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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

地蔵坂について

2016-10-29 10:01:13 | 日記
 JR根岸線石川町駅を元町方面と反対方向へ歩いて行くと亀の橋があって、その交差点から左に入ると地蔵坂であります。「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 その道は本牧方面へ行く道路で、左側は傾斜で崖になるので人家はすぐに尽きる。そこのところに地蔵堂はあるのだが、トタン葺きの小さなあばら屋で扉もどこかのあまりものを持ってきたようで格子の骨もくずれかけ、わずかに御影石で造られたこれは由緒あり気なお手洗いがわずかに物置然とした小屋の存在を救っている。
 蝋燭をあげている一人の老爺の姿でもなかったならば、やはり気がつかないで通り過ぎてしまったことだろう。お地蔵様は二体、狭い土間に並んで鎮座していた。この地蔵堂については、東野伝吉に書いたものがあるので、拝借しよう。
 「横浜に地蔵坂と云うかなり古い時代にできた坂があり、トンネルが開通するまでは、関内たりから本牧方面へ抜ける要路であった。江戸末期あたりであろうか、そこに地蔵尊が作られ、明治の末から大正の初めにかけては、馬に人参や地蔵尊に上がった供物用の菓子などを与えるという。馬の好きな堂守りがいた。その人が亡くなり、後に別の人が引き継いだのだが、大正12年の関東大震災で崩壊したので、氏家さんという人が再興した。やがて空襲の炎にあおられはしたものの、今なお路傍にそのまろやかな顔を見せている。
 土地の人とはこれを「満願地蔵」とよんでいるが、なにを祀ってあるのか、どんな経緯で建立されたのかははっきりしない。しかし、明治29年生まれ、まもなく80歳になろうと云う老婆は、わたしの問いかけに、「ワタシガ娘ノコロハ、荷車ノ荷物ヲ馬力デ坂上マデ引キ上ゲル仕事ヲ専門ニヤル人ガイテ、ワタシラハソノコトヲ≪先駈ケ≫ト呼ンデイマシタ。デスカラネ、アノ地蔵サンハタブン馬ヲ祀ッテアルノダト思イマスヨ」(「昭和25年5月29日」)
 だが、わたしのあった老爺は、これは子安地蔵だと言った。もとはもっと坂の上の方にあったのを、こんな下の方へ移ってきたのだという。地蔵はとりわけこどもの安泰を守ってくれるものとされ、子安地蔵の信仰は普及してきて、広く民間に受け入れられたものであった。
「安産祈願もされました」と老爺は語っていた。この人がこの堂の世話をしているのだろう、道をよぎって反対側の家へ帰っていった。雨の中をひらひらと飛んでくるのは、坂の上の崖上に散る桜の花片であった。などと記載されていた。

(文中の地蔵さんの位置と思われる場所)「左階段は(小坂入口至るイタリア館)」

(現在の安置されている地蔵さんの位置 「亀の橋交差点」)

(中村川の上を走る首都高速神奈川三号狩場線「亀の橋交差点」)

(地蔵坂の中間付近)

(地蔵坂上り)

(地蔵坂を山手本通りから下方へ背の景)

大丸谷坂について

2016-10-22 09:09:52 | 日記
 JR根岸線の石川町駅の出口を山手側へ出て行くと直ぐ郵便局の前へ入る広い道を突き当たると左へそして右へと云うように行くと、ゆるいカーブを描いている坂道が大丸谷坂である。「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 この道は殆ど、石川町駅と学校の間を往来する女子学生の占めるところである。その中に挟まって歩いて行くと、さまざまな話に囲まれて楽しめる。学生達もいま時なぜこんなところを歩いているのだといったふうに、こちらを無視してかかるので、話ははばかるところがない。
 大丸谷坂を上って行くと建物がそそり建ち、途中から草に埋もれた石の階段があって、それが旧大丸坂の姿であるのだろう。(現在はイタリア館へとつながっている)
 土方坂への分かれ道のすぐ下に、小さな地蔵堂があり、正面に一体と右横に一体の地蔵尊が祀られていて、今は、この地蔵堂が大丸坂の象徴でもあると思われる。そのことは、鉄柵の隅に建ててある碑文を見ると分かるので、その全文を写してきた。題して「大丸谷震災地蔵尊の由来碑」という。
 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東全域に亘って大被害をもたらした関東大震災は、震源地を相模湾の北西部あたりの海底と推測され、北海道から沖縄に至る地域でも人体に感じ、全世界の地震計に記録をとどめ、死者99,331名負傷、負傷者103,733名、行方不明者43、476名の大地震であった。
 当日、この付近一帯は、各所より発生した大火災により一面火の海となり、避難民は高台の安全地帯を求めて大丸谷道路を上山に向って殺到した。その数約300名、然し、下から吹き上げる火焔がものすごく。道路上は、怱ち灼熱地獄と化し、前進をはばまれ止むを得ず右手の崖を草の根につかまりつつ我先にと登り始めたが、後続の避難民は火焔にあふられ、熱さを耐えかね、つつじの灌木の中に身を伏せたりしたが、後方より迫る火勢の猛威には抗しきれず、遂に27名が二度と帰らぬ犠牲者となった。震災50周年にあたり尊き人命を失った方々の霊に対して改めて冥福を捧げるものであります。と云う事柄の記述がありました。
 また、この大丸谷坂を上り切る手前に右へ入る階段を上がって行くと、そこはイタリア館に出ます。更に。イタリア館の前の道をやり過ごし、直ぐ右に入いる急な石段の坂道が小坂です。下りて行くと地蔵坂へと出てまいります。

(郵便局のある道が大丸谷坂)

(大丸谷坂道の中間当たりの左方向へ入る道に地蔵さん)

(被災者の冥福を祈る地蔵さん 左奥が最初の地蔵右がその後地域の人々が祀った地蔵さん)

(最初からの地蔵さん)

(当時の震災被害等碑)

(途中にある大丸谷坂の標識)

(イタリア館前の道標)

(小坂の狭い階段路)

西野坂について

2016-10-15 10:03:23 | 日記
 JR石川町駅から河岸通りを海に向って歩いていくと西之橋越えるところから、左の小路を入って行くと西野坂入口がありましたのて、「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので投稿いたします。
 西野坂「2百何十段」の石段は、実は今は188段の文字通りの雁木坂で、これを西野坂といった。ただし、町名と坂名とどちらが先であったかわからない。吉浜橋の方から西の橋の方へ、廃船のひしめく河岸沿いに歩いていくと、丘の上の繁り合う両脇から、フエリス女学院の校舎の渡り廊下がある。
 フエリス女学院があたかもヨーロッパ中世の城郭然として、その茶褐色の一面をみせている。それにより添うような形で、蛇腹のような石段の急な坂があって、上り下りの女性たちの色とりどりの姿か、ユトリロの風景さながらに眺められる。その雁木坂を、生糸商や貿易商の令嬢たちが長い袖をひるがえして往来した。横浜の華族女校といわれたところの様子はどうであったか。
 「その頃のミッションスクールでは最高峰のフエリス女学校、一部の女学生の憧憬の的となっていたフエリスに入ったことは、いろいろの意味において満足であり、誇りでもあります。
 「この土地は美しい場所であって、東京湾からも横浜の街のどこからも、よく見える所にあります。けれどもやや奥まった所にあるので、横浜の女子教育機関の場所としては最適の土地であります」その当時、その土地はアメリカ海兵隊の病院設置の予定場所であったものを。アメリカ領事から無償で借用したものであった。
 坂の歴史を遡って、はからずも明治3年の遥かまで行ってしまったが、これも情趣を深めるためにしたことであった。などの記述がありましたので、投稿いたします。

(石川駅からの階段上り口)

(フエリス女学院の校舎の渡り廊下)

(丘の上の本町本通りからの入口 両側はフエリス女学院)

高田坂について

2016-10-08 09:31:29 | 日記

 
 本町本通りを港の見える丘公園から、元町公園入口を更に越えて行くと右に潮汲坂の標識と併せて、高田坂入口とありました。「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁の光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 実はわたくしはこの「高田」というのが、地名としてその例が多いらしい「高畑」からの転化ではないかと思うのであるが、「たかはた」などと言いにくいところが略して「たかた」と住民たちの口になじんでしのって、それが「高田坂」という町名として明治32年まで生きていたのではないか。その頃からちょうど家が建ち始めて、畑もほとんどなくなってきていた。しかし、江戸時代には、このような丘の上をも耕作して、「天水ヲ待テ」と作物を作つくらなければならなった。
 この坂は、本町本通りから歩いて行くと、この道は行き止まりとなります。更に進んで行くと途中から階段になりますので車は行き止まり、と道標がありました。街が眼下に見えるところまで進んでいくと下り坂になるやいなや直ぐそこから、幅も狭くなり階段となり、それも相当の年数が経過した現場打ちのコンクリート製の手造り階段で、誰もが容易に歩けるように片側に手摺のついた階段となっておりました。横浜市内にもこのように使い勝手の良い坂もあるのだと感心させられました。

(本町本通りからの入口付近)

(階段入口)

(階段中間付近の様子)

(階段中間付近上に向って)


陣屋坂について

2016-10-01 08:47:40 | 日記
 港の見える丘公園から、外人墓地の方向へと歩いていくと右側に、陣屋坂が見えてきます。「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光」によると、次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 陣屋坂の由来は、当時、一帯は陣屋町であったが、明治32年7月に廃止された。それでも坂の名だけは残っているのかどうか。とにかく陣屋という名称からは、何らか軍事に関係した施設が、そこにあったとしか考えられないのである。それは誰の陣屋であったか。
 「陣屋」という言葉からは、なんか古いものが想像されるので、どこかの武将の陣営などが思われるのだが、徳川時代の本陣か代官などの屋敷がこの辺にあったという記録もないし、話しに聞いたこともない。ましてそれ以前のこのあたりに、軍事上経済上の価値があったことも考えられない。黒船が来航するころより海辺の警備が始まり、安政6年には横浜の警備担当が松平越前守、文久元年には、真田信濃守に変って、増徳院などがその宿舎にあてられたこともあったが、陣地とよばれるのは、日の出町の太田陣屋であった。とするとこれはやはり、元治元年の英仏軍隊の駐屯に関係しているのではないか。
 浪人による居留地襲撃の風聞に対して、これを保護するという名目で、フランス軍隊はいまも名にのこるフランス山一帯を、イギリス軍隊は港の見える丘公園のところに陣地を設けてこれを北陣営と称し、いまひとつの南陣営というのを116番、ちょうどゲーテ座跡付近からかけての一帯を領して陣地とし、そこをもっぱら調練の場所にあてた。
 その一画に設けられた建物群を人々が赤隊屋敷とよんだのは、イギリス兵のはでな赤い服装に奇異の眼をみはってのことである。これらの駐屯軍は、明治8年2月には交渉の結果引払うことになるのだが、その事実にかかわらせて、明治17年7月正式の町名をつけるにあたって「陣屋町」としたのではないか。しかし、坂の名はその前であったか後であったか、いまのところ調べがついていない。と云うような記述がありましたので、投稿いたします。
 幅の広い道を3、4百メイトルほど下って行くと、左に折れて細くなり、ビヤ坂に繋がると云うような坂道でありましたので、追記いたします。

(陣屋坂の標柱)

(左に曲がり道が細くなる)

(ビヤ坂との合流点)

(噴水広場)

(ビヤ坂を上り切ると 港が見える丘公園に巡りあいます。)