わが国のプロカメラマンの始めは、横浜では下岡蓮杖、長崎では上野彦馬としている。ぞれぞれ別の道を歩んで文久2年(1862)にプロカメラマンとなったのであった。
下岡蓮杖は文政6年(1823)2月12日伊豆下田中原町の浦賀船改御番所判問屋桜田惣右衛門の三男に生まれ、久之助と名づけられた。
小さい頃から絵が好きで、狩野董川法眼の弟子となって董圓と名乗って絵を勉強した。ある日、島津家下屋敷でオランダ渡りの銀板写真を見て写真に興味を持った。そこで師匠の許しを得て、蓑を背負って杖をつき、長崎へと写真の勉強に行こうと志した。
長崎へ行くにも路銀が少なく時間がかかる旅となった。相模の津久井附近に差掛った時、ペリーが日本へ来航したことを知り、長崎へ行くのを取りやめて浦賀へと向かった。その後、日本が開国した安政3年(1856)8月下田に着任したアメリカ総領事ハリスの給仕として、玉泉寺に住み込みハリスの通訳ヒュースケンから、念願の写真術を教えてもらった。
ヒュースケンは、三脚の代わりに木の枝3本立て、紙の箱をカメラに見立て説明し、カメラの中に薬品を塗ったガラス板を入れて撮影し、暗室でそのガラス板を現像すると象が出てくると教えた。
蓮杖はこれを聞いて大喜びして、早速、暗箱に眼鏡のレンズをはめた竹の筒のカメラを作り撮影してみたがうまくいかず、安政6年(1859)6月蓮杖はハリスのもとを去り、万延元年(1860)に横浜へ出てきた。
横浜では、外国人居留地73番(現在 中区山下町73番)のアメリカ人雑貨商ショイヤー夫人から洋画の描き方を学んだ。この雑貨店に、たまたま、アメリカの写真家ウンシンが訪ねてきた。蓮杖は、これ幸いとウイシンに写真の指導を頼みこんでみたが断られてしまったが、ウイシンの助手ラウダー女史から教えてもらった。
ウイシンの持っていたカメラや薬品を自分が描いた日本画と交換し、ショイヤーの家の一室を借りて、写真研究を進め、後に、戸部(現在 西区)の四月利兵衛の家を借りて、更に、研究を続けた。 しかし、日本家屋は暗くなる部屋がないから、暗室を作ることを考えたが、金がないので、便所の窓を目張りして暗室に代用することにしたが、隣家の人々から便所が使えなく困ると苦情があり、取りやめて、今度は、屋台店を改造して暗室することなど苦心を重ねたが、思うような成果は上がらなかった。借金も嵩み2百数十両、もはやこれまでと思った最期の一枚に象が浮かびだしたのであった。
蓮杖は喜んで、女房の衣類を質に入れて4両のお金をこしらえ、野毛(現在中区)に小さな写真店を開業した。ところが、その頃、写真を撮ると生命が縮むという迷信を信じている人が多かったので、写真の撮影に来る者は、殆どいなかったという。
文久2年(1862)7月に、店を野毛から弁天通り5丁目(現在 中区弁天通1丁目の日本銀行横浜支店当たり)に移転しても当座の運転資金を捻出するため、得意の絵筆をふるって板に油絵を描いて外国人に売り、その金で写場を造ったという。
そのころ、浪士の間で写真を撮影しておこうという者が増え、また、外国人も撮影に訪れて店は繁盛し、たちまち借金を返すことが出来たとういう。
その後、一旦店を閉めて、慶応元年(1865)下田に帰ったが、明治元年(1868)9月再度横浜に戻り、馬車道太田町角駒形橋東詰めに、写真館を開設した。その場所が、現在の中区太田町4丁目55番地横浜馬車道ビル所在地と推測されている。この写真館を写した写真が残されている。
それを見ると、富士山を型取った看板に「PHOTOGRAPHER RENJIO‘S」と書かれ、右側に「相模桜」左側に「全楽堂」の字額を配置し、不二家の暖簾がさげられている。
この写真館を記念して昭和62年(1987)6月1日馬車道に「日本写真の開祖 写真師・下岡蓮杖顕彰碑」が建立実行委員会によって寄贈された。と記述されていましたので、投稿いたします。
(馬車道通り見取り図)
(写真の碑)
(馬のミニ像)
(馬車道通り)