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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

貝殻坂について

2016-08-27 09:57:29 | 日記
 山手本通りを港の見える丘公園の方面に歩いていくと外人墓地が見えてきます。元町公園と外人墓地との境界に、貝殻坂とあったので、「元町140年史 編纂者 元町の歴史編纂委員会 発行 杉島和三郎」によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 貝殻坂(観音坂)外人墓地への上り口右側を墓地の裾に沿って200mほど平坦な道を行くと、墓地と元町公園に挟まれた坂道がある。この坂を貝殻坂という。かってこの辺一帯で縄文式土器が多く発掘されたころから、この名がついた。
 別名観音坂とあるのは、開港の折、横浜村にあった観音堂がこの坂周辺(元町6番地)に移築されたことに由来する。後、観音堂は頽破し、明治7年廃絶になったあとはこの名も自然消滅した。坂を上ると、聖公会興かいエリスマン邸がある。

(山手本通り下口に貝殻坂の石柱)

(上り付近)

(長く続く階段坂)

(中間付近)

(元街から入った付近)

ビヤ坂起源について

2016-08-20 11:41:36 | 日記

 山手本道りに接する人墓地から、陣屋坂道を本牧方向に下りて行くと北方小学校が見えてきます。これをさらに進むと「麒麟麦酒開源記念碑」キリン公園がありましたので、「横浜山手変遷誌 著者 小寺 篤 制作発行 山手資料館」によると次のような記述がありました。
 北方小学校の隣に、「麒麟麦酒開源記念碑」の大きな碑が建っている。昭和12年に建設されたものである。この場所にビール工場のあったことをかたる。
 現在は、千代崎町にぞくしているが、山手居留地の時期には小学校の敷地を合わせて居留地番122・123番にあたった。その以前は北方村天沼泉の谷と称して、溜池を上にした水田が棚をなした谷戸であって、コープランドが自分の製造した商品ニスプリング・ヴァレー・ブリュワリのレッテルを貼ったのは、この付近の景観とともにその古い地名によったものであろう。
 彼は、幕末渡来欧米人名簿の中で、元治元年来日のアメリカ人の1人として名前がでている。彼は、ノルウェーでドイツ人醸造技師からビールの醸造を学んだことになっていて、日本へ来たのは36歳の時であった。
 甲府の野口正章がコープランドを招聘してビールの醸造をならったのは、明治5年であったという。そのことから、「大日本麦酒株式会社30年史」は、コープランドのビール事業開始を明治5年以前とし、「麒麟麦酒株式会社五十年史」もそれを明治2年から3年の間においている。
 慶応2年から明治7年の間の調査になる「外国人への貸地取調概表」には、山手122・123番は彼の名義になって居るが、これによってはその正確な時期は割出せない。
 とにかくこのノルウエー アメリカ人は、泉の谷といわれるその場所に湧く水に目をつけて、煉瓦づりの醸造工場を建設した。高くそびえる煉瓦煙の煙突が象徴的である。だが、この工場は明治14年ごろから行きつまった。
 「麒麟麦酒株式会社五十年史」によってその原因をみると、まず共同経営者のウイーガンドと仲違いをしたこと、コヘプランドに事業経営手腕がかけいいたこと、それにその頃の経済不況があげられている。そのはてに明治18年、事業はジャパン・ブルワリー・コンパニー・リミティドの手に移ることになる。
 コープランドは122番の自宅を改造してビホールをひらく。ビヤホールの先駆者ではあったが、これも成功にいたらず、あげくにハワイ、グァテマラと流れて行って、日本製品の販売に手を付けたのであったが、これもうまくいかず、いつに日本に舞い戻る始末となる。明治35年、すでに70歳の高麗に達していて、その年に永眠する。
 墓は、山手資料館向い側、外人墓地の鉄柵の近くにみられる。貝殻坂をのぼっていくある地点に十番館の建物を背景にした十字架の墓標を、はっきりと仰ぐことができる。
 北方小学校の前の道を、ビールの樽を積みこんだ馬車が毎日のぼっていった。そのために、ここがビヤ坂と呼ばれるようになっつた。関東大から震災の日には、崩壊した工場ビールが流れ出して、附近の人達はバケツを抱えて拾いに行ったものだという。
 そのころの古い地図には、溜池からひきつがれたビール用水の池が書き込まれており、今は北方小学校の片隅には、なお湧き出る泉が保存されて、ビール井戸となずけられている。

(北方小学校)

(小学校敷地内にある井戸)

(井戸の銘板)

(キリン坂道)

(同キリン坂道)

(キリン公園)

(麦酒記念碑)

(銘板)

(文化遺産の碑)

谷戸坂について

2016-08-12 20:35:49 | 日記
 JR石川町駅下車して、中村川沿いに山下ふ頭入口に向って歩いていくと右手に、谷戸橋があり、これを渡って、港の見える丘公園に向って上って行く坂道に「谷戸坂」という標柱がありました。横浜元町140年史 編著者 元町の歴史編さん委員会 発行者 杉島和三郎によれば、次のような記述がありました。
 行政区分上、今は、元町ではなく山手町に属するが、元町1丁目の先をさらに海側にいったところに谷戸坂がある。本牧方面へ抜ける最も古い坂の一つで、本牧十二天に参詣する人達の通り道であった。文久〜慶応、明治にかけてはこの坂の周辺や上りきったころに、英仏の駐屯軍と外国人居住があって、かれらを相手にしたさまざまな業種の店が並んでいた。今は、バスを含めて車の往来は多いが、歩く人の姿はまばらである。坂の上には「港の見える丘公園」や「大仏次郎記念館」「神奈川近代文学館」などがある。などの記述がありましたので、投稿いたします。なお、この坂道は、ワシン坂に通ずる道(本牧)でありますので、申し添えます。

(谷戸坂上り口付近)

(谷戸坂の途中風景)

(港の見える丘こうえ見取図)

(港の見える丘公園展望から)

ワシン坂について

2016-08-06 10:20:54 | 日記
 横浜の坂一覧図を片手に、小港バス停留所から根岸方向に歩いていくと交差点から、坂道を上がって行く
道路があったので、それを上って行くとワシン病院などがあったので、横浜山手変遷 著者 小寺 篤 制作発行 山手資料館によれば、次のような記述があまりした。
明治17年から32年までの間、谷戸坂通の町名をもった町筋は、谷戸橋をわたってから本牧十二天までの長い距離であったが、坂をのぼったすぐ左手の崖の下からは波音がかよってきて、房総の海を見はかす絶景の道であった。そのゆえに見晴通りの別名を称されるようになるが、丘の端が曲がり目の谷あいにワシン坂病院の白い建物が入りこみ、周辺には椎やけと思われるやきの大木がうっそうと茂って、ここは山手山村当時の自然林の面影を途止める場所と思われる。山手が居留地にされると知った農民たちは、てっとり早く自分の土地の樹木を伐りはじめる。これを知った外国人側は、あとで樹木の代償をするからと、伐採の中止を申し込んだいきさつがあり、思えばいま山手に古い樹木の姿が見られるのは、そうした事実の恩恵とも受け取れるが、それはともかく、この坂にワシン坂などという変わった名前がついたのは、どのような理由からであったのか、その定説がないままに、あれこれ思いまどうのである。
 ワシン坂の由来については、大略4つの説がある。
 一 和親条約によるという説
 二 ワシンさんが住んでいたからという説
 三 鷲の飛んでいるのがみられたからという説
 四 湧水、清水が外国人の口で転化したという説
この中、第一、第二は、音韻からの連想を根拠にしたもので、第三も実際に鷲が住つみいていたその姿が人々に親しまれ、「鷲見坂」となればこれも音に通ずる点では同様である。しかし、第四説は、結局は音韻に結びつかねばならないが、その説明が納得されるかどうかに問題がある。
 日米和親条約が締結されたのは、嘉永7年(1853)が安政になる年の3月3日、しかもその場所が横浜であったということから、「ワシン」に結びさけるのは容易である。だがここで問題になる点は、それが地名とされたのはいつのころであり、なぜこの坂が選ばれたのかということになる。
 時期の問題でまず考えられるのは、条約締結が記念されるのであるから、先ずそれが実現当時としなければならないが、そのころの山手のこの坂は、北方村の後に町名を泉と名づけられる地域で、現在の森林がもっとけわしく繁茂した山際の岨道であって、せいぜい農夫が丘上の畑地へ通う態のものであり、本牧十二天への参詣道といっても白昼でも狐が飛び出す有り様で、そのような地が記念の場所とされそうもない。
 また、ワシンさんという外国人の居留地の明治7年当時の「貸地取調概表」もない。第三の「鷲見坂」説は、それほどの詮索はいらない。大樹の林立があって、町名も林町となずけられていたが、しかし、それほどの深山というのではない。けれども鷲が住んだとしてもおかしくはないし、この坂の特徴にもなる。実際に鷲がいたかどうかにかかる。しかし、鷲が見えての鷲見坂が「ワシン坂」という展開はその限りでは信憑性を失わない。
 さて、第四のわきみず、しみずは、音韻の転化ということではもっともすっきりしない。この一帯が泉町と名づけられていたこともあり、それは林をとりまく丘の裾であって、現に坂の下にはゆたかな清水が湧いている。その事実の優位性はあらそえない。丘の上には、畑町と町名にもあるよう畑地があった。そこへ通うた農夫たちは、泉に立ち寄って一杯の水をむすび、手にした容を満たして坂を上り、そして帰りにはまた乾いたのどを潤した。その泉はその人達には掛替えのない生命の水であって、それだけにその湧き場を大切にあっかった。その伝統は今も受け継がれいて、コンクリートで固められながらも湧き続ける泉の上に、手のこんだ杉皮のさきかけを葺いて、水をまもっている。このような住民たちの感情が、ここに発する坂の名前は自然のうちに固定しないはずがない。それは単に普通名詞にとどまらなかったであろう。当然に湧き坂であり清水坂であった。地名というものは、勿論その場所がらにまるで関係ないところからは生まれない。そしてまた、その場所を利用する人間たちの感情になじまないものは定着しない。また付近の住民の意識に反するものでは、形骸だけのものになり消えてしまう。というような記述があったので投稿いたします。

(ワシン坂上り口)

(ワシン坂の標柱)

(山手の案内版)

(山手の案内版)

(ワシン公園入口)