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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

底脱の井について

2017-08-26 08:28:55 | 日記
 底(そこ)脱(ぬけ)の井について、「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
英勝寺前の最近出来た舗装路を経て、扇ケ谷ガードのところまで行き、ガードをくぐってきた道と合して左へ曲がり、ゆるく北西へ上がった行き止まりが、臨済宗建長寺派の扇谷山海蔵寺である。
 桃の花咲き、ウグイス歌う頃訪れると暖かい日ざしの中に眠ったようなこの山寺は谷戸の奥の四囲の風光によく調和した和やかな姿を見せてくれる。
 杉本寺や覚園寺のような古色蒼然たる気配はないが、創建年代は応永元年(1394年)と推定される古い寺である。鐘と鐘つき堂は、新品で庫裏も手入れされていて、総門や仏殿の古びたのといい対照をみせている。
 本尊啼薬師とともに開山源翁和尚の画像や木像、それに伝記壱巻が寺にある。
さて、本題の底脱井。この寺の総門手前右側の小高い貯水池の下である。名前からは深い深い井戸を連想するが、残念でした。水は15センチも溜まっていない。
 それでも泥と石コロの間から少しづつしみ出して縁石をぬらしている様子は「私を見捨てないで」と泣くがごとく訴えるがごとき可憐な風情がある。洒落た不整形の歌碑は明治27年建立のものて、
 〇千代能が いただく桶の底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず
という謎めいた道歌風の一首が刻んである。この歌の主は無着如大という尼僧で俗名賢子、鎌倉時代の豪族安達泰盛の娘で千代能は幼名である。北条一族の金沢越後守平顕時に嫁して一女子を産んだが、顕時が建武中興ののち上総へ流され死去したので、当時の武将の妻の例によって尼となり、鎌倉の仏光国師に参禅して弟子となり、京へも来て東福寺の聖一国師にもつき、「法は如大一人にて足る」と言われるほどの大知識となった。
 洛北松木島に景愛寺という尼寺を建立したが、今は廃されてその流れをくむ大聖寺があるだけである。(朝日新聞社編発「歴史の群像」100頁には大聖寺に伝わる画像と記者のまとめた略伝がある。)
画像は如大の死後400年を経てから描かれたものであるし、伝記も異同が多いが、興味あるところを記すと、仏光国師の門をたたいた時、この宋より渡来した当代最高の坊さんは彼女をギロリと見て「ここは禅寺だ、お前さんみたいな別嬪の来るところじゃあないよ。若いもんの修業の妨げになって仕方がない」と門前払いを食わせた。がそんなことでひき下るような女ではい。傍らにあった焼きゴテをとるなり美しい顔に押しあてて、醜い引きつりをこしらえてようやく入門を許されたという。浅はかな整形手術の逆を行った。これは痛快な話ではないか。
 底脱の話もこの前後のもので、彼女が参禅の傍ら女中をしていて夕飯の支度をして水を汲んでいたら桶の底がスッポリと抜けて、それまでの心の煩悶がスーット氷解したというのである。そのとき詠んだのは、
 〇賤の女がいただく桶の底ぬけて ひた身にかかる有明の月
という歌だとも言われ、場所も鎌倉へ来る前、美濃の松見寺に住んでいた際のものとも言われている。(桶菴漫筆)
 陸奥イソさんは、(大正7年,1918年雨潤会刊、丸善発売)の中で、この場の情景を「銀色の満月の光が彼女の上にキセリと降りかかり、聖なる焔による洗礼の光景もかくやと思われるばかりです」(私訳)と述べられている。
 海蔵寺に居たのは、特に参禅は許されても建長寺は女人禁制で仏光国師の許へは寝泊まり出来ないので、ここから「通学」していた為だろうと素人考えで推断した。
 ところが、よく調べてみると仏光国師が宋より招かれ建長寺へ来たのが弘安2年(1279年)で如大の遷化したのは78歳の永仁6年(1298年)と伝えられるから、うら若い未亡人ではなく、60前後の老婦人が弟子入りした勘定になる。更に、海蔵寺建立はこれより百年も後のことである。
 如大は金沢顕時の妻ではない、娘であるという説(本朝語園)や、如大が師事したのは仏光ではない、夢窓国師だったという説(閑田次筆)など陸続と発見したが、鬼の首でもとったように美しい伝説をぶつこわす資料あさりはもうこの辺で止めて、満月の夜、再び海蔵寺を訪れてみようと心ひそかに思っている。以上のような記述がありましたので、投稿いたします。
 井戸の存在場所
 扇ケ谷 海蔵寺門前

(海蔵寺の六角堂)

(海蔵寺へ人が入っている階段)

(海蔵寺へ入る階段の対角に 底脱の井の石標)

(底脱の井)

棟立井について

2017-08-19 09:09:13 | 日記
 棟立井について、「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
この井戸は、崖プチを掘ってある横井戸と言われるタイプで、鎌倉では大変珍しいく、他には英勝寺にあるだけで、あとは横井戸の実例はあまり見当たらない。
井戸の口が棟型をしていることから,棟立井と呼ばれるが,別に破風の井戸とも言われている。(永らく所在不明となっていたものを、古図をたよりに前住職・大森順雄師が発掘されたものである。)
 むかし弘法大師がここへおいでになった際、手づから掘られ、この井戸の水を閼伽水として仏前に供えられた、と当寺の縁起に記されている。なお、覚園寺の後山の有名な百八やぐらのある鷲峰山上にも弘法硯の水という名の湧水があり、いかなる日照りにも水をきらしたことがないと言われている。弘法硯水というのは、大仏トンネルの先の常磐にもあるが、どちらも鎌倉五名水の中には入っていない.
 弘法大師空海(774~834年)は、わが国真言宗の開祖で高野山道場を開いた方。偉い坊さんであるとともに学校教育の先駆者(綜芸種智院を開設し、仏徒以外の一般子弟を養育した。)そして書道の大家として、よく知られている。
 弘法が錫杖で地面をトンと突いたら泉がわいて出た。温泉が噴き出した。あるいは、井戸水が出るようになった。と全国各地で言われているのは、彼には温泉脈や水脈、井戸脈をさぐり出す冴えた勘が備わっていて、各地の人に「ここを掘ってごらん、必ず水が涌くから」と指導して回られたためと思われる。大昔の人は、井戸を掘る知恵もなかったのかも知れないし、温泉も、河原などに湯気が出ていても、それを囲って適当な温度にして入ることも知らなかったのである。
 その点、全国を回って歩いている旅僧は、いろいろな技術を伝えて、行く先々で感謝されていたのであって、弘法大師もその一人だったと思われるのである。
 覚園寺へ行くには、鎌倉宮でバスを降りたら左側の駐車場の奥の谷戸をまっすぐ入ってゆけばよい。鎌倉の寺々のうちでも、一番俗化しない、骨のかたい寺として知られるが、お寺様指定の見学時間まで待てば、御本尊も黒地蔵様も拝観できるのである。以上のような記述がありましたので、投稿いたします。
 なお、井戸は非公開であり、原則おことわりで、境内どの写真撮影禁止と固く断られましたので、追記いたします。
 井戸の存在場所
 覚園寺境内

(覚園寺への道)

(覚園寺の説明)

(覚園寺総門 境内の中撮影禁止)

(撮影禁止のため、棟立の井スケッチ??)

鉄(くろがね)の井について

2017-08-12 07:34:30 | 日記
「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
 鎌倉では、長谷寺の大観音。可愛いこと無類の東慶寺水月観音。今は、市外に流出した、奇跡的な名作、本編の主人公である、元新清水寺の鉄観音像であります。
 鎌倉の当時の仏師達は大きな鋳造仏に妙を得ていたようです。この鉄観音像、原料は砂鉄であると分析結果が出ておるところをみると、刀鍛冶も供養のため、戦場に捨てられた刀、槍、兜のたぐいを集めて、仏像に鋳造し直したいうことは専門学者も推定しているところです。
 関東地方には、鉄仏は幾つか造立されていて、理由の一つは、金銅仏より原料代が安いためであろう、とも思われますが、何れにせよ、木像より手数もかかり、技術を要することは言うまでもありません。中でもこの新清水寺の観音像は、お首だけで1・5メートルと言う巨仏であり、関東はおろか本邦最大の鉄仏でありました。
 正嘉二年(1258年)正月17日丑の刻のこと。長谷甘縄の秋田城介の邸より失火あり、折からの南風に煽られ佐介谷から扇ケ谷まで火の手は燃え移り、鎌倉未曾有の大火災となり「鎌倉五山」第三位の寿福寺も類焼。火勢は夜空を焦がし勢いを緩めずついに泉ケ谷浄光明寺の向かいにあった新清水寺にも及びました。
さあ大変、華麗な堂宇は焼け落ち、観音像は出来て間もないのに、無残や梁に押し潰されて鉄のカタマリになってしまったのです。ところが、ここに一つの不思議が起こりました。
新清水寺が焼け落ち、夜空に一際高く金砂子のような火の粉が舞い上がり、やがて悪魔の炎は満足気に舌なめずりして下火になってゆきましたが、そのとき突如紫金色の強い光芒が堂の焼け爛れた辺りから立ち昇り、八方を真昼のように照しみる間に谷戸の彼方の巽の方角へ向い巨大な流星となって音もなく飛び去りゆきました。見送る人々は只呆然。
翌朝火炎の跡片付けをしてみると、押し潰された鉄観音像の、まだ熱気を残すお姿はありましたが、それだけで千何百キロの重量を具えた端厳無比な名作の首がどこにも見当たりませぬ。
「さては---------夕べの、あの光りものは観音様のお首だったに相違ない」人々はこうささやき交わした。
本尊を失い、建物を全焼して新清水寺は、再起不能の打撃を受け、以後廃寺となりましたが、付近の人々のうち、熱心な観音帰依者は、押し潰されたお身体が勿体ないとにわか作りの仮堂に収め、朝夕供養を怠りませんでした。
年数は、巡り来り巡り去り・・・・山一つ隔てた雪ノ下厳窟堂の路傍にある井戸の水が大そう良くなり、鎌倉中に聞えました。
目を洗えば目の病いが治り、常用する八幡宮寺の供僧たちは風邪ひとつ引かず、胃腸病者も、刀傷、失傷などの古傷も立ちどころに快方に向かうという評判です。
「どんな薬より効くそうじゃ」
新清水寺付近の人々も、この霊水をもらいに行きましたが、そのうち誰言うともなく、あの井戸には焼けた観音様のお首が入っている。きっとそうだ、と言いだしました。かすかに鉄の味がする・・・・というはかない理由にすぎません。
井戸替えのとき、試みに井の底を30センチほど掘ってみました。カチと鍬に何か当たるものがありました。「石かな」と思いましたが、掘り拡げ、手さぐりしてみればまぎりもない鉄製品の巨大な像の頭の頂部(高髻)の一端です。
やぐらに太い縄と滑車をつけ、早速引き上げ開始され、僧たちは、一斉に妙法蓮華経普門品(観音経)を誦します。大衆は力を合わせて縄を引き、ついにお首はスッポリと地上へ引き上げ現れ出て、人々は夢見心地でありました。
当時、井戸の西の方にきれいな観音堂が建立され、お首は安置され、焼け崩れた胴も運んで来られ、帳の奥へ収められました。
井戸は誰言うともなく鉄の井と名づけられ、鎌倉一の名水よと讃えられ、名あるお茶会や閼迦󠄀水(仏前に供える水)に供するには、これに優る水はないと言われるようになりました。
観音堂は参詣者も日を追って増え、地の利を得たことと水中出現の奇跡が相乗作用をなし、以前に数倍する賑わいを呈するにいたりました。時移り世は変わって江戸期となっても、その有様は変わりありませんでした。と言うような記述がありました。
なお、現在は、日本橋人形町二丁目三番地に仮堂が造立され、明治9年より鉄観音は東京市民の前に雄勁な姿をあらわすことになった。とありますので、追記いたします。
 井戸の存在場所
 雪ノ下1丁目2-2(岩屋堂)

(八幡宮前横断大船道)

(鉄(くろがね)の井)

(井戸の小屋掛け)

六角の井(矢の根井)について

2017-08-05 08:38:04 | 日記
「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
為朝は憂鬱であった。
九州へ流され、たちまち九州を平らげて、鎮西八郎、為朝と名乗り、意気揚々と京の都へ帰ったのも束の間、今度は、伊豆の大島へ流されてしまったのだ。
 「・・・・ぼんくらな奴ばかり揃っていたからなぁ。俺の作戦は、夜討ち、夜うちに限ります!と言えば、それは卑怯であろう、なんてぬかす。いくさに卑怯もヘチマもあるものか。そんな無用の評定しているうちに兄貴の義朝と平清盛の連合軍がワッと夜襲をかけて来たからたまらない。夜では俺の弓も役にたたぬことを奴らは計算に入れていたのだろう。」
 この戦(保元の乱)で彼の味方した父為義と上皇方は敗れ、殺されてしまい、彼一人は十代の若さが幸いして、伊豆大島送りですんだのであるが、そこでも彼は、伊豆七島を攻め従えたりして暴れまわり、捕えに来た船は得意の強弓で威嚇して追い払ってしまい、大ボスの貫禄を示したのである。(彼の射た矢が吃水線に命中して、どの船も沈没したという怪説もある。)
 そんなある日。彼は腕試しに海辺で弓を射った。的は海上十八里(72Km)彼方の三浦半島つけ根の鎌倉・天照山。
矢はもの凄い唸りを立てて飛び、天照山直下の小坪・飯島の磯近くに落下したことは、霊妙な彼の巨腕にピリリと伝わった手ごたえではっきりと読み取れた。
 江戸初期の書物、今までずいぶんお世話になった「新編鎌倉誌」は次のように述べている。「・・・・矢は十八里の海を越えて、この井戸の中に落ちた。村人がその矢を取り上げたが、矢の根は井戸の中に残った。あるとき、その矢の根を拾い上げたところ、井戸の水が濁って、使えなくなってしまったので、これは矢じりの祟りであろうと、また井戸の中に入れたところ、もとのように美しい水が涌くうになった。矢じりの長さは4.5寸(15㎝くらい)もあった。
 おっちょこちょいな里人が住吉明神に矢の根を奉納した。しかし、水がわるくなったので、あわてて井戸に返納した。という伝説もあり、鏃は今も竹筒に封じて井戸の中段に祀ってあることは事実である。
 この大法羅話が発生した理由は何であろうか。ひとつ読者の皆様と一緒に考えてみようではないか。
一、 この岬に立てば、すっきり晴れた日は、大島は手にとるようによく見える。そこに英雄為朝が虜囚の憂き目に会っていたかと思えば、このくらいのフィクションは、話好の漁師の爺さんなら創作して語り伝えることもあるだろう。
二、 この井戸はばかに大きい。空から何か降ってくるのに都合のよい井戸である。そこで、こんな話ができた。
三、 井戸替えのとき、本当に古い矢の根のようなものが出たので、誰かが「これは為朝の矢の根だ。」と言い始め、それに尾ひれがついてこの話が形成された。
四、 この井戸の水質が非常にすぐれていたので、神秘化され、伝説が生じた。
さて、皆様はどうお考えになるか?
西暦2002年2月24日現在「矢の根井」調査報告書事項
 矢の根井は、別名六角の井と称されるが、巨大な石の井戸枠は八角形である。水は数メートル底にたまっている。矢の根井付近までの行政区域は鎌倉材木座であるが、道一つ隔てた飯島公園・逗子マリーナ・小坪一帯は逗子市に属する。飯島崎を見下ろす住吉城跡(現在の住吉神社)の真下・逗子市小坪12番地出身で現在も同所に居住されている今年60歳の脇川正暢さんが、お車の洗車をしておられたので、早速インタビュー。矢の根井戸の昔の様子をお尋ねした。
脇川さんは、長峯五幸より八歳年下でまだ若々しい。古老扱いはいささか失礼であろう。以下、この付近の事情に精通した(有識者)脇川暢さん談。
 「1952年当時、井戸替えがありました。今から50年前、私が十歳当時のことです。為朝公が射ち込んだと伝えられる矢の根は実在していました。それを井戸から取り出し、よく洗い清め、再び竹筒に収め、井戸の中段にお祭りしたことを覚えております。矢の根井の付近には共同井戸があり、皆で利用していましたが、1952年当時すでに、矢の根井は廃物となっていたようです。以上のような記述がありました。
 井戸の存在場所
 材木座6丁目23の7(高岡方)

(六角の井戸に向かう湘南の海遠く左に江の島を望む)

(六角井戸近くの街並み)

(路傍の出っ張りが井戸建屋)

(建屋道路側から)

(井戸建屋正面から)

(井戸の表示版)

(表示版)

(井戸の金網)