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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

藤原仲能之墓についてNO54(裏8)

2019-01-19 08:36:05 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 此の地は、道智塚あるいは阿古耶尼の塚と伝えられていたが、海蔵寺伝によれば、藤原仲能の墓と思われる。仲能は従五位下前能州大守で、鎌倉幕府の評定衆の役にあっつた。
 後に海蔵寺を中興するため壇家の代表となってはたらいたが、建長八年(1256年)12月9日に亡くなった。道智弾師とたたえられてきたようで、其の位牌が海蔵寺にある。
 {参考}
 海蔵寺
 開基は上杉氏定であって、応永元年(1394年)に建立された寺である。
 源翁和尚が建てたという寺伝もあるが、この源翁が那須の殺生石にまつわる僧であるとすると、殺生石は平安時代の話だから、この寺の開基の時期と時代にずれがある。あるいは別の源翁という僧であるかもしれない。
 建長寺の塔頭的な存在であったが、氏定が建てた応永から永享年間にかけてのおよそ40年間ほどは、扇谷上杉家の後ろだてによって、かなり大きな規模をもつ寺として栄えたらしい。
 尚仏殿(薬師堂)は、安永六年(1777年)に浄智寺より移したもので、棟札その他に天正五年(1577年)建立とあるという。
 十六の井
 寺の山の途中に、4メートル四方ほどの洞穴があり、弘法大師が掘ったと伝えている十六の井戸がある。四つずつ四列に並んでいる丸い穴には、清水をたたえているのでこの名がつけられたというが、おそらくは、鎌倉のほかのやぐらに見られるように、納骨の穴と見る方がたしかであろう。
 底脱の井
 海蔵寺に向かう坂道の右側にある。鎌倉十井の一つであるが、今、水はたまっていない。
 水を汲みに来た女性が、くみあげた水桶を頭にのせたら、とたんに底がぬけ、水をあびてしまった。しかし、その水をあびて悟りを開いたのでこの名が井戸につけられた。その女性の名は、平泰盛の娘(金沢顕時の妻)無著如大(幼名千代能)であるともいうし、上杉家の娘であるとも伝えている。
 今、路傍には、「千代能がいただく桶の底ぬけて月もやどらず底ぬけの井 如大禅尼」と刻まれた碑が立っいる。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(藤原仲能之墓の碑)

(同場所にある葛原岡神社)

俊基朝臣墓所についてNO53(裏7)

2019-01-12 09:33:04 | 日記

 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 藤原俊基朝臣は、政権を武門から天皇にとりもどそうとして失敗し、元弘二年(1332年)6月3日、北条高時の命によって斬られた。
 「秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残らん」
と詠んで、つきぬ恨みをとどめている所が此の地である。
 {参考}
 日野俊基
 藤原の一家で日野氏を名のっている。名門顕官の出ではなかったが、後醍醐天皇は、そのすぐれた才能を認め蔵人に補したので、人々はその異例の昇進におどろいたという。
 日野資朝と共に、鎌倉幕府を倒す計画に加わって、正中元年(1324年)6月に、六波羅に捕えられたけれども、そのときはゆるされた。
 その後、右中弁にまで昇進したが、討幕の計画を再度すすめているうちに、またも露見し捕らえられ、関東におくられた。
 太平記の巻二では、「俊基朝臣再び関東下向の事」と題して、
   ――落花の雪に踏み迷う、片(交)野の春の桜がり、紅葉の錦を衣てかえる、嵐の山の秋の暮、一夜を
   明かす程だにも、旅ねとなればものうきに、恩愛のちぎり浅からぬ、わが故郷の妻子をば、行末
   も知らず思い置き・・・・・
という美文調で、俊基が関東に送られる道すじを、哀愁のうちに書きつづっている。
 鎌倉について、所詮は死を免れ得ぬと覚悟の日々をおくるうち、ついに最後の日となり、俊基は張り興に乗せられて、葛原岡の此の地に運ばれた。
 俊基は、北の方が京よりはるばる送って来たという文に、しばし涙にくれたのであったが、ややあって心を正し、
   古来の一句、死も無く生も無し。
   万里雲尽きて、長江水清し。
の辞世を残して斬られたのであった。この俊基最期のくだりも、太平記巻二が哀切をこめて書いているので、ぜひ一読したところである。
 葛原神社
 俊基を葬る宝篋印塔のところから数段をおりると、広い草地の向こうに、ささやかな社が見える。南朝の忠臣として、鎌倉幕府の覆滅の直前に、悲憤の最期をとげた日野俊基を祀る葛原岡神社である。
 明治20年に創建され、一時は別格官幣社への昇格の運動まですすめられたが、実現に至らず、戦後は心ある人々が詣でて、俊基卿の霊をなぐさめている。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。

仮粧坂についてNO52(裏6)

2019-01-06 15:38:36 | 日記

 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 気生坂、あるいは形勢坂とも書く。此の名は源平の戦いのころ、平家の大将を討ち取り、その首を仮粧して、首実検にそなえたことからおこったと言い、また一説には、昔此の坂のふもとに色里があったので、この名がつけられたとも伝えているが、「東鑑」(吾妻鏡)には此の名はきされていない。
 此の坂は、いわゆる鎌倉七口という鎌倉に出入する七つの重要な道の一つである。元弘三年(1333,年)5月、新田義貞の軍が鎌倉におしよせたときは、この道からも乱入したのであって、それ以来、しばしば戦場となったところである。
{参考} 仮粧坂
 仮粧坂と書くものもある。鶴岡八幡宮の赤橋から西に向かい、寿福寺前にでてから右折する武蔵大路は、この仮粧坂を通り、梶原を経て藤沢に向っている。幕府にとって最重要な道武蔵大路が通るという此の坂は、京都から東海道経由、あるいは関東北部からそれぞれ鎌倉に入る幹線道路の、所要だったといえよう。坂の途中まで、かなり住宅が建てつめて、生い茂っていた樹木も伐られてしまったが、くねった急坂のあたりは、七つの切通しの中で、最も往時の姿を残しているところといえよう。
 気生坂、形勢坂の字は「鎌倉大草紙」にかかれ、化粧坂は「曽我物語」が、そして化粧坂は「太平記」「廻国雑記」が記している。「吾妻鏡」では気和飛坂の字をあてている。
 新田義貞の鎌倉攻め
 元弘三年(1333年)、新田義貞の軍勢は、上野国(群馬県)新田で兵をあげてから、破竹の勢で南下し、小手指原、分陪、関戸の諸所で北条勢を蹴散らし、旗あげから僅か十日で藤沢の辺に本隊を終結した。鎌倉の攻略戦は5月18日から開始され、小袋坂、仮粧坂、極楽寺坂の、三切通しを破って、鎌倉内への突入を図った義貞は、本隊を率いてこの仮粧坂に向ったのである。
 しかし、北条勢が最後の決戦と必死の防戦につとめた為、小袋坂口が僅かに崩せただけで、新田勢の損害が大きくなるばかりとなり、義禎は一旦腰越近くまで戻った。そこで陣容をたて直して、極楽寺坂、稲村が崎を突破口とすべく、5月21日から総攻撃をしかけた。(「稲村埼」の碑)
 5月22日の夜明けとなると、さすがの北条勢も力つきて、三つの口はそれぞれ崩れはじめ、新田勢は堤を切った怒涛のように市中になだれ込み、諸所に火を放ったから、忽ちにして鎌倉の町中が紅蓮の炎の海と化し、鎌倉は一日にして破滅してしまったのであった。
 この曲りくねった急坂を下から見上げると、鎧武者が、馬が、矢が、叫喚の怒号がなだの如くに追いかぶさって来るような幻想にかられ、昼でも人通りの少ないこの古道は身のしまるような思いがする。
 その後、足利管領が鎌倉に住み、戦国の世となる問に、鎌倉はたびたび戦乱の巷となったが、その都度、この仮粧坂は攻める者、守る者の必死の戦場となり、多くの血潮が、この坂道には吸われたのであった。等と云う記述がりましたので、投稿いたします。

(仮粧坂の碑)

(源氏山公園 源頼朝公の碑)

(源氏山公園)