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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

詩の橋について NO24

2018-06-30 08:19:47 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 鎌倉十の橋の一つである。建保元年(1213年)2月、渋川警部六郎兼守は、将軍家にむほんをくわだてたことの罪によって死罪の刑に処せられることになった。
 兼守は、悲しみのあまり和歌十首をよんで、荏柄天神社の社前に献納したのであった。
 その翌朝、将軍実朝は、これを伝え聞いて、ひどく心うたれて、兼守の罪をゆるした。兼守は一命を救われた恩に感じ、ここに橋を造って神徳への感謝をあらわしたと伝えられ、そのことからこの橋を「歌の橋」という。
 参考
 「渋川刑部謀叛の罪」
 建保元年(1213年)2月、信濃の住人泉親衡という者が、源頼家の遺子の千手を奉じて、時の執権北条義時を亡き者にしようと謀り、和田義直・同義重(共に和田義盛の子)・同胤長(義盛の甥)もこの企てにくみした。渋川刑部六郎兼守もこのクーデターに参画していたが、事前に発覚して捕らえられ死刑に処せられることになった。兼守は愁歎のあまり、和歌十首を詠み荏柄天神社に奉納したところ、将軍実朝がこれを聞き知り、歌に免じて兼守の罪を許したという。
 兼守は思いがけず命を救われ、その感謝としてこの橋をかけて、報恩のまことをあらわした。それ以来この橋は「歌の橋」と呼ばれるようになった。
 「鎌倉十橋」
 鎌倉には大きな川はないが、交通上の必要に応じて多くの橋がかけられている。その橋の中で、言い伝えを特にもつ橋、交通の要路にあたる橋十あげて、鎌倉十橋と呼んでいる。
 「歌の橋」前述、「筋違い橋、「夷堂橋」、「乱橋」、
「逆川橋」、
大町の四つ角から、海の方へ少し向かったところにある。この橋の下を流れる川は、名越方面から南へ向けて流れて来たのに、ここで大きく屈曲して、流れの向きが北に変わる為、一見して水の流れがあたかも逆行するように見えるところから、この川が逆川と呼び、かかっている橋を逆川橋と呼ぶという。
「勝の橋」
 扇ケ谷の寿福寺の前にある小さな石橋をいう。寿福寺の隣りにある、英勝寺開山の尼お勝の局がかけた橋であるとこから、この名があるという。「勝の橋」の標識とならんで、むかしの道しるべがあるように、この地点は交通路として大きな役割をもつところであった。今は、道路が舗装されてしまったので、橋の存在もちょっと気づかぬほどに変わってしまった。
 「裁許橋」
 「勝の橋」のある道を、南へまっすぐに九百メートルほど歩くと渡るのがこの橋である。橋の北八十メートルほどの三又路の角に「間注所旧蹟」の碑がたっている。この間注所で裁許を受けた者の中には、この裁許橋を今生の別れと切ない思いで渡った者もあろう。この橋を渡って、南へ三百メートルと歩かぬうちに、今も昔も変わらぬ繁華な大通りにぶっかる。ここが刑場のあったところで、今六地蔵が六道の巷に迷う亡霊に救いの手をさしのべている。
「琵琶橋」
 下馬四つかどの一角にガソリンスタンドがあるが、その南に暗渠となっているところに、橋の面影をたずねることができよう。二十年位前までは、まだ橋の欄干が残り、擬宝珠の柱も見られたのだが、今は影をひそめてしまった。琵琶橋の名は、このあたりを琵琶小路と呼ばれてきたところによるのであろう。
 「針磨橋」
 この橋は別名「我入道橋」ともいう。この近くに針を磨ることをなりわいとする老姿(もしくは我入道という僧)が住んでいたことから、橋の名がつけられたという。
 「十王堂橋」
横須賀線の北鎌倉駅表口を出て、鎌倉街道を右へ少し歩くと、山ノ内川という流れを渡る。その橋が十王堂橋である。十王堂がこの近くにあったためにこの名がつけられた。
 詳しくは、2017年10月14日から2017年12月16日に投稿掲載してありますので、ご覧ください。
 「杉本観音と杉本城」
 歌の橋からさらに東へ坂をのぼりつめ、下り坂にかかった左手の石段の上に杉本寺がある。鎌倉にある古寺のうちで最も古く創建され、坂東観音霊場三十三札所の第一番になっている。寺伝では天平年間行基の開基というが、もちろん、頼朝が鎌倉入りをしたときにはあったので、頼朝は深く帰依して再建にも寄進をしている。
 また、この観音の霊験をたたえての話であろうが、この寺の前を通るときは、かならず馬を下りて行かねばならぬ。下馬せずに行きすぎる者は落馬すると伝えられ、下馬観音の異名もある。
 寺の裏山は、杉本城があったところで、三浦一族の出城として、杉本義宗がこの城をかためていた。三浦半島に大きな力をもっていた三浦氏が、半島の入り口にもあたるこの地に城を築き、三浦一族防衛の第一のとりでの役をはたしていた。などという記述がありましたので投稿いたします。

(詩の橋の碑です)

(二階堂川にかかる詩の橋)

(詩の橋の標柱)

勝長寿院旧蹟について NO23

2018-06-26 08:44:11 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 勝長寿院は、文治二年(1186年)源頼朝が亡き父の義朝を祀るために建てた院であって、別に南御堂とか大御堂とも言っている。
 此の地を大御堂が谷と言うのは、右のいわれによるのであって、実朝と政子も此の地に葬られたと伝えられているが、二人の墓は、今扇ケ谷の寿福寺にある。
 参考
 「大御堂」
 鎌倉時代からの諸記録によって、南御堂とも大御堂とも呼ばれていたことが明らかであるが、高柳光寿氏は、大御堂はどうも俗称であったらしいと言っている。しかし、南北朝時代以後は、大御堂というのが普通となっていた。
 「勝長寿院」
 勝長寿院は南御堂につけられた名であって、この堂の建立後に弥勒堂、五仏堂、三重塔などが建てられたとあるから、勝長寿院とは寺全体の名ではなかったのである。それがいつか寺全体を称する名となっていったのであって、今日の寺号とはちがうのである。
 頼朝は、父義朝に対する報謝の発願から、大蔵幕府の南東のこの地を相し、元暦元年(1184年)11月26日に地曳をはじめ、翌文治元年4月11日には柱立ての式を行なっている。この日、頼朝が式に臨んだその時、西海よりの飛脚が参り、義経が去る3月24日、長門赤問関の海上に平氏を討滅した旨の報告書一巻を進じた。頼朝はこの一巻を持ち、鶴岳八幡宮に向って坐し、感きわまって一言も発することができなかったと、吾妻鏡は、その劇的な場面を記録している。
 この年の8月30日には、亡父義朝の遺骨が京から鎌倉へと届けられ、頼朝は稲瀬川まで出迎えて、白装束にて義朝の遺骨をうけとり、9月3日に勝長寿院に葬ったのであった。二十年も前に死んだ義朝の頚をどのようにして尋ね出したかについては、多くの説があるが、今ここではそのいちいちをあげることを略す。
 その後、実朝や政子もこの境内に葬ったようであるから、勝長寿院は源氏の菩提所といえるであろう。従って忌日ごとの法会はいうに及ばず、奉納の名のもとに舞楽などを楽しむ遊興も催されたはずである。文治二年(1187年)5月、頼朝の長女大姫が、ここで静の舞を見ているし、正治二年(1200年)6月15日には頼家が一切経会を行ない、舞楽を奉納している。
 このように、源氏の菩提所として鶴岡八幡宮、永福寺とならぶ大きな寺であったので、その境内もおそらく、今の大御堂ケ谷の全地域に及ぶ広さであったと思われ、その寺域に弥勒堂、五仏堂、三重塔、一切経蔵、また南新御堂などがたち並んでいたのであるから、往時の寺のまえの大きさを偲ぶことができよう。
 「寿福寺の墓」
 碑に言う政子と実朝の墓も、確たる史料がなく、おそらくは、供養塔であろうというのが定説となっている。

(勝長寿院跡の碑)

文覚上人屋敷跡についてNO22

2018-06-16 07:33:06 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
文覚は俗世間にあったときは遠藤盛遠と言い、もとは京都の上皇の御所の警固役をつとめていたが、十八歳のとき、左衛門尉源渡(みなもとのわたる)の妻である袈裟(けさ)御前に思いをよせていたが、ある夜源渡と誤って袈裟御前を殺してしまった。
 盛遠は大きなあやまちに深く憎い、ついに出家して僧となり文覚と称した。
 文覚の修行はまことに勇猛であって、きびしい寒さ、ひどい暑さの中を草むらにやすんで夜をすごしたり、烈しく落下する滝の中に立って気を失い、死にかけるようなこともたびたびであった。
 養和二年(1182年)4月、頼朝の願いをうけて江の島に弁財天を祀り、ここに37、21日こもって断食して祈願につとめたという。
 此の地は、その文覚の居住のあとである。
 参考
 「文覚」
 平安末から鎌倉初期にかけての僧で、生歿の年はわからない。近衛校尉遠藤時遠の子で、上西門院の北面、院の武者所となった。
 京都神護寺の再興に努力し、後白河法皇に奉加を強要したことから罪せられて、伊豆に流されたが、そこで配流中の源頼朝とふれあう機会ができて、頼朝に挙兵をすすめたり、京都との連絡にもあたったという。
 頼朝の助力で神護寺の再興は果たしたが、その後、東寺の修理を発願したが、再び罪を得て佐渡にながさされ、また鎮西へ流されその地で歿したという。
 頼朝からは信任されて、江の島に弁財天を祀って奥州の藤原氏調伏の祈願を行なったり、材木座にある古義真言宗補陀落寺は頼朝が開基となり、文覚が開山している。
 文覚の荒行は、よく知られている通りで、極楽寺の成就院、前述の補陀落寺、大船の証菩堤寺には、文覚の荒行像と伝えられる木像が蔵されている。などという記述がありましたので投稿いたします。

(文覚上人屋敷跡の碑)

(前方文覚上人屋敷跡)

関取場跡について NO21

2018-06-09 10:01:33 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 此の地を土地の人々は俗に「せきば」と称しているが、昔は関取場と呼んでいたという。
 天文十七年(1548年)に北条氏は此の地に関を設け、関銭を取りたて、それを荏柄天神の造営の費用にあてさせた。
 その時の関銭などについての掟書(おきてがき)の文書は、今も荏柄天神社に保存されてある。
 参考
 「関銭」
 関所というと、江戸時代には警備を主として性格をもっているが、戦国争乱の天文年間は、通行税をとり立てる経済的な必要から設置されることが多かった。その通行税を関銭という。
 「関取場」
 荏原天神社文書の「荏柄社造営関定書案」をみると、天文十七年(1548年)12月27日の日付があって、この中に小田原城主北条氏康は、荏柄天神社再興造営のために関銭をとる掟書をつくり、次のように決めている。
 「商人方」
  麻、紙、布類荷物   は   十文
  あい物馬(乾物)   は   五文
  せおい荷(背負)   は   三文
  「道者方」
  荷付馬、牽馬、乗馬  は   十文
  手振人別       は   十文
  他国より西に上がる馬及び
   飛脚からは見合わて関銭をとる
   往来の僧、俗人からは関銭とらない。
   里の通行人からは関銭をとらない。
 このような関取場は、鎌倉では飯島にも置かれたという。などという記述がありましたので投稿いたします。

(関取場跡の碑)


(鎌倉駅方面)

(小学生が作成した関取場跡について)

(近くの橋の名)

(近くを流れる滑川)

理智光寺址の碑について 東NO20

2018-06-02 08:39:17 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
此の地は、願行上人を開山とする、五峯山理智光寺のあったところである。
建武二年(1335年)淵辺伊賀守義博は、足利直義の命令をうけて、護良(もりなが)親王の命をうばったが、亡くなられた親王の無念のこもった顔におそれをなして、その首を近くのやぶの中に置いて逃げ去ってしまった。理智光寺の僧がその首を見出して、近くの山上に葬ったという。
 建立場所 
 参考「理智光寺」
 五峰山理智寺が正しい呼び名であって、願行房憲静が開山した。この願行は、生年が不明であるけれど、泉涌寺の俊芿(しゅんじょう)(1166から1227年)の弟子で円満と号した。鎌倉に来て、この理智光寺のほか、大楽寺、安養院なども開山している。
 この理智光寺の境内の中に、護良親王の首級を葬ったといわれるが、その地は今の護良親王墓所として、小高い丘の上に伝えられている。
 南北朝のころまでは理智光寺といわれていたが、その後、扇ケ谷の浄光明寺が管理する寺となり、さらに江戸時代には、東慶寺の末寺の尼寺となったといわれている。
 明治初年の廃仏毀釈の際に廃寺となってしまった。
 今覚園寺にある鞘阿弥陀は、理智光寺阿弥陀堂の本尊であったものが移されたのである。
 「護良親王」(1308~35年)
 後醍醐天皇の息子で、比叡山の僧籍に入り、大塔宮尊円法親王と呼ばれたが、鎌倉幕府を攻め、北条氏を滅ぼす際には、僧籍を出て護良親王を名乗り、建武中興の実現後は征夷大将軍となった。
 その後、足利尊氏と互に反目する仲となって、尊氏のために捕えられ、鎌倉に送られる身となってしまった。
 鎌倉に下ってからは、尊氏の弟である直義の監視のもとにおかれ「太平記」によれば「二階の谷に土の牢を塗
ってぞ置き進らせける。南の御方と申しける上﨟女房一人よりほかは、着き副い進らする人もなく、月日の光も見えぬ闇室の内に」不自由な日々を送らせられた。
 建武二年(1335年)7月、北条氏の残党が高時の遺子時行を擁して鎌倉に攻めて来た(中先代の乱)ときに、直義は、鎌倉を捨てて逃げるにあたり、淵辺義博に命じて護良親王を殺させた。そのときの模様を、太平記は次のように記している。
  汝(淵辺義博)は我(護良親王)を失わんとの使にてぞあるらん。心得たりと仰せられて、淵辺が太刀を奮
わんと走りかからせ給いけるを、淵辺持ちたる太刀を取り直し、お膝のあたりをしたたかに打ち奉る。宮は半
年ばかり牢の中に居くぐまらせ給いたりければ、み足も快く立たざりけるにや、お心は、やたけにおぼしめし
けれども、うつぶせに打ち倒され、起きあがらんとし給いしところを、淵辺お胸の上に乗りかかり、腰の刀を
抜いてお首を掻かんとしければ、宮お頚を縮めて、刀のさきをしかとくわえさせ給う。淵辺したたか者なりけ
れば、刀を奮われまいらせじと、引きあいける間、刀のきつ先一寸あまり折れて失せにけり。淵辺その刀を投
げ捨てて、脇差しの刀を抜いて、まず胸もとの辺を二刀(二度)刺す。刺されて宮、少し弱らせ給うていに見
えけるところを、お髪をつかんで引きあげて、すなわちお首を掻き落とす。牢の前に走り出て、明き所にてお
頚を見奉るに、くい切らせ給いたりつる刀のきっ先、まだお口の中に留って、御眼猶お生きたる人の如し。
 理智光寺の僧が、このお首を手あつく葬ったのが、今護良親王の墓として伝えられているのである。などという記述がありました。 
 「覚園寺の鉄不動と理智光寺」
 文永年間(1264から1275年)の頃、この寺の開山である願行は、高野山の意教に教えを受けていたが、相模の大山にのぼって修行中に不動明王の霊験を受け、その姿をそのままに鉄造りの不動をこの理智光寺で鋳造したという伝えがある。「試みの不動」といわれているのがそれである。鋳造された鉄不動は大楽寺という寺の本尊とされたが、その大楽寺も廃寺となって、今は覚園寺の愛染堂に安置されているといわれている。などという記述がありましたので投稿いたします。

(理智光寺址の碑)

(「護良親王」(1308~35年)の標柱)

(護良親王墓所)

(鎌倉駅からの道)