今日は、横浜大通り公園へ行ってきました。この公園は、JR関内駅を下りて横浜スタジアムのある反対側で、坂東橋までの間であります。
この公園は、看板によれば、吉田川を埋め立ててつくった公園となっており、細長く全長1.2kmで幅は、30m~40m、面積は、3.6haの大緑地帯で形成されています。完成は、昭和53年に完成したが、施設の老朽化に伴い平成11年から4年かけて、再整備を行ったとなっていました。
また、公園の構成は、「石の広場」「水の広場」「緑の広場」の三つのゾーンからなっていて、石の広場には、石のステージが置かれ、さまざまなイベントが行えるようになっている。
水の広場には、噴水やカナールがあります。緑の広場には、楠などの樹齢百年ものがあり、オゾン一杯で、夏の家族での休息場所には一番では・・・思われます。また、この緑の広場には、幼児達の遊具も用意されていますので、親子で出かけても良いのでは。
一方、各ゾーンには、世界を代表する作家の彫刻作品やレリーフ等も配置されています。中でも「長谷川潔画伯碑銘には、1891年12月に横浜市西区西戸部町に生まれ、1980年12月パリ市でなくなり、享年89歳、氏は、パリに渡り一度も帰国せず、銅版画は、世界の注目するところとなり、その評価は極めて高がったが、フランス芸術院会員に列せられた。と刻まれていました。最後の二行には、ひとには歴史がある。ひとには歓びがある。ひとには涙がある。そして、ひとには明日がある。と締めくくってありまた。
坂東橋近くには、平和祈念碑があり、その由来を日本語と英語で刻まれ、内容は、下記の様に記されていました。
1941年12月8日、日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により、大日本帝国は、連合軍との間に戦端を開くに至った。この間、3年9ケ月・・・・・中略、この人類至高の祈りが、志ある人々により継続され、犠牲者も平和の使徒の先駆者として、至福の時を共に迎える日の近きことを信ずる。と刻まれていました。
最近、何となく世の中キナ臭い感じの動きがありますが、この碑を前に平和の有難さをしみじみ感じ、帰宅の途につきました。
(公園配置図)
(石の広場)
(石の広場 瞑想オブジェ)
(石の広場)
(水の広場 噴水止まっていた)
(働く女)
(緑の広場)
(緑の広場の幼児遊具)
(緑の広場一コマ)
(緑の広場の遊具)
(長谷川潔氏の碑)
(平和祈念碑)
(碑の由来)
この公園は、看板によれば、吉田川を埋め立ててつくった公園となっており、細長く全長1.2kmで幅は、30m~40m、面積は、3.6haの大緑地帯で形成されています。完成は、昭和53年に完成したが、施設の老朽化に伴い平成11年から4年かけて、再整備を行ったとなっていました。
また、公園の構成は、「石の広場」「水の広場」「緑の広場」の三つのゾーンからなっていて、石の広場には、石のステージが置かれ、さまざまなイベントが行えるようになっている。
水の広場には、噴水やカナールがあります。緑の広場には、楠などの樹齢百年ものがあり、オゾン一杯で、夏の家族での休息場所には一番では・・・思われます。また、この緑の広場には、幼児達の遊具も用意されていますので、親子で出かけても良いのでは。
一方、各ゾーンには、世界を代表する作家の彫刻作品やレリーフ等も配置されています。中でも「長谷川潔画伯碑銘には、1891年12月に横浜市西区西戸部町に生まれ、1980年12月パリ市でなくなり、享年89歳、氏は、パリに渡り一度も帰国せず、銅版画は、世界の注目するところとなり、その評価は極めて高がったが、フランス芸術院会員に列せられた。と刻まれていました。最後の二行には、ひとには歴史がある。ひとには歓びがある。ひとには涙がある。そして、ひとには明日がある。と締めくくってありまた。
坂東橋近くには、平和祈念碑があり、その由来を日本語と英語で刻まれ、内容は、下記の様に記されていました。
1941年12月8日、日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により、大日本帝国は、連合軍との間に戦端を開くに至った。この間、3年9ケ月・・・・・中略、この人類至高の祈りが、志ある人々により継続され、犠牲者も平和の使徒の先駆者として、至福の時を共に迎える日の近きことを信ずる。と刻まれていました。
最近、何となく世の中キナ臭い感じの動きがありますが、この碑を前に平和の有難さをしみじみ感じ、帰宅の途につきました。
(公園配置図)
(石の広場)
(石の広場 瞑想オブジェ)
(石の広場)
(水の広場 噴水止まっていた)
(働く女)
(緑の広場)
(緑の広場の幼児遊具)
(緑の広場一コマ)
(緑の広場の遊具)
(長谷川潔氏の碑)
(平和祈念碑)
(碑の由来)