「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
此の地は、道智塚あるいは阿古耶尼の塚と伝えられていたが、海蔵寺伝によれば、藤原仲能の墓と思われる。仲能は従五位下前能州大守で、鎌倉幕府の評定衆の役にあっつた。
後に海蔵寺を中興するため壇家の代表となってはたらいたが、建長八年(1256年)12月9日に亡くなった。道智弾師とたたえられてきたようで、其の位牌が海蔵寺にある。
{参考}
海蔵寺
開基は上杉氏定であって、応永元年(1394年)に建立された寺である。
源翁和尚が建てたという寺伝もあるが、この源翁が那須の殺生石にまつわる僧であるとすると、殺生石は平安時代の話だから、この寺の開基の時期と時代にずれがある。あるいは別の源翁という僧であるかもしれない。
建長寺の塔頭的な存在であったが、氏定が建てた応永から永享年間にかけてのおよそ40年間ほどは、扇谷上杉家の後ろだてによって、かなり大きな規模をもつ寺として栄えたらしい。
尚仏殿(薬師堂)は、安永六年(1777年)に浄智寺より移したもので、棟札その他に天正五年(1577年)建立とあるという。
十六の井
寺の山の途中に、4メートル四方ほどの洞穴があり、弘法大師が掘ったと伝えている十六の井戸がある。四つずつ四列に並んでいる丸い穴には、清水をたたえているのでこの名がつけられたというが、おそらくは、鎌倉のほかのやぐらに見られるように、納骨の穴と見る方がたしかであろう。
底脱の井
海蔵寺に向かう坂道の右側にある。鎌倉十井の一つであるが、今、水はたまっていない。
水を汲みに来た女性が、くみあげた水桶を頭にのせたら、とたんに底がぬけ、水をあびてしまった。しかし、その水をあびて悟りを開いたのでこの名が井戸につけられた。その女性の名は、平泰盛の娘(金沢顕時の妻)無著如大(幼名千代能)であるともいうし、上杉家の娘であるとも伝えている。
今、路傍には、「千代能がいただく桶の底ぬけて月もやどらず底ぬけの井 如大禅尼」と刻まれた碑が立っいる。などという記述がありましたので、投稿いたします。
(藤原仲能之墓の碑)
(同場所にある葛原岡神社)
此の地は、道智塚あるいは阿古耶尼の塚と伝えられていたが、海蔵寺伝によれば、藤原仲能の墓と思われる。仲能は従五位下前能州大守で、鎌倉幕府の評定衆の役にあっつた。
後に海蔵寺を中興するため壇家の代表となってはたらいたが、建長八年(1256年)12月9日に亡くなった。道智弾師とたたえられてきたようで、其の位牌が海蔵寺にある。
{参考}
海蔵寺
開基は上杉氏定であって、応永元年(1394年)に建立された寺である。
源翁和尚が建てたという寺伝もあるが、この源翁が那須の殺生石にまつわる僧であるとすると、殺生石は平安時代の話だから、この寺の開基の時期と時代にずれがある。あるいは別の源翁という僧であるかもしれない。
建長寺の塔頭的な存在であったが、氏定が建てた応永から永享年間にかけてのおよそ40年間ほどは、扇谷上杉家の後ろだてによって、かなり大きな規模をもつ寺として栄えたらしい。
尚仏殿(薬師堂)は、安永六年(1777年)に浄智寺より移したもので、棟札その他に天正五年(1577年)建立とあるという。
十六の井
寺の山の途中に、4メートル四方ほどの洞穴があり、弘法大師が掘ったと伝えている十六の井戸がある。四つずつ四列に並んでいる丸い穴には、清水をたたえているのでこの名がつけられたというが、おそらくは、鎌倉のほかのやぐらに見られるように、納骨の穴と見る方がたしかであろう。
底脱の井
海蔵寺に向かう坂道の右側にある。鎌倉十井の一つであるが、今、水はたまっていない。
水を汲みに来た女性が、くみあげた水桶を頭にのせたら、とたんに底がぬけ、水をあびてしまった。しかし、その水をあびて悟りを開いたのでこの名が井戸につけられた。その女性の名は、平泰盛の娘(金沢顕時の妻)無著如大(幼名千代能)であるともいうし、上杉家の娘であるとも伝えている。
今、路傍には、「千代能がいただく桶の底ぬけて月もやどらず底ぬけの井 如大禅尼」と刻まれた碑が立っいる。などという記述がありましたので、投稿いたします。
(藤原仲能之墓の碑)
(同場所にある葛原岡神社)