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野毛坂について

2016-07-23 12:30:57 | 日記
 野毛坂は、JR桜木町駅を下車し、山側へ行く道路を直進すると野毛坂と交わるT字路に合流し、これを右に折れて更に進むと野毛坂の十字路と交わり、左手には横浜中央図書館がありこれを眺めながら進んでいくと、野毛坂の道標が見えてきますが、今回は、この野毛坂を(「横浜の坂」著者小寺 篤 発行 今野 繁光)によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 野毛坂は、万延元年(1860年)3月に作られた道で、当時の地名は、野毛浦と云いまだ埋立られていない状態で、戸部村野毛浦と称されており、現在の都橋を過ぎると左手には入江の海岸で右手には一面の水田を耕し、戸部村野毛浦を合わせて5百99石8斗余りで、戸部村は田園多く、戸々散在、農間期には魚貝類や海草採取を業としていた。しかし、野毛浦は、田園少なく魚貝類や海草採取を専業としていた。
 横浜港開港以前は、横浜村の入口へ入るためには、保土ヶ谷宿を経由してここまでたどりつき、現在の長者町通りを過ぎて、中村、石川と迂回し、やっと横浜村の入口に到達できたのであったが、開港と同時に横浜道がひらかれて、この道標のところで保土ヶ谷道と落ち合うことになり、あとは新設の野毛橋、吉田橋によってつながった。
 しかし、新開港の貿易場へつながるためには、なんとしてもこの急坂は障害であった。明治6年2月、県令雇米国人ダウイスに担当させて、坂の切り下げ工事に着手したと云うのは、遅きに逸したと云うべきであろう。しかも馬車の通行には十分であったことから、明治18年、再度の工事を余儀なくさせた。
 ところが、この坂道を大きく変化させたのは、関東大震災以後のことである。災害後の復興事業として市内の区画整理が行われ、交通機関の完備を計画したのであった。市内電車の増加で、市内電車は馬車道八幡橋間、西の橋本牧原間が大正以前に開通して以来発展し、その後、震災のため挫折の形になっていたのであるが、野毛坂をさらに切り下げて勾配をゆるくし、西平沼橋と野毛坂間が昭和3年5月に、野毛坂と長者町5丁目間が同じく11月に開通した。これが長者町線である。しかし、そのころから、野毛坂の面影もさらに失われてしまった。それは、市電が廃止されてしまった今もなお、昔に還ったわけではない。
 坂としての風趣が消えて、野毛坂という名前だけが生きている今、その坂は、野毛山公園の方へ上って行く道がそれだと思っている人が多い。それはそれでいいのである。市立図書館の前から動物園の方へ向かう、だらだらと長い坂に、細かに敷き詰めた御影石の模様が美しくしいではないか。などという内容でありました。

(横浜中央図書館附近 野毛坂の動物園との交差点)

(野毛坂至る戸部放免)

(文書にある現在の野毛坂と称する道至る動物園)

紅葉坂について

2016-07-16 17:08:57 | 日記

 横浜市内には結構坂道があります。そこで、今回から坂道について投稿して行きたいと思います。先ずは、JR桜木町駅から神奈川県立図書館や能見堂へ行く上り坂である「紅葉坂」(「横浜の坂」著者小寺 篤 発行 今野 繁光)によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
明治ころは、山王山と云われており官宅がおおくあり、また、伊勢山皇太神宮への参道になっていた。この坂道を紅葉坂とは云われるが、それは名ばかりで、桜の並木であった。このため、青葉の時期になると毛虫が繁殖しぶらさがることから、洋傘を離せないという人もいたりして、道端の子供達が“おじさん雨降ってないよ”とのぞき込み注意をしてくれると記述があった。
一方、横浜港の東水堤防波堤と北水堤防波堤は、神奈川県が雇った外人H・Sパーマーの設計監督によって、明治29年に竣工し、併せて、乾船渠の築造工事も完成している。
この近くに横浜船渠会社の事務所があった。当時、給仕の少年達は、新しく越したばかりの野毛山町2丁目裏通りの格子戸を出花咲町から錦橋をわたって朝早く出勤せねばならなかった。それは、後から出てくる社員たちに茶を出すのが、先ずは第一の仕事であったからだ。それからの一日は、絶え間なく用を言いつけられて、人を呼んで来たり、手紙を持っての使い走り、中でも昼の弁当運びというのが一番嫌な仕事であった。食べ終わった空になった箱をまた運ばねばならなかったからである。
ところが、弁当運びを専門にやっている商売もあって、襟に会社の名を染めた印ハンテンを着て、彼らは、25歳までに偉くなる誓いをたて、紅葉坂を行き来していた。
当時は、信仰の盛んなころには参詣の人通りがあり賑やかであったと思われるが、現在は、図書館へ通う学生たちの通路であり、音楽堂へ行く若い男女たちののぼる坂である。音楽通りというのができている。このため、この坂もやがてぱ音楽坂などと変ってしまうのではないか。
追伸、紅葉坂は、夕日の美しい坂である。特に、冬の日、一直線に打ひらいたあかるい頂上の真上に落ちる。それをまともに頭上にふりかぶって坂の上に佇むと、サイコロ工法のみかげ石の綺麗な舗装の模様に、木枯の影が黒々と描き出され、以前はその下に水の流れていた紅葉橋をとおして、チンチン電車の行き交う姿が望まれた。‥という記述もありました。

(紅葉坂付近の案内図)

(国道16号線を跨ぐ紅葉橋)

(国道16号線からの紅葉坂)

(音楽堂)

(伊勢山皇太神宮)



生糸貿易商・中居屋重兵衛店跡について

2016-07-09 13:28:47 | 日記
 関内桜通りをJR関内駅から港方向へ進んだ本町通りと交差する右側に「生糸貿易商・中居屋重兵衛店跡」の碑がありましたので、「炎の生糸商中居屋重兵衛 著者荻原進」によると次のような事柄が記述されていましたので、投稿いたします。
 中居屋重兵衛という名は、一般にはほとんど知られていない。ただわずかに郷里の群馬と横浜の一部の人々に伝えられてきた。いわば歴史の流れの外に置かれた人物であった。諸説まちまちの幕末時代に生き、そして死んでいった一介の商人であっただけに、事情も雲間に隠見する蚊竜のそれに似て、断片的にしか人間像がつかめない。歴史的事実の実像虚像が幕末史中の人物であるがため、実像も一層謎に包まれた部分が多い。
 彼のことが群馬県で紹介されたのは、昭和4年の「群馬県吾妻郡誌」であった。それも、横浜中居屋の店に勤めていた小林という老人が生家を訪れて、大正時代に話した聞書が主であった。生家がその後火災にあい、一切の伝記資料を焼失したことも一つの原因であったし、42歳で横浜から突然姿を消し、伝承では、その店は幕府に接収されてあっと言う間に没落したために、まとまった関係資料もほとんど残されかったことも、また見逃されて来た一つの原因をなしていた。
 しかし、日本の事実上の近代の夜明けの拠点となった横浜開港関係の資料の中には、中居屋重兵衛にふれたものが早くに伝えられていたが、横浜開港で突如現われながら、巨星地に墜ちるように勿然として横浜から姿を消してしまったため、いつの間にか横浜でも忘れさられていた。
 群馬県の草津温泉の近くにある吾妻郡嬬恋村三原、それが彼の誕生地である。彼は文政、天保といった近世の第二次繁栄期の社会情勢の中で成長した。郷里中居村は、天下の名湯として知られた草津に近かったこともあり、全国的に酔って、離農離村者がふえた。そのあと一転して天保の飢餓というショックによる不況よって彼の生家の家産も傾いてきた。その中で、彼は必至に努力奮闘したが思うように回復は成らなかった。
 そうした現実の中で、村を出て江戸で新しい活路を見いだそうとした。幸い、江戸には母方の親戚である和泉屋善兵衛が居たので、そこに身を寄せて第二の人生に命をかけた。この江戸在住時代に商人道を会得し、ただ利益追求のありきたりの商人ではなく、学問の研究にも没頭し、行動が国土的な政商の面にまで及んだ。
 そのころ、江戸と京都の東西を拠点として、天下は騒然としていた。将軍世継ぎにからんだ幕閣の争いや、倒幕と佐幕という体制の革新に対する二つの大きな流れなど国内問題はその去就さえわからないまま推移して行った。
 一方には、鎖国を破って通商を迫るアメリカやロシアなどの諸国がしきりに近海に出没して我が国に近づき、海防問題、開国の是非論とともに大きな外患とった。そうした不安定な内憂外患の社会の中で、重兵衛は、倒幕開国論を選んだのである。
 数多い横浜進出の商人の中で、際立ってその商才と商魂を評価され、浜第一の豪商であった中居屋重兵衛が、もし明治までいきながらえたとすればどんな活躍と社会的地位を得たか誰しも興味を抱くであろう。常に時代の先端を開拓し、水先案内をしてきた偉材が、花火のように消えたその生涯はまことに波乱万丈であった。そこにまた現代人に訴えるものがあるゆえんであろう。という事などの記述がありました。
 「開国の先覚者 中居屋重兵衛 著者 佐々木杜太郎 発行者 菅貞人」には、“人はその生きた時代によって作られ、また時代は人によってつくられる。すべての歴史は人が生み出したものである。”とあったので、併せて投稿いたします。

(生糸貿易商・中居屋重兵衛店跡の碑)

(生糸貿易商・中居屋重兵衛店跡付近)

麻里布丸のイカリの碑について

2016-07-02 09:30:56 | 日記
 本町道とおりを港が見える丘公園方向に歩いて行くと{横浜高速鉄道株式会社のみなとみらい線「元町・中華街駅」}近くに「麻里布丸のイカリの碑」がありましたので、「中区の歴史を碑もとく 編集 横浜市中区役所政推進課」によると、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 このイカリは、かつて東京タンカー所属の麻里布丸(50,423トン)で使用された三菱重工横浜造船所より寄贈を受けたイカリで、総重量が10.5トン、錨柄の長さが3.4メイトルあります。
 麻里布丸は、中東等の産油国から原油を運び続け、外航200次航海を達成した後、昭和51年春に解体されて本牧ふ頭の護岸建設に利用された横浜港にゆかりの深い船です。また、このイカリの周囲柵は、戦前太平洋航路が華やかだったころ、船客送迎の中心であった新港ふ頭4号屋上が昭和54年に解体された時に、船客待合所2階ホールの手摺の一部を移設したものです。とありました

(麻里布丸のイカリの碑)

(イカリの周囲柵・新港ふ頭4号屋上の手摺)

(麻里布丸のイカリの碑付近の街風景)