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三田善太郎について

2017-02-11 10:24:18 | 日記
三田善太郎は、横浜居留地の地下水設計工事等を行った人物であります。横浜開港資料館紀要 編集・発行横浜開港資料館に次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 氏は、1881年〜1883年(明治14年〜明治17年)にかけて建設された横浜居留地の地下水道の設計を神奈川県の土木技術者担当の中から命ぜられ、この下水道工事については、下水道史のみならず日本近代土木技術の自立の一里塚として評価されることになる。三田善太郎の名も同様であろうが、しかし、これまでに三田善太郎の経歴が広く紹介されている訳ではない。
 確かに、「横浜市水道誌」1891年(明治24年)「横浜市水道誌」1901年(明治37年)は工事関係者として三田善太郎の名を記しており、およそその経歴は把握できるのではあるが、その任免の時期は必ずしも明確ではない。今回、東京在住の遺族三田英生氏より辞令等のまとまった資料の提供をうけることができたので、ここに紹介する。
①早稲田稔「下水道ことはじめ3煉瓦管」(『(横浜市)下水道局報)』第26号昭和55年4月)および早稲田稔「約百年を生き続けている横浜の煉瓦下水道」(『国づりくと研修』第20号昭和57年6月)
②『1881年(明治14年)公文録内務省五月第二』「神奈川県下横浜外国人居留地下水設置ノ儀二付伺」(国立公文書館蔵)
③➀の他に、早稲田稔「下水道ことはじめ7・9・11・12」(『(横浜市)下水道局報』第30,32,34,35号1925年〜1926年(昭和56年8月~昭和57年10月)
④早稲田稔「日本人初の下水道設計者三田善太郎」(『明治村通信』第152号昭和58年2月)
 三田善太郎の略歴
 氏は、1855年(安政2年)12月5日に三田克輔を父として生まれ、谷田部藩貢進生として大学南校に入学、1878年(明治11年) 7月東京大学理学部土木工学科を卒業している。土木工学科の第1回卒業生である。東京大学理学部助教を経て、1879年(明治12年)4月神奈川県土木課雇となり、横浜での活動を開始する。
 1877年(明治10年)代において、三田善太郎が計画にあったものでは、前述の居留地下水道改造工事1881年〜1887年(明治14〜20年)の他に、都橋の架換工事1883年(明治16年)が判明している。都橋は、吉田橋(ブラント設計1869年(明治2年竣工))につづく横浜二番目の「鉄の橋」となったものである。
 1877年(明治10年)代後半から、1887年(明治20年)代にかけてはパーマーを補佐する日本人技術者の責任者として、横浜水道工事(1885年〜1887年(明治18年〜20年))と横浜築港工事(1889年〜1896年(明治22年〜29年))に調査段階から従事し、1893年(明治26年)パーマー亡きあと、横浜築港工事を完成させるとともに、横浜水道の改良では、取入所変更工事1895年〜1897年(明治28年〜30年)および拡張工事1898年〜1901年(明治31年〜34年)にあたっている。
 1907年(明治40年)3月横浜市技師退職後は、新潟市水道創設工事1908年〜1910年(明治41〜43年)鳥取市水道創設工事1912年〜1915年(大正元〜4年)下関市水道第一次拡張工事1915年〜1916年(大正4年〜5年)に応じている。
 晩年は、民間に出て東京製氷会社をおこし、1929年(昭和4年)2月16日死去している。墓所は東京台東区吾妻橋にある清雄寺。以上のような記述がありましたので投稿いたします。

(横浜の偉人たちの功績標)

(三田善太郎の功績標)

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