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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

ビール発祥地について

2015-09-26 16:06:50 | 日記
 現在では、夏に欠かせない飲み物となってしまったビールは、横浜から始まった。
 「横浜ことはじめ」著書平沢正時、発行神奈川合同出版によると、横浜外国人居留地(現在の中区)のビールのシェアは、横浜外国人居留地83番地(現在の中区山下町83番地)のカルノー商会が輸入したイギリスのバスビールが大半を占めていた。しかし、横浜外国人居留地57番(現在の山下町57番地)のドイツ人ワーゲン商会や95番地(現在の中区山下町95番地)のアデット・カンプレドンなどが輸入したドイツビールやアメリカのビールも好まれるようになっていった。
 最初は、外国人相手の輸入であったが、次第に日本人もビールを飲むようになって、輸入量は急速に増加していった。明治元年(1868)に横浜の山手を歩いていたビール醸造技師のコープランドは、天沼の山腹に清水が湧き出ているのを見て、「この水は、ビール醸造にもってこいだ、これを使ってビールを作れば、わざわざビールを輸入する必要がない」と考えた。
 早速、この山手居留地123番地(現在の中区千代崎町1丁目25番地、諏訪町29番地附近)の土地を借りてドイツ人技師ウイーガンドと共同して、スプリング・バレー・ブルワリーと云うビール醸造所を建てた。これが、わが国のビール工場の始めである。日本人は、天沼に工場があったことからビールを「天沼ビアザケ」と呼んで親しんだ。
 当時は、醸造されたビールは樽に詰めて取り引きされたが、家庭用の瓶詰めビールも作られた。現在残っている瓶に貼られたラベルをみるとコープランドとウイーガンドが共同で作った「バーバリアン・ボック・ビール」「ラガー・ビール」のほか、コーブランド商会名の「バーバリアン・ビールなどがある。
 コープランドらが作ったビールは、大変評判はよかったが、明治13年(1880)頃に共同経営者のウイーガンドと仲違いして別れ、その後、アメリカ人のイートンとも裁判を起こして会社は倒産し、その事業を「ジャパン・ブルワリー」に譲った。その後の身は、現在のキリンビールである。とあった。
 中区千代崎町1丁目25番地にある「キリン園」に昭和12年(1937)に「麒麟麦酒開源記念碑」が建てられた。碑文に「安政5年徳川幕府が独断専行して国を開くや欧米人達続々横浜に来たりしたが、彼等は、居留地と称せられ一区画の中に居住する。天沼は、この居留地に属し、嫩(どん)草(そう)斜に連り高木短樹その間を点綴し、清泉滾々(こんこん)として崖下に湧き,気清く風軟らかに一幅春園の画の如し。明治5年、米人ダブリウ・コープランドここの工場を建設して、スプリング・ウァレー・ブリュワリーと称して麦酒を醸造する。是れ、日本における麦酒醸造の開源にして、今日の麒麟麦酒株式会社の前身となります。
 明治18年に後藤象次郎伯、岩崎弥太郎男、増島六一郎博士、渋沢栄一子、益田孝男、カークウッド、グラバ、ベルツ、カールローデ諸君唱首となって同士を糾合し、ジャパン・ブリュワリー・コンパニーと称する合資会社を起こしてスプリング・ヴァレー・ブリュワリーの事業を継承し、始めて其醸造する麦酒に麒麟麦酒と命名する。と記述されていた。
 一方、「横浜者のはじめ考」にも「明治5年米国人ブリウ・コープランド此処に工場を建設」ビール醸造所は山手46番にあり、続いてコープランドのスプリング・ヴァレー・ブルュワリーが、さらに山手68番に、ヘフトの醸造所ができたという。イートンはヘフトやコープランドのもとで働いたことのある人なので、この証言は無視できない。と記述されており、建設場所に若干の差異が見られた。

(麒麟公園への路)

(井戸跡)

(井戸の銘板)

(井戸の銘板の掲示場所)

(麒麟公園門)

(麒麟公園内に建てられた発祥の碑)

(碑の紹介版)

(公園の碑を前方に)

(横浜市の文化財証の標)

君が代発祥の地について

2015-09-19 08:50:52 | 日記
 「横浜中区の歴史を碑もとく絵図」に、君が代発祥の地とあったので、地図上の場所行って見ると妙香寺の敷地内に「君が代発祥の地」の碑がありました。
 早速、境内の事務所に伺い話し会ったところ、当寺院に「吹奏楽事始め」という冊子をいただくことが出来、次のように記述がありましたので、投稿いたします。
 イギリス陸軍第10連隊第1大隊付軍楽隊の隊長ジョン・ウィリアム・フェントンより指導を受け吹奏楽を猛練習をしていた折に、「儀礼用の国家はあるか」と問われ、同藩砲兵隊長大山厳は、野津鎮雄、大迫貞清に図り、彼らが愛唱していた薩摩琵琶歌「蓬莱山」から「君が代」を選び、フェントンに作曲を依頼した。
 この曲は、明治3年(1870)9月、東京深川越中島の薩長土肥四藩の操練に臨席した明治天皇の前で初演された。その後、「君が代は」林広守作曲とされる現在の曲が使われるようになったが、最初の曲は、このフェントンが作曲したものであった。
 一方、「横浜山手公園物語」著者 鳴海正泰には、次のようにありました。
 文久3年1863年の薩英戦争のとき、戦死した英軍兵士の水葬に英軍楽隊が壮厳な儀礼曲を演奏した。指揮をしてのが、当時少尉だったフェントンであった。薩摩藩はその曲に感激して、洋楽隊を取り入れようと考えていた。
 明治2年1869年、薩摩藩は上京していた藩士のなかから若者30人を選んで、洋楽を習わせることとし、彼らは10月に横浜に到着、山手の妙香寺を宿舎とした。
 間もなく、ロンドンから楽器が取り寄せられ、英陸軍第一歩兵連隊第10大隊(通称赤隊)付軍楽隊長フェントン中尉の下で練習が行なわれた。そんな中で、フェントンは薩摩藩士に国歌をつくることを勧め、当時薩摩藩砲兵隊長であった大山弥助(後の厳)らが、薩摩藩に昔から伝わっていて、めでたいときに歌う琵琶歌「蓬莱山」から歌詞をとり、フェントンが作曲したとも伝えられている。
 薩摩藩士はそれを練習し、山手公園での赤隊との合同演奏会の翌日、東京越中島で行われた天皇の「天覧調練」の場で演奏された。それが「君が代」の最初の公式演奏だったとされている。
 しかし、フェントンの作曲は歌詞とあわないため、中村祐庸が宮内省で新らたに改定作曲し、それを海軍省傭教師のドイツ人のエッケルトが吹奏楽用に編曲した。明治22年(1888)に海軍省が「大日本礼式」として各国に公表され、事実上の国歌として扱いを受けることとなる。妙香寺境内には、「国歌君が代由緒地」と「日本吹奏楽発祥の地」の碑が二つ建っている。と記述されていました。

(妙香寺への階段)

(妙香寺境内に建てられた君が代の碑)

(妙香寺境内入口階段付近に建てられている国歌君が代由緒地の碑)



日本吹奏楽発祥の地

2015-09-12 09:27:01 | 日記
 「横浜中区の歴史を碑もとく絵図」に、日本吹奏楽発祥の地とあったので、地図上の場所行って見ると妙香寺の敷地内に「吹奏楽発祥の地」と「君が代発祥の地」と二つの碑がありました。
 早速、境内の事務所に伺い話し会ったところ、この寺で吹奏楽を薩摩藩の青年達がイギリス陸軍第10連隊第1大隊付軍楽隊の隊長ジョン・ウィリアム・フェントンより指導を受けたと聞き、妙香寺が作成したチラシ「横浜はじめて物語―吹奏楽」をいただきましたので、この内容を投稿いたします。君が代については、次回とさせていただきます。
 日米修好条約による安政6年(1859)の開港当時、横浜には外国からの文化が数多く入ってきました。現在のブランスバンドやマーチングに始まる「吹奏楽」もこの一つです。この吹奏楽が、その後の日本の文化に大きな影響を与えます。
 最初は、薩摩藩から呼び寄せられた青年たちは、フェントンから楽譜の読み方やピューグル(信号ラッパ)を使った練習でしたが、明治3年(1870)7月末注文をしていた楽器が届くとフェントンは、週4回も伝習生の寄宿先だった「妙香寺」に通い32名に増員された彼等を熱心に指導しまた。
 この「薩摩軍楽隊」は連日連夜の末9月7日にはフェントンの指揮で山手公園野外音楽堂において初の演奏会を開催し、これには、第1大隊付軍楽隊も出演しました。
 この頃の「薩摩軍楽隊」の様子は、同年、東京の越中島の天覧閲兵式に出演したときの姿を明治の絵師{三代広重}が東京三十六景「深川越中島」の版画に描かれています。
 横浜でも、第10連隊の他にも第20連隊軍楽隊等によって山手音楽堂やその下の海岸とおり(現在の元町附近)において週に1~2回の行進演奏や演奏会が行われ、マーチやカドリール、ギャロップなどの音楽で人々を楽しませました。
 彼らは、イギリス人としての凛々しさにあふれ、身長の身を赤い軍服で包んでいたことから、赤隊と呼ばれていたそうです。
 フェントンから指導を受けた「薩摩軍楽隊」は、兵部省の創設により、明治4年(1871)日本海軍軍楽隊となった薩摩洋楽伝習生達は、海軍軍楽隊や陸軍軍楽長をはじめとした要職に就くエリートになって行きました。
 明治4年(1871)5月にフェントンの妻、アニー・マリアは、この横浜で40年の生涯を終えるのです。今も眠る「横浜外人墓地」の墓碑には、「ジョンW.フェントンの愛する妻「アニー・マリア」と深く彫られています。
 フェントンは第10連隊撤兵の際にも横浜に留まることを決意し、日本海軍軍楽隊のお雇教師として指導にあたる事を選びました。これは妻を1人異郷の地に眠らせることが偲びなかったのではなかろうかとも云われています。
 しかし、フェントンは明治10年(1877)に日本を離れますが、彼の残した多くの輝かしい功績は、日本海軍軍楽隊の音楽として他の「洋式」と共に世間に広がり、後に「市中バンド」と呼ばれる学校や企業など民間バンドの創設へと波及、今日の「吹奏楽」の基盤となったのです。
と記述されていました。
 参考文献
 フェントンと海軍軍楽隊の生成について 塚原康子「19世紀に日本における西洋音楽の受容」{1993年多賀出版}と中村理平著「洋楽導入者の奇跡」{1993年刀水房刊}とありました。
 また、別のチラシには、
日本吹奏楽発祥 百四十六年記念演奏会
日時 平成27年10月12日(月・祝) 午後2時より
とありましたので、併せて、投稿いたします。

 一方、「日本大百科全書 小学館発行 編集著作 秋葉 隆」には、
 フェントン教師の指導する薩摩藩軍楽伝習隊は、兵部省海兵隊楽隊、そして海軍軍楽隊へ変わりまた、宮内省雅楽部の指導も兼務していた。およそ100名を超す多くの若者に楽器の演奏法、集団による合奏法ならびに演奏行進などを教えた。苦節9年、吹奏楽の基本的土壌をふまえ、フェントン教師の吹奏楽の定着の努力が実りつつあった。そして、明治10年、その任期も満了して海軍省から解任となった。幕末の洋楽胎動期からのフェントン教師の活躍は、多くの教え子の成長を促した。
 さて、ジョン・ウィリアム・フェントンの来日について、愛弟子であった中村裕庸軍楽長は、「薩摩戦争の時に艦隊旗艦の楽長で、官級としては、少尉なり、とフェントンは語る」と遺稿に記している.
 薩英戦争の時の艦隊旗艦「ユリアラス号」は、その艦隊とともに戦争後文久3年(1863)4月9日に横浜に入港している。
 フェントンの在任していた英国海軍歩兵第10連隊は、第9連隊第2大隊の応援に向い英国テイマー号によって日本に到着した。と云う一説がある。しかし、文久3年より慶応4年の5年間の動向についての記録は、容易に見当たらない。
 しかしながら、そのように日本との深い関係の奇跡を歩みながらフェントン教師は本格的吹奏楽導入期に大きく貢献し、惜しまれつつ去った。フェントン教師に薩摩海軍史では賛辞の文をおくっている。と記述されている。

 次回は、君が代発祥の地を投稿いたします。

(山手風致地区見取り図)

(日本の吹奏楽発祥の碑)

(妙香寺への階段)

(経緯)

日本初の洋式公園発祥の地

2015-09-05 09:32:17 | 日記
 今日は、山手公園に行って来ました。テニスコートに面した所に、「日本初の洋式公園発祥の地」とありましたので、「横浜山手公園物語 著作者 鳴海泰一」を調べてみると、次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 我が国の公園制度は、明治6年(1873)に明治政府の「太政官布達第16号によって始まる。「三府を始、人民輻湊の地にして古来の勝区名人旧跡等、是迄群集遊観の場所(東京に於いては、金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内の類、京都に於いては、八坂神社、清水の境内、嵐山の類、総て社寺境内除地或は公有地の類) 従前高外除地に属せる分は、永く万人偕楽の地とし、公園と可被相定に付、府県に於いて右地所を択ひ、其景況巨細取調図面相添、大蔵省へ可伺出事」
 こうした政府の強引とも思われる布達によって、その年のうちに、東京の上野、芝(増上寺)、深川(冨岡八幡社)水戸の偕楽園、新潟の白山神社、大阪の住吉神社、宮島の厳島神社など25の公園が生まれた。しかし、それらは元々お寺や神社の境内として一般に使われていたが「公園」と名前を変えただけで、新たな公園を作ったものではなかった。
 江戸時代の社寺は境内地を始め、朱印地(寺社領)黒印地(年貢・課役の免除)が多くて優遇されてきた。そこで明治6年の地租改正のときに、実際に社寺が使用されている境内を除いて、残りを政府に無償で公園として差し出させることとしたのである。
 その真意は、地租改正によってこれまで無税であった寺社に課税すると、境内を開発して利益をあげようとして開発する恐れがあるので、人々がこれまで楽しんできた境内を「永く万民の公園」としたいので、政府に届け出るようにという趣旨である。
 同時に、その意図のなかに外国人からの要求にあるような公園を設けることで、庶民の不満を和らげて明治政府の恩恵を示そうとしたのである。従って、最初に公園とする場所は、手っ取り早い社寺の境内(府県管轄)が多かった。
 明治7年(1874)の「神奈川県治一覧表」によると、神奈川県で次の6ヶ所が公園となっている。ただし、開設年と面積の記載はない。
 1 久良岐郡横浜村 山手・外国人用
 2 久良岐郡堺町通 彼我公園
 3 多摩郡府中駅丸山 丸山
 4 多摩郡百草村 八幡社地・百草
 5 橘樹郡大師河原村 平間寺境内 川中島
 6 高座郡宮山村寒川神社内 宮山
 大政官布達から30年後、更地に日本人が西洋の公園をモデルとして設計し、初めて本格的な洋式公園として明治36年(1903)に造られたのが、2003年で開設100年を迎えた日比谷公園である。
 しかし、その太政官布達の3年前に独自に洋式に設計されて造成されたのが山手公園なのである。それがたとえ外国人を対象としてものであっても、やはり我国初の公園でということであろう。と記述されていた

(山手公園に隣接する風致地区見取り図)

(洋式公園発祥の地の碑)

(史跡記載内容)

(横浜市の公園発達史年表)

(国指定名勝 山手公園およびテニスコート)

(山手公園内)

(山手公園内)

(山手公園内)

(山手公園内)