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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

横浜大通りにて

2014-04-26 10:39:22 | 日記
 今日は、横浜大通り公園へ行ってきました。この公園は、JR関内駅を下りて横浜スタジアムのある反対側で、坂東橋までの間であります。
 この公園は、看板によれば、吉田川を埋め立ててつくった公園となっており、細長く全長1.2kmで幅は、30m~40m、面積は、3.6haの大緑地帯で形成されています。完成は、昭和53年に完成したが、施設の老朽化に伴い平成11年から4年かけて、再整備を行ったとなっていました。
 また、公園の構成は、「石の広場」「水の広場」「緑の広場」の三つのゾーンからなっていて、石の広場には、石のステージが置かれ、さまざまなイベントが行えるようになっている。
 水の広場には、噴水やカナールがあります。緑の広場には、楠などの樹齢百年ものがあり、オゾン一杯で、夏の家族での休息場所には一番では・・・思われます。また、この緑の広場には、幼児達の遊具も用意されていますので、親子で出かけても良いのでは。
 一方、各ゾーンには、世界を代表する作家の彫刻作品やレリーフ等も配置されています。中でも「長谷川潔画伯碑銘には、1891年12月に横浜市西区西戸部町に生まれ、1980年12月パリ市でなくなり、享年89歳、氏は、パリに渡り一度も帰国せず、銅版画は、世界の注目するところとなり、その評価は極めて高がったが、フランス芸術院会員に列せられた。と刻まれていました。最後の二行には、ひとには歴史がある。ひとには歓びがある。ひとには涙がある。そして、ひとには明日がある。と締めくくってありまた。
 坂東橋近くには、平和祈念碑があり、その由来を日本語と英語で刻まれ、内容は、下記の様に記されていました。
 1941年12月8日、日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により、大日本帝国は、連合軍との間に戦端を開くに至った。この間、3年9ケ月・・・・・中略、この人類至高の祈りが、志ある人々により継続され、犠牲者も平和の使徒の先駆者として、至福の時を共に迎える日の近きことを信ずる。と刻まれていました。
 最近、何となく世の中キナ臭い感じの動きがありますが、この碑を前に平和の有難さをしみじみ感じ、帰宅の途につきました。

(公園配置図)

(石の広場)

(石の広場 瞑想オブジェ)

(石の広場)

(水の広場 噴水止まっていた)

(働く女)

(緑の広場)

(緑の広場の幼児遊具)

(緑の広場一コマ)

(緑の広場の遊具)

(長谷川潔氏の碑)

(平和祈念碑)

(碑の由来)

富岡総合公園にて

2014-04-19 11:33:48 | 日記
 今日は、お天気も良く富岡総合公園へ行ってきました。この公園は、JR新杉田駅からモノレールに乗り換え、始めての駅「南部市場前」で下車して、西に500m程の所にあります。
 この公園は、立て看板によると貴重な旧海岸線の雑木林が豊かに残る公園で、四季の移り変わりを体感することができ、春のさくら、ボタン、アジサイ、夏の森林浴、秋には、虫の声やプラタナスの紅葉、そして冬は、澄み渡った大空のもと東京湾などを眺められ、四季折々素晴らしい観察を楽しむことが出来る。と書いてありました。
 また、自然に親しみながら、より多くの小川に住む生き物や自然林を住みかにして小鳥達や蝶々、トンボなど探し観察する場所として、「探してみよう」の看板もありました。
 一方、スポーツ施設としては、アチェリー場、テニスコート2面、多目的運動広場、アスレチック広場もあり、新しい出会いを発見して見て下さい。とありました。
 アチェリー場の管理人さんの説明では、的までの最長距離は100m、最短は30mあり、高等学校の大会や県内の社会人の大会等ができる公式のアチェリー場で、しかも開設以来一度も事故がなく、関東地区では、当会場だけと自慢をしておりました。
 また、アチェリーは、日本の弓矢と違いスピードが2倍の速さ(日本の弓矢は、時速120~160キロであるが、アチェリーは320キロ位のスピードであることから、事故が起きれば重症か場合によっては、死亡に至ると話されていました。
 しかし、日本のアチェリー人口は少なく、5,000人位であるが、1試合得点が720点満点であるが、少なくとも限りなく700点に近い成績を残さないと県代表にはなれない。と説明があり相当の腕前の方々の集団であるようであります。
 この弓場では、アチェリーの機材は高額なため、自分で用意するには費用が嵩むことから、貸出も行っている。土日以外であれば容易に出来ますと営業されてしまいました。
このアチェリースポーツ振興のため、関係者の配慮や苦心を思い伺うことが出来しました。

(公園配置図)

(公園入口 つづじ坂)

(自然林の中での休息場)

(その奥は自然林)

(立て看板)

(小川)

(東京湾を望む)

(多目的運動公園)
(テニスコート)

(アーチェリー場、70メートルラインから、1人で的に猛アタック)

横浜公園にて

2014-04-11 17:57:37 | 日記
 今日は、お天気も良く横浜公園へ行ってきました。この公園は、JR関内駅を下りて海側の横浜スタジアムのある一角であります。
 「横浜の公園史稿」著書 村本外雄氏の横浜市緑地行政資料によりますと現在の公園の姿になるまで、4回に亘って改修を重ね、今日に至っているとあります。また、公園の主要な場所にも公園沿革の碑や沿革を記された立て看板もありました。
 前述の「横浜市緑地行政資料」の具体的内容は、明治初年から同42年にかけて、「造園様式」は、「洋式」として、公園の機能としては、「運動本位」となっており、公園の使用される対象者は、居留外国人の利用第1とする」と記されていました。
 第1回の改修出は、明治42年から大正12年となっており、「洋式を和式として、機能は休養本位となり、使用する対象者は、日本人利用第一義として改修とした」と記され、
 第2回の改修では、昭和4年から同20年まで、「公園様式は、和洋折哀式、機能は、運動・休養、利用対象は、青少年及び幼少児童向けに改修した」と記され、
 第3回の改修では、昭和20年から同50年代まで、「公園様式は、和洋折衷式、機能は、運動優先、利用対象は、進駐軍及びその家族等外国人と日本人の青少年向けとなった」と記されていました。
 一方、公園記念碑には、大正9年の大震災の際には、避難所として九死に一生を得たたとある。また、公園の沿革に関わる立て看板には、「彼我公園」(横浜公園の前身)を設計したイギリスの「技師、ブラントン」設計に始まり、明治後半の一般市民の利用、更には、関東大震災からの復興に係る公園の変身、加えて、敗戦後の接収地変換を乗り越えて、今日に至る横浜公園の生い立ちを市民に、伝えていました。以下、写真をもって詳細を紹介いたしますので、ご覧下さい。
 さて、この公園では、毎年、春にはチュウリップ祭りが行われています。今年は、4月11日から13日までの3日間開催されています。
 横浜スタジアム及び日本庭園のエリヤ以外は、全て、チュウリップで埋め尽くされており、それは見事でありました。
 そんな中で、チュウリップの人気投票結果を受けて、球根が植え付けられ、これが花真っ盛りでありましたが、何故かベスト10ではなく、ベスト8でありました。それぞれ、3~5㎡程の区画に植え付けられてありましたので、併せて、写真にて、ご紹介いたしますので、ご覧下さい。
 また、この祭りの外、山下公園を含めて5月6日まで、花壇展がありますので、併せて、投稿いたします。

(スプリングフェア、チュウリップ祭りのお知らせ)

(スプリングフェアのお知らせ)

(公園配置図)

(公園沿革の碑)

(公園改修沿革)

(公園改修沿革)

(公園改修沿革)

(公園の沿革)

(チュウリップの人気ベスト8-1)

(チュウリップの人気ベスト8-2)

(チュウリップの人気ベスト8-3)

(チュウリップの人気ベスト8-4)

(チュウリップの人気ベスト8-5)

(チュウリップの人気ベスト8-6)

(チュウリップの人気ベスト8-7)

(チュウリップの人気ベスト8-8)

(チュウリップの数々)

(チュウリップの数々)

(チュウリップの数々)

(チュウリップの数々)

(チュウリップの数々)

(チュウリップの数々)

(チュウリップの数々)

(チュウリップの数々)

(日本庭園 方々から湧き水が流入)

(日本庭園 亀さんもカモメさんもお昼寝)

(日本庭園 ゆっくり時が流れて)

(枯山水ならぬ池の水を切っている様)

(枯山水ならぬ池の水を切っている様)

(枯山水ならぬ池の水を切っている様)

(枯山水ならぬ池の水を切っている様)

(水琴窟)

(石灯籠)

長浜野口記念公園にて

2014-04-05 10:51:48 | 日記
 長浜野口記念公園は、パンフレットによれば、野口英世氏が医師免許を取得された明治32年5月に北里柴三郎氏の伝染病研究所の研究助手だった野口英世氏が、この長浜の「海港検疫所」の「医官補」として勤務されたゆかりの地に「細菌検査室の保存」と横浜検疫所長浜措置場のシンボルであった旧事務棟の外観を復元し「長浜ホール」を新設して歴史公園として、平成9年5月に開園したとなっていました。
 野口英世氏は、この長浜の地に僅か5ケ月間の中で、横浜港に入港しようとしていた「亜米利加丸」の乗り組くみ員から、検疫所初ともなるペスト患者を発見、隔離するという成果をあげたそうであります。この功績から、師である北里柴三郎からの推薦を受けて、当時ペストが流行している清国、・牛壮(ニューチャン)に国際予防委員会の一員として派遣され、翌年春に知己となったシモン・フレキスナー博士を訪ねアメリカに渡り、以降、国際的な活躍を果す野口英世博士ですが、横浜検疫所での実績が氏の躍進への第一歩であったと言えましょう。と記されていました。
 長浜ホールのその中には、野口英世博士の胸像、等身大の写真、1/20のスケールの博士の生家など、世界中を駆け巡っての功績の数々がしるされています。また、このホールの地下には、可動式椅子104席を持つコンサート、コーラス等小規模な音楽活動や文化活動に利用できる時間貸ホールや2Fには、多目的ルーム、会議室や音楽練習室にはピアノまで備えられた時間貸ルームがありました。
 一方、旧細菌検査室には、当時、使用されていた検査実験器具として、今日では、なかなか見ることの出来ない大きな顕微撮影装置、微生物の培養機材の滅菌に用いるコッホ式蒸気釜、器内温度一定に保つ孵卵器等などが展示されております。
なお、入館料は無料ですが、休刊日を年末年始の12月29日から1月3日の外、月1回程度の施設点検日となっています。

(横浜市長浜ホール)

(旧細菌検査室 復元)

(野口英世博士の 胸像「北村西望」作品)

(野口英世博士の生家1/20)

(野口英世博士の等身大写真)

(明治当初の海港検疫所所在地の風景写真)

(同じ)

(世界各地への赴任地)

(動物実験室)

(顕微鏡撮影装置)

(現在の検疫所)

長浜公園にて

2014-04-05 10:00:43 | 日記
 気候も良くなり、散歩など自然に親しむアウトドアー思考へと季節が廻って来ました。今回は、横浜市金沢区にある長浜公園へ行ってきました。最寄り駅は、JR新杉田駅からモノレール並木中央駅で下車して、西に1.キロ程のところにある公園です。
 この地域は、ネットで調べたところ、昭和35年頃から同50年頃まで15年に亘り大規模に海面を埋め立て造成して、工業地域と住宅地域を幅30メートル程のグリーンベルトで区分し、住宅地域には、それぞれの団地に即した公園を配置されているが、これとは別に、横浜市の公園として「長浜公園」を整備して、昭和57年7月一部市民に解放され、その後、平成4年には、野鳥観察園の汽水池の整備も終えて広さ154,182m2と広大面積を持つ公園して、全面開園されたとなっていました。
 公園に付随するかのように、スポーツセンターも併設されていたので、立ち寄りパンフレットを拝見して見ると大人向けのスポーツ教室は、バトミントン、卓球、ヨガ、フラダンス、社交ダンス、習慣病予防トレーニングなど21教室ありました。また、子供向け教室には、幼児体操、親子体操、子どもヒップホップ、横浜FCサッカー、子ども野球など8教室が開かれていました。
 これら受講期間の長いものは、3ケ月間で、受講回数は10回から15回の受講となっていました。中には、当日受付当日受講教室もあり、区民のニーズにあった選択ができる様に工夫されていました。
 この他、トレーニングマシンによるエアロバイク、ランニングマシン、筋トレーニングマシン、ダンベルなどの機器も整備されている様であります。
 さて、屋外の設備には、サッカー場1面、野球場1面、テニスコート6面の外、子ども為のジャンクルジム、ブランコの外に芝生に包まれた築山が配置されていました。高速道路を挟んで、野鳥観察を目的にした1日2回潮の満ち干で池の水が入れ替る汽水池が設けられていた。公園周囲にはツツジ、雪柳、桜など花壇なども整備されており、区民の憩いの場所となっており、そこには、幼児をつれた親子始め、シニアーの方々もビニールシートを広げて車座になって歓談をしている人々を散見いたしました。
 運動広場のサッカー場では、企業のレクレーションか・・ ?総勢30人程が2チームに分かれで練習を行っていました。テニスコート6面全てが使用されており、さすがに春爛漫さながらでありましたが、残念ながら、夜間設備まで整えられた野球場は閑古鳥が鳴いておりました。
 一方、野鳥観察の汽水池では、500倍を超えると思われる望遠レンズを付けたカメラで、目指すカワセミを切り取ろうと構えるシニアーカメラマンの方々がシャッターチャンスを今か、今かと待ち詫びておりました。
 また、観察小屋には、飛来する小鳥の名前や大空を飛び交う小鳥の姿を説明してあり、興味を持つ初心者にも見て取れるように、誰もが理解できる壁新聞がありました。加えて、飛来する小鳥の一覧表があり、観察できた小鳥の名前をその月その日視認した人が、丸◎印を付けて、飛来している小鳥を共有できる様にもなっているのに感心しました。
 そこを離れて、更に、進むと「野口英世博士」記念公園が隣接しており、ホールの中に入ると博士の生家や当時を偲ぶ写真等が展示されていましたので、これについては、別途、投稿いたします。

(長浜公園)

(公園見取図)

(スポーツセンター内の一部で、同様の広さのフロアァー3面)

(遊具)

(サッカー練習に興ずる人々 後方の山は旧海岸)

(野球場)

(テニス場)

(テニスに興ずる人々)

(芝生に包まれた築山)

(花壇)

(園内の通路)

(旧海岸線からの泉)

(園を包む外周路)

(園の片隅でひっそりと咲く水仙)

(汽水池入口)

(野鳥観察小屋から汽水池を望む)

(汽水池を包む外周路、手前は枝垂れ桜、奥は、ヨコハマヒザクラ)

(汽水池外周路)

(巣箱が取り付けられていた)

(汽水池の中之島)

(汽水池 水の出入口)

(小鳥観察視認一覧)

(飛来する小鳥達の写真一覧)

(空を飛ぶ様子を図解)