲邸阯の碑)

(田楽辻子のみち由来の標柱)