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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

日蓮上人祈雨旧蹟についてNO76(西19)

2019-06-29 08:41:18 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 古くから金洗沢とよばれていたのは、此の辺である。
 文永八年(1271年)6月、ひどい旱魃で雨が少しも降らなかったとき、幕府は、良観房忍性に雨乞いの祈禱をさせたが、その効がなかった。
 その時、日蓮が此の池のほととりで雨乞いの祈りをしたら、たちまち恵みのあめが降り、地面をうるおわせたという。世に日蓮上人祈雨の霊場といっているのは、此の地のことである。

{参考}
 良観と日蓮
 良観とは忍性の字である。良観すなわち忍性については、「極楽寺坂」や「桑ケ谷療養所跡」の碑のところでふれているが、奈良西大寺の叡尊の弟子で、弘長二年(1261年)のころに鎌倉入り、極楽寺の開山住持となっている。元寇にあたっては、時宗の命によって蒙古調伏の祈禱をおこなっている。律宗の僧であったので、日蓮とは真向から対立の立場にあった。
日蓮については、「辻説法阯」や「草庵阯」の碑のところにのべてある。
 文永八年(1271年)6月の旱魃は、全国的な大飢饉をひきおこすほどのひどいものであったから、鎌倉でも雨乞いの祈禱が行われたことはうなずける。このような場面では、祈禱の効験をせり合うというような事態も起こったのであろう。
 忍性は54歳、日蓮は49歳、のときのことであった。

 金洗沢
 金が掘り出されたと記した史書もあり、江の島で採掘した銅を製錬したところとも言うが、あまり信用できない。むしろ七里が浜は一帯に砂鉄が多くとれるところから、その採取もさかんであったにちがいないから、それに関連した名と見た方が近いのではなかろうか。
 このあたりには、頼朝も頼家も、また頼経(四代将軍)も来て、牛追物や狩をしたりしている。
 ある時期には、刑場にもあてられたらしく、罪人の首をさらしたり、「海道記」の著者源光行も、ここで危うく斬罪にされようとしたこともあった。
 また、鎌倉の守りのために、七か所をえらんで霊所祭を二度も行なっているが、二度とも、この金洗沢を霊所として、御祓の儀が行なわれている。
 
 行合川
 文永八年(1271年)国難来たるを警告し、既成の諸宗(念仏宗・禅宗・真言宗・律宗)を攻撃のかどで、日蓮は捕えられて松葉谷の小庵から、この七里ガ浜を経て江の島に近い片瀬龍の口へと引かれ、ついに処刑されることとなった。9月12日のことであった。
 いよいよ首をうとうとすると、俄かに空がかきくもって、稲妻がはしり、処刑の武士は目が眩んで太刀をおろすことができなかったとか、いろいろの不思議が起こって、刑を執行することができなく、この事態を知らせる使者が急ぎ東に向かい鎌倉へと走った。
 折も折、幕府でも日蓮を処刑すべきではないという赦免の議が決まり、その書面を持った使者の馬が七里ガ浜を西に向かった。
 不思議を伝えんとする使いの馬と、赦免の状をもった使の馬とがばったり出会ったところが、この川であったという。里人が行合川というのはこのわれからであるという。などという記述がありましたので、投稿いたしのす。

(日蓮上人祈雨旧蹟の碑)


聖福寺についてNO75(西18)

2019-06-23 10:44:50 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 聖福寺は、建長六年(1254年)4月、北条氏が長く栄えること、また北条時頼の子時輔(幼名聖寿丸)と時宗(幼名福寿丸)の無事長命とをねがって建立された寺で、その寺の名は、二人の子の名の一字ずつとってつけたと伝えられている。
 この寺がなくなってしまったのが、いつであるかははっきりしないが、聖福寺が谷の名は今もある。

 {参考}
 聖福寺と正福寺谷
 聖福寺という寺は、正福寺谷という地にあったのであるが、「新編相模国風土記稿」では聖福寺は正福寺にあったのではないとし、「大日本地名辞書」も、これを支持している。
 吾妻鏡には、建長六年(1254年)4月18日の記録として、鶴岡若宮の別当隆弁が大勧進となって、この寺を建立したとある。同じ日に聖福寺の鎮守諸神(十二社)の神殿を上棟したとあり、この地に熊野神社のあったことを伝えているから、おそらくこれと一致するものであろう。
 聖福寺を守護する十二社については、この様に記録に残しながら、時頼の二人の子の息災延命をねがって建てた寺の建物についてはふれてない。これはおそらく神仏混淆による神宮寺として、この聖福寺があったのであろうことを想像させる。
 なお、円覚寺の正続院に残る文書によると、鎌倉攻めのとき、新田義貞が合戦の最初に、ここに陣取ったとあるから、時頼が北条氏の長久をねがい、子息の安穏をねがって建てたこの寺が、八十年の後には、北条氏覆滅の総大将新田義忠が本陣を布いて、鎌倉総攻撃の軍議を評定するところとなったとは、まことに皮肉なめぐりあわせである。

 どうじょう
 この聖福寺跡の裏山に「どうじょう」と呼ぶ地があるが、おそらく、熊野神社、聖福寺の社僧の道場であったと思われる。
 古老の話によれば、五、六十年前までは大きな鐘がうずまっていて、その竜頭につるを巻きつけてよく遊んだ記憶があるという。

 陣鐘山
 聖福寺阯の碑の前に立って海に向かう谷戸道の、左手につづく丘の先の方を陣鐘山という。この山にのぼると、海が眼下にひろがり、極楽寺の谷戸も見おろせるので、新田義貞はここに立って指揮したとも伝えられている。陣鐘をならしたり、陣太鼓をここで打ったろうということで、この名がついているのであろう。
 極楽寺には、その時に使った陣太鼓だという。太鼓の胴だけがのこされているという。

 姥力谷
 今立っている碑の前の谷戸道を、海まで出て江の島の方へあるくと、500メートルも行かぬうちに、右手の山あいに入る谷戸道がある。地元ではここを姥ガ谷(うばがだに)と呼んでいるが、鎌倉攻めのとき、義貞はここへ兵士を隠して目に立たぬようにしたといい、古老は今も「武者かくれ谷」と呼び名を知っているという。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(聖福寺跡の碑)

(聖福寺あとは菜園)

(聖福寺跡は突き当り左であります)「後方は相模湾」

稲村崎についてNO74(西17)

2019-06-15 08:56:03 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 今を去る五百八十四年昔(昭和57年から649年の昔)、元弘三年(1333年)5月21日、新田義貞が、此の岬を廻って鎌倉に攻め入ろうとし、黄金作りの刀を海に投げ入れて、潮の退くことを海神に祈ったという所はここである。

 {参考}
 稲村崎干潟となる事(太平記巻十)
 去る程に、極楽寺の切通へ向われたる大舘二郎宗氏、本間に討たれて、兵ども片瀬越まで、引き退きぬと聞けば、新田義貞遑兵二万余騎を率して、5月21日の夜半ばかりに、片瀬腰越をうち廻り、極楽寺坂へ打ちのぞみ給う。明けゆく月に敵の陣を見給えば、北は切通まで山高く路嶮しきに、木戸をかまえ垣楯をかいて、数万の兵陣をならべてなみいたり、南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打ぎわまで逆茂木(さかもぎ)を繁く引きかけて、沖四、五町が程に大船どもをならべて、矢倉をかきて横矢に射させんと構えたり。
 げにも此の陣の寄せ手、かなわで引きぬらんもことわりなりと見給いければ、義貞馬より下り給いて、冑(かぶと)をぬいで海上をはるばると伏し拝み、竜神に向って祈誓し給いけるは、伝えうけたまわる日本開闢の主、伊勢天照大神は、本地を大日の尊像にかくし、垂跡(すいじゃく)を滄海の竜神にあらわし給えりと、吾が君其の苗裔として、逆臣のために西海の浪に漂い給う。義貞今、臣たる道を尽さんために、斧鉞(ふえつ)をとって敵陣に臨む。其の志ひとえに王化をたすけ奉って、蒼生を安からしめんとなり、仰ぎ願わくは、内海外海の竜神八郎、臣が忠を鑑みて、潮を万里のほかに退け、道を三軍の陣に開かしめ給えと、至信に祈念し、自ら佩(は)き給える金作りの太刀を抜きて、海中へ投げ給いけり、真に竜神納受やし給いけん、その夜の月のいり方に、前々更に干ることもなかりける稲村が崎、俄かに二十余町干上りて、平沙渺々のたり、横矢射んと構えぬる数千の兵船も、落ち行く潮に誘われて、遥の沖に漂えり、不思議というもたぐいなし。
 貞義これを見給いて、(中略)進めや兵共と下知られければ、江田、大舘、見里、鳥山、田中、羽川、山名、桃井の人々を始めとして、越後、上野、武蔵、相模の軍勢共、六万余騎を一手になして、稲村崎の遠干潟を、真一文字にかけ通りて、鎌倉中へ乱れ入る。

 稲村が崎の今昔
 碑の前の道路を由比が浜に向って歩き、由比が浜を見渡せるところに立ちどまってみょう。今立っているこの道は、かつてはもちろんなかったし、眼下に見下ろす防波堤も、平坦な部分の地もなかつたはずである。左手の山に海が迫り、到底海岸ぞいに大部隊が攻め込むことなど至難なわざであったろう。
太平記よれば、竜神の助けによって、思いがけなく砂浜が広く開かれ、その砂地をまっしぐらに鎌倉中に突入し、鎌倉川のあたりの町屋に火をつけたから、浜風にあおられて、今立つ所から見える限りの市街地は、紅蓮の炎と黒煙のうずまく凄惨な修羅場を現出したことであろう。
なお、海岸の砂浜を徒歩して、鎌倉攻めに加わった軍勢の大部分は、山国に育ち海を知らぬ者たちであったけれど、義貞は潮の干満を承知しており、折からの大潮で干潟の大きくなることを計算の上で、これを神仏の加護と称して、士気を鼓舞したという説もある。耳を傾ける意見であろう。
中世研究の大家、大森金五郎博士は、この点をたしかめるべく、みずから潮時を計算して、海べりを徒渉した記録も残しておられる。
昔の稲村が崎路について、高柳光寿博士は次のように述べておられる。
治承四年十月鎌倉に入った政子も、平家の大将平宗盛が捕らわれの身として鎌倉に入ったときも、この稲村が崎を通ったらしい。「梅松論」によると、この道は、石高く道が細いために、多数の軍兵を通すのに困難だと記しているので、稲村が崎道は、相当高い所を通っていたのではないか。「海道記」にも稲村という所があり、そこは嶮しい岩が重り合っている。その迫(はざま)をつたっていくと、砕ける波が花のように散りかかると書いている。
今立つ地点から左手に吃立している切り立った崖を望み見て、稲村が崎古道は、この崖の上をくねって通じていたのだろうかと思い見るのも一興であろう。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(稲村崎の碑)

(稲村崎から江の島を望む)

(富士百撰の碑)

((稲村崎の全景))

(条件が良ければ稲村崎からの富士山がみえるそうです)

(神奈川五拾撰の碑)

十一人塚についてNO73(西16)

2019-06-08 12:24:31 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 元弘三年(1333)5月19日、新田勢は大舘又次郎宗氏を大将として、極楽寺口から鎌倉に攻め入ろうとしたが、北条勢の中の本間山城左衛門が、手勢をひきいて、大舘宗氏の本陣に切りこみ、この為に宗氏とその家来、主従十一人は戦死してしまった。
 そこで遺骸をここにうめ、十一面観音の像を建ててその霊を弔い、この墓を十一人塚と称したという。

 {参考}
大舘宗氏
上野国(群馬県)新田郡におこった清和源氏、新田氏の流れをくむ者で、父の家氏が大舘氏を名のっているが、鎌倉攻めの総大将新田義貞とは同族である。
大舘宗氏は、鎌倉攻めの新田義貞の軍に在って、破竹の勢いで南下、鎌倉に迫ったのは、元弘三年(1333年)
5月18日のことであった。
 宗氏は、十万の兵を卒いて、江田三郎行義と共に極楽寺の切通しへ向かったというが、この人数は、かなり誇張があろう。
 5月19日の早朝、極楽寺の切通しを破って、宗氏の軍は鎌倉に突入せんばかりになった。以下、太平記巻十よりとると、
   本間山城左衛門、若党、中間百余人、これを最後と出で立ちて、極楽寺坂へと向かいける。敵の大将大舘二郎宗氏が三万余騎にて控えたる真中へかけ入って、勇み誇ったる大勢を八方へおっ散らし、大将宗氏に組まんと、すき間もなくぞかかりける。三万余騎のつわもの共、須臾(しゆゆ)の程に(しばしの間に)分かれなぴき、腰越までぞ引きたりける。あまりに手繁く進んでかかりしかば、大将宗氏は取って返し、思うほど戦って、本間が郎等と引組んで、刺しちがえてぞ伏したりける。本間大いによろこびて、馬より飛んでおり、その首を取って鋒(ひっさきょ)に貫き、・・・・
 ということになる。
 この本間山城左衛門は、守りの大将大仏陸奥守貞直の勘気を受けて、蟄居の身であったが、この時、命をかけての働きを主君貞直の前に見せて、そのあと自刃したのであった。
 なお、この碑に、「大舘又次郎宗氏」とあるのは、「大舘次郎宗氏」の誤りであろう。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(十一人塚の碑)

阿仏邸旧蹟についてNO72(西15)

2019-06-01 12:51:30 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 阿仏は、藤原定家の子為家の妻であって、和歌の師範家である冷泉家の祖となった為相の母である。
 為相の異母兄である為氏が、為相の和歌所の所領である播磨国(兵庫県)細川の庄を横領したので、阿仏は時の執権北条時宗に訴え裁決を願った。
 この訴えのために、阿仏は建治三年(1277年)、京都を出て東に下り、此の月影が谷の地に住んだ。そのときの日記を「十六屋日記」(いざよい日記)といって世に知られている。
 この細川の庄の所領争いは、長い年月にわたったが、裁決がおりないまま、弘安四年(1281年)、阿仏はついに此の地で亡くなった。

 {参考}
 阿仏尼(「藤谷黄門遺跡」を参考
 平度繁(佐渡守)の女で、安嘉門院(後高倉院の皇女邦子内親王)の侍女として、四条又右衛門佐と呼ばれた。後に藤原為家(定家の子)の後妻(側室の説もある)となったが、仏門にはいってからは、阿仏といい、北条禅尼と号した。
 擬古文(古代の文を模した文)の文学作品として知られる「転寝記」(うたたねのき)「十六夜日記」(いざよいのにっき)は、ともに阿仏の書いたものである。
 わが子為相と、その異母兄為氏との所領争いが起こるや、為相のために、母として京都から鎌倉にわざわざ下り、執権北条時宗に対して、じきじきに訴訟に及んだのであった。鎌倉在住の間、この地を仮居としたが、この土地をえらんだ事情はわからない。
 阿仏尼が京都を出てから四年が過ぎ、時宗に訴えはしたものの、裁決は中々おりないうち、阿仏尼は裁決を待たずに、この月影が谷に生涯を終わっている。阿仏尼のなくなった弘安四年(1281年)といえば、元軍が再度襲来した年で、幕府は、元軍撃退の対策に全力をうちこんでいる。時期であったのだから、阿仏尼の訴える一私領の所領争いなどは、おそらく幕府の眼中にはなかったのであろう。

 十六夜日記
 建治三年(1277年)に京都を出発して。鎌倉に着くまでを、旅行前記、旅行記として書き記し、さらに鎌倉についてからのことを書きつづけている。日記をまとめたのは、弘安三年(1280年)であるといわれ、京都を出発したのが十六日夜であったことから、この名がつけられたという。
 その内容は、まず孝道と為家の遺言を述べ、鎌倉へ下るために、子の為守とのしばしの別れの模様から、旅の途次の風物について記し、鎌倉についてからの身辺の動静、和歌の贈答などを記しているのであるが、その文も歌もまた観察も、特にすぐれているとは言えないが、全巻を貫いて人の心をひきつけるのは、子を思う母の真情のにじみ出ていることであろう。また、歴史的には、遺領相続の紛争や訴訟という。当時の公家社会の世相を知る上に役立つとされている。

 月影碑
 阿仏邸旧蹟の碑の脇に、もう一つの碑があり、
 「月影能 谷若葉して 道清志」
と刻まれてある。などという記述がありましたので、投稿いたします。