底(そこ)脱(ぬけ)の井について、「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
英勝寺前の最近出来た舗装路を経て、扇ケ谷ガードのところまで行き、ガードをくぐってきた道と合して左へ曲がり、ゆるく北西へ上がった行き止まりが、臨済宗建長寺派の扇谷山海蔵寺である。
桃の花咲き、ウグイス歌う頃訪れると暖かい日ざしの中に眠ったようなこの山寺は谷戸の奥の四囲の風光によく調和した和やかな姿を見せてくれる。
杉本寺や覚園寺のような古色蒼然たる気配はないが、創建年代は応永元年(1394年)と推定される古い寺である。鐘と鐘つき堂は、新品で庫裏も手入れされていて、総門や仏殿の古びたのといい対照をみせている。
本尊啼薬師とともに開山源翁和尚の画像や木像、それに伝記壱巻が寺にある。
さて、本題の底脱井。この寺の総門手前右側の小高い貯水池の下である。名前からは深い深い井戸を連想するが、残念でした。水は15センチも溜まっていない。
それでも泥と石コロの間から少しづつしみ出して縁石をぬらしている様子は「私を見捨てないで」と泣くがごとく訴えるがごとき可憐な風情がある。洒落た不整形の歌碑は明治27年建立のものて、
〇千代能が いただく桶の底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず
という謎めいた道歌風の一首が刻んである。この歌の主は無着如大という尼僧で俗名賢子、鎌倉時代の豪族安達泰盛の娘で千代能は幼名である。北条一族の金沢越後守平顕時に嫁して一女子を産んだが、顕時が建武中興ののち上総へ流され死去したので、当時の武将の妻の例によって尼となり、鎌倉の仏光国師に参禅して弟子となり、京へも来て東福寺の聖一国師にもつき、「法は如大一人にて足る」と言われるほどの大知識となった。
洛北松木島に景愛寺という尼寺を建立したが、今は廃されてその流れをくむ大聖寺があるだけである。(朝日新聞社編発「歴史の群像」100頁には大聖寺に伝わる画像と記者のまとめた略伝がある。)
画像は如大の死後400年を経てから描かれたものであるし、伝記も異同が多いが、興味あるところを記すと、仏光国師の門をたたいた時、この宋より渡来した当代最高の坊さんは彼女をギロリと見て「ここは禅寺だ、お前さんみたいな別嬪の来るところじゃあないよ。若いもんの修業の妨げになって仕方がない」と門前払いを食わせた。がそんなことでひき下るような女ではい。傍らにあった焼きゴテをとるなり美しい顔に押しあてて、醜い引きつりをこしらえてようやく入門を許されたという。浅はかな整形手術の逆を行った。これは痛快な話ではないか。
底脱の話もこの前後のもので、彼女が参禅の傍ら女中をしていて夕飯の支度をして水を汲んでいたら桶の底がスッポリと抜けて、それまでの心の煩悶がスーット氷解したというのである。そのとき詠んだのは、
〇賤の女がいただく桶の底ぬけて ひた身にかかる有明の月
という歌だとも言われ、場所も鎌倉へ来る前、美濃の松見寺に住んでいた際のものとも言われている。(桶菴漫筆)
陸奥イソさんは、(大正7年,1918年雨潤会刊、丸善発売)の中で、この場の情景を「銀色の満月の光が彼女の上にキセリと降りかかり、聖なる焔による洗礼の光景もかくやと思われるばかりです」(私訳)と述べられている。
海蔵寺に居たのは、特に参禅は許されても建長寺は女人禁制で仏光国師の許へは寝泊まり出来ないので、ここから「通学」していた為だろうと素人考えで推断した。
ところが、よく調べてみると仏光国師が宋より招かれ建長寺へ来たのが弘安2年(1279年)で如大の遷化したのは78歳の永仁6年(1298年)と伝えられるから、うら若い未亡人ではなく、60前後の老婦人が弟子入りした勘定になる。更に、海蔵寺建立はこれより百年も後のことである。
如大は金沢顕時の妻ではない、娘であるという説(本朝語園)や、如大が師事したのは仏光ではない、夢窓国師だったという説(閑田次筆)など陸続と発見したが、鬼の首でもとったように美しい伝説をぶつこわす資料あさりはもうこの辺で止めて、満月の夜、再び海蔵寺を訪れてみようと心ひそかに思っている。以上のような記述がありましたので、投稿いたします。
井戸の存在場所
扇ケ谷 海蔵寺門前
(海蔵寺の六角堂)
(海蔵寺へ人が入っている階段)
(海蔵寺へ入る階段の対角に 底脱の井の石標)
(底脱の井)
英勝寺前の最近出来た舗装路を経て、扇ケ谷ガードのところまで行き、ガードをくぐってきた道と合して左へ曲がり、ゆるく北西へ上がった行き止まりが、臨済宗建長寺派の扇谷山海蔵寺である。
桃の花咲き、ウグイス歌う頃訪れると暖かい日ざしの中に眠ったようなこの山寺は谷戸の奥の四囲の風光によく調和した和やかな姿を見せてくれる。
杉本寺や覚園寺のような古色蒼然たる気配はないが、創建年代は応永元年(1394年)と推定される古い寺である。鐘と鐘つき堂は、新品で庫裏も手入れされていて、総門や仏殿の古びたのといい対照をみせている。
本尊啼薬師とともに開山源翁和尚の画像や木像、それに伝記壱巻が寺にある。
さて、本題の底脱井。この寺の総門手前右側の小高い貯水池の下である。名前からは深い深い井戸を連想するが、残念でした。水は15センチも溜まっていない。
それでも泥と石コロの間から少しづつしみ出して縁石をぬらしている様子は「私を見捨てないで」と泣くがごとく訴えるがごとき可憐な風情がある。洒落た不整形の歌碑は明治27年建立のものて、
〇千代能が いただく桶の底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず
という謎めいた道歌風の一首が刻んである。この歌の主は無着如大という尼僧で俗名賢子、鎌倉時代の豪族安達泰盛の娘で千代能は幼名である。北条一族の金沢越後守平顕時に嫁して一女子を産んだが、顕時が建武中興ののち上総へ流され死去したので、当時の武将の妻の例によって尼となり、鎌倉の仏光国師に参禅して弟子となり、京へも来て東福寺の聖一国師にもつき、「法は如大一人にて足る」と言われるほどの大知識となった。
洛北松木島に景愛寺という尼寺を建立したが、今は廃されてその流れをくむ大聖寺があるだけである。(朝日新聞社編発「歴史の群像」100頁には大聖寺に伝わる画像と記者のまとめた略伝がある。)
画像は如大の死後400年を経てから描かれたものであるし、伝記も異同が多いが、興味あるところを記すと、仏光国師の門をたたいた時、この宋より渡来した当代最高の坊さんは彼女をギロリと見て「ここは禅寺だ、お前さんみたいな別嬪の来るところじゃあないよ。若いもんの修業の妨げになって仕方がない」と門前払いを食わせた。がそんなことでひき下るような女ではい。傍らにあった焼きゴテをとるなり美しい顔に押しあてて、醜い引きつりをこしらえてようやく入門を許されたという。浅はかな整形手術の逆を行った。これは痛快な話ではないか。
底脱の話もこの前後のもので、彼女が参禅の傍ら女中をしていて夕飯の支度をして水を汲んでいたら桶の底がスッポリと抜けて、それまでの心の煩悶がスーット氷解したというのである。そのとき詠んだのは、
〇賤の女がいただく桶の底ぬけて ひた身にかかる有明の月
という歌だとも言われ、場所も鎌倉へ来る前、美濃の松見寺に住んでいた際のものとも言われている。(桶菴漫筆)
陸奥イソさんは、(大正7年,1918年雨潤会刊、丸善発売)の中で、この場の情景を「銀色の満月の光が彼女の上にキセリと降りかかり、聖なる焔による洗礼の光景もかくやと思われるばかりです」(私訳)と述べられている。
海蔵寺に居たのは、特に参禅は許されても建長寺は女人禁制で仏光国師の許へは寝泊まり出来ないので、ここから「通学」していた為だろうと素人考えで推断した。
ところが、よく調べてみると仏光国師が宋より招かれ建長寺へ来たのが弘安2年(1279年)で如大の遷化したのは78歳の永仁6年(1298年)と伝えられるから、うら若い未亡人ではなく、60前後の老婦人が弟子入りした勘定になる。更に、海蔵寺建立はこれより百年も後のことである。
如大は金沢顕時の妻ではない、娘であるという説(本朝語園)や、如大が師事したのは仏光ではない、夢窓国師だったという説(閑田次筆)など陸続と発見したが、鬼の首でもとったように美しい伝説をぶつこわす資料あさりはもうこの辺で止めて、満月の夜、再び海蔵寺を訪れてみようと心ひそかに思っている。以上のような記述がありましたので、投稿いたします。
井戸の存在場所
扇ケ谷 海蔵寺門前
(海蔵寺の六角堂)
(海蔵寺へ人が入っている階段)
(海蔵寺へ入る階段の対角に 底脱の井の石標)
(底脱の井)