野毛坂は、JR桜木町駅を下車し、山側へ行く道路を直進すると野毛坂と交わるT字路に合流し、これを右に折れて更に進むと野毛坂の十字路と交わり、左手には横浜中央図書館がありこれを眺めながら進んでいくと、野毛坂の道標が見えてきますが、今回は、この野毛坂を(「横浜の坂」著者小寺 篤 発行 今野 繁光)によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
野毛坂は、万延元年(1860年)3月に作られた道で、当時の地名は、野毛浦と云いまだ埋立られていない状態で、戸部村野毛浦と称されており、現在の都橋を過ぎると左手には入江の海岸で右手には一面の水田を耕し、戸部村野毛浦を合わせて5百99石8斗余りで、戸部村は田園多く、戸々散在、農間期には魚貝類や海草採取を業としていた。しかし、野毛浦は、田園少なく魚貝類や海草採取を専業としていた。
横浜港開港以前は、横浜村の入口へ入るためには、保土ヶ谷宿を経由してここまでたどりつき、現在の長者町通りを過ぎて、中村、石川と迂回し、やっと横浜村の入口に到達できたのであったが、開港と同時に横浜道がひらかれて、この道標のところで保土ヶ谷道と落ち合うことになり、あとは新設の野毛橋、吉田橋によってつながった。
しかし、新開港の貿易場へつながるためには、なんとしてもこの急坂は障害であった。明治6年2月、県令雇米国人ダウイスに担当させて、坂の切り下げ工事に着手したと云うのは、遅きに逸したと云うべきであろう。しかも馬車の通行には十分であったことから、明治18年、再度の工事を余儀なくさせた。
ところが、この坂道を大きく変化させたのは、関東大震災以後のことである。災害後の復興事業として市内の区画整理が行われ、交通機関の完備を計画したのであった。市内電車の増加で、市内電車は馬車道八幡橋間、西の橋本牧原間が大正以前に開通して以来発展し、その後、震災のため挫折の形になっていたのであるが、野毛坂をさらに切り下げて勾配をゆるくし、西平沼橋と野毛坂間が昭和3年5月に、野毛坂と長者町5丁目間が同じく11月に開通した。これが長者町線である。しかし、そのころから、野毛坂の面影もさらに失われてしまった。それは、市電が廃止されてしまった今もなお、昔に還ったわけではない。
坂としての風趣が消えて、野毛坂という名前だけが生きている今、その坂は、野毛山公園の方へ上って行く道がそれだと思っている人が多い。それはそれでいいのである。市立図書館の前から動物園の方へ向かう、だらだらと長い坂に、細かに敷き詰めた御影石の模様が美しくしいではないか。などという内容でありました。
(横浜中央図書館附近 野毛坂の動物園との交差点)
(野毛坂至る戸部放免)
(文書にある現在の野毛坂と称する道至る動物園)
野毛坂は、万延元年(1860年)3月に作られた道で、当時の地名は、野毛浦と云いまだ埋立られていない状態で、戸部村野毛浦と称されており、現在の都橋を過ぎると左手には入江の海岸で右手には一面の水田を耕し、戸部村野毛浦を合わせて5百99石8斗余りで、戸部村は田園多く、戸々散在、農間期には魚貝類や海草採取を業としていた。しかし、野毛浦は、田園少なく魚貝類や海草採取を専業としていた。
横浜港開港以前は、横浜村の入口へ入るためには、保土ヶ谷宿を経由してここまでたどりつき、現在の長者町通りを過ぎて、中村、石川と迂回し、やっと横浜村の入口に到達できたのであったが、開港と同時に横浜道がひらかれて、この道標のところで保土ヶ谷道と落ち合うことになり、あとは新設の野毛橋、吉田橋によってつながった。
しかし、新開港の貿易場へつながるためには、なんとしてもこの急坂は障害であった。明治6年2月、県令雇米国人ダウイスに担当させて、坂の切り下げ工事に着手したと云うのは、遅きに逸したと云うべきであろう。しかも馬車の通行には十分であったことから、明治18年、再度の工事を余儀なくさせた。
ところが、この坂道を大きく変化させたのは、関東大震災以後のことである。災害後の復興事業として市内の区画整理が行われ、交通機関の完備を計画したのであった。市内電車の増加で、市内電車は馬車道八幡橋間、西の橋本牧原間が大正以前に開通して以来発展し、その後、震災のため挫折の形になっていたのであるが、野毛坂をさらに切り下げて勾配をゆるくし、西平沼橋と野毛坂間が昭和3年5月に、野毛坂と長者町5丁目間が同じく11月に開通した。これが長者町線である。しかし、そのころから、野毛坂の面影もさらに失われてしまった。それは、市電が廃止されてしまった今もなお、昔に還ったわけではない。
坂としての風趣が消えて、野毛坂という名前だけが生きている今、その坂は、野毛山公園の方へ上って行く道がそれだと思っている人が多い。それはそれでいいのである。市立図書館の前から動物園の方へ向かう、だらだらと長い坂に、細かに敷き詰めた御影石の模様が美しくしいではないか。などという内容でありました。
(横浜中央図書館附近 野毛坂の動物園との交差点)
(野毛坂至る戸部放免)
(文書にある現在の野毛坂と称する道至る動物園)