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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

写真の碑について

2015-10-31 09:33:53 | 日記

 わが国のプロカメラマンの始めは、横浜では下岡蓮杖、長崎では上野彦馬としている。ぞれぞれ別の道を歩んで文久2年(1862)にプロカメラマンとなったのであった。
 下岡蓮杖は文政6年(1823)2月12日伊豆下田中原町の浦賀船改御番所判問屋桜田惣右衛門の三男に生まれ、久之助と名づけられた。
 小さい頃から絵が好きで、狩野董川法眼の弟子となって董圓と名乗って絵を勉強した。ある日、島津家下屋敷でオランダ渡りの銀板写真を見て写真に興味を持った。そこで師匠の許しを得て、蓑を背負って杖をつき、長崎へと写真の勉強に行こうと志した。
 長崎へ行くにも路銀が少なく時間がかかる旅となった。相模の津久井附近に差掛った時、ペリーが日本へ来航したことを知り、長崎へ行くのを取りやめて浦賀へと向かった。その後、日本が開国した安政3年(1856)8月下田に着任したアメリカ総領事ハリスの給仕として、玉泉寺に住み込みハリスの通訳ヒュースケンから、念願の写真術を教えてもらった。
 ヒュースケンは、三脚の代わりに木の枝3本立て、紙の箱をカメラに見立て説明し、カメラの中に薬品を塗ったガラス板を入れて撮影し、暗室でそのガラス板を現像すると象が出てくると教えた。
 蓮杖はこれを聞いて大喜びして、早速、暗箱に眼鏡のレンズをはめた竹の筒のカメラを作り撮影してみたがうまくいかず、安政6年(1859)6月蓮杖はハリスのもとを去り、万延元年(1860)に横浜へ出てきた。
 横浜では、外国人居留地73番(現在 中区山下町73番)のアメリカ人雑貨商ショイヤー夫人から洋画の描き方を学んだ。この雑貨店に、たまたま、アメリカの写真家ウンシンが訪ねてきた。蓮杖は、これ幸いとウイシンに写真の指導を頼みこんでみたが断られてしまったが、ウイシンの助手ラウダー女史から教えてもらった。
 ウイシンの持っていたカメラや薬品を自分が描いた日本画と交換し、ショイヤーの家の一室を借りて、写真研究を進め、後に、戸部(現在 西区)の四月利兵衛の家を借りて、更に、研究を続けた。 しかし、日本家屋は暗くなる部屋がないから、暗室を作ることを考えたが、金がないので、便所の窓を目張りして暗室に代用することにしたが、隣家の人々から便所が使えなく困ると苦情があり、取りやめて、今度は、屋台店を改造して暗室することなど苦心を重ねたが、思うような成果は上がらなかった。借金も嵩み2百数十両、もはやこれまでと思った最期の一枚に象が浮かびだしたのであった。
 蓮杖は喜んで、女房の衣類を質に入れて4両のお金をこしらえ、野毛(現在中区)に小さな写真店を開業した。ところが、その頃、写真を撮ると生命が縮むという迷信を信じている人が多かったので、写真の撮影に来る者は、殆どいなかったという。
 文久2年(1862)7月に、店を野毛から弁天通り5丁目(現在 中区弁天通1丁目の日本銀行横浜支店当たり)に移転しても当座の運転資金を捻出するため、得意の絵筆をふるって板に油絵を描いて外国人に売り、その金で写場を造ったという。
 そのころ、浪士の間で写真を撮影しておこうという者が増え、また、外国人も撮影に訪れて店は繁盛し、たちまち借金を返すことが出来たとういう。
 その後、一旦店を閉めて、慶応元年(1865)下田に帰ったが、明治元年(1868)9月再度横浜に戻り、馬車道太田町角駒形橋東詰めに、写真館を開設した。その場所が、現在の中区太田町4丁目55番地横浜馬車道ビル所在地と推測されている。この写真館を写した写真が残されている。
 それを見ると、富士山を型取った看板に「PHOTOGRAPHER RENJIO‘S」と書かれ、右側に「相模桜」左側に「全楽堂」の字額を配置し、不二家の暖簾がさげられている。
 この写真館を記念して昭和62年(1987)6月1日馬車道に「日本写真の開祖 写真師・下岡蓮杖顕彰碑」が建立実行委員会によって寄贈された。と記述されていましたので、投稿いたします。

(馬車道通り見取り図)

(写真の碑)

(馬のミニ像)

(馬車道通り)

鉄の橋の碑について

2015-10-24 09:06:33 | 日記
 馬車道の入口に鉄の橋の碑があったので、「マイウェーイ」財団法人はまぎん産業文化振興財団、発行 小川是、編集清水照雄を見ると次のようなことが書かれています。
 明治2年(1869)11月に架け替えられた関内入口の吉田橋は、横浜初の鉄の橋。工事を担当した英国人技師R・Hブラントは、「日本最初の鉄橋」と記していますが、実際は、日本最初のものは長崎に架設された「くろがねばし」であり、吉田橋は2番目の鉄橋。しかし、トラスト構造(三角形を基本にした部材で構成される構造)の鉄橋としては、日本初である。
 現在、関内駅前に当時の錦絵をもとに復元された吉田橋が架けられていますが、橋の下には水はなく、高速道路が走っています。
 一方、横浜もののはじめ考 編集発行 横浜開港資料館によると、明治2年(1869)11月灯台療お雇い英国人技師R・Hブラントの設計により架け替えられた吉田橋が、横浜最初の鉄橋であり、「かねのはし」として市民に親しまれ、横浜絵に数多く描かれるほどの名所であったことは周知のことである。
 ブラント自身「日本最初の鉄橋の架け替え」としているが、正確には、前年8月に長崎に鉄橋「くろがねばし」と称された橋がかけられているので、吉田橋は日本で2番目の鉄橋ということになる。強いて「日本最初」とするならば「トラスト」(三角形を基本単位として構成される骨組み)構造」形式の鉄橋と付記する必要がある。ちなみに、長崎のくろがね橋は、桁橋であり、日本で3番目の鉄橋は大阪の高麗橋である。
 吉田橋の橋長及び橋幅について、ブラントの手記は「橋脚間は長さ約100フィート(約30.5メーイトル)橋幅25フィート(約7.6メートル)あり、「市史橋」は、幅5間、長さ13間(約9メーイトルと約23.4メートル)としているが、1870.71年版英領事報告の記す「橋台間70フィート(約21メートル)橋幅20フィート(約6メートル)が実際に近い。
 橋長を橋台間にとるか、トラスト桁の長さにとるかによって、また橋幅を道の幅員とするかトラスト桁間にとるかによって、多少の違いがでてくるが、ブラント手記の長さ100フィート「市史橋」の幅5間は、明らかに誤記か誤植である。各府県の報告に基づくものと思われる。
明治37年全国道路鉄橋調査によれば、吉田橋の橋長は「13間7分」(約24.9メートル)橋幅は「3間2分」(約5.8メートル)である。また、1908年吉田橋を鉄筋コンクリート橋に架け替えた石橋絢彦は、「長79尺、幅20尺」(22.9メ-トル、6.1メートル)としている。
 以上を総合すると、橋長約24メートル、橋台間21メートル橋幅約6メートルとするのが妥当なところであろう。
 1871年版の3月25日付け英領事報告の吉田橋の架設を次のように報じている。
 この鉄橋は開橋して14ケ月となる。弁天(灯台療をさす)で設計され、1人のヨーロッパ人監督の下で全て日本人の労働力によって架設され、荷重試験は満足のゆくものであり、欠陥の微候は何らみられない。泥土に30フィートの深さまで打ちこまれた木製杭の上に築かれた橋台間70フィートある。ふたつの鉄製ラチス(綾状)桁の間には、木製の道路敷が支持されており、その幅は20フィートである。
 一方、1871年2月1日号「ファー・イースト」誌に掲載された吉田橋の写真がリベットまで鮮明に確認できることから、「横浜もののはじめ考」(横浜もののはじめ考 編集発行 横浜開港資料館)に、形状を細かく掲載されていた。
 ラチス桁は、プレート(平板)材とアングル(L型)材とで構成されており、バッテン形の格間は26個ある。中央8格間の斜材プレート、その左右5格間の斜材はアングル、端部4格間の斜材はアングル材2本を山形に組あわせたものが使用されている。
 上弦材と下弦材はおそらくプレートとアングルとによりT字型に組立てられているように見受けられる。横桁は、木製の集成材と思われ、下弦材に吊るされているようである。また、横桁の端部からは上弦材に向って、ラチス桁の振れ止めに相当する部材が取り付けられている。
 この横桁と振れ止め材は、なぜか左右対称に配置されておらず、腑におちない点であるが、その理由はよくわからない。
 床組は、英領事報告にあるように木製であるが、その詳細も不明である。なお、ラチス桁の高さ、上弦材、下弦材の幅を記した資料も見当たらない。以上の知見をもとに復元を図ったものが、横浜開港資料館第二展示室に展示されている吉田橋模型である。と掲載されていましたので、併せて投稿いたします。

(鉄の橋の碑)

(吉田橋関門跡)

(同じ)

(馬車道見取り図)

(当時の鉄橋の見取り図)

(当時を偲ぶ絵)

(吉田関門についての告知版)

(川跡は暗渠とし、現在高速道路)

近代街路樹の碑について

2015-10-16 16:24:15 | 日記
 馬車道に近代街路樹の碑があったので、「横浜ことはじめ」著者 半澤正時により調べたところ、次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 中区丸井横浜店馬車道本館(港町5丁目71番地)の前に「近代街路樹発祥の地」の記念碑が昭和59年(1984)6月2日開港120周年を記念して建立されていた。
 碑の裏面を見ると「街路樹は、近代に入ってから、人口過密な都市の景観的魅力を向上させるために発達したものであり、参道並木、街道並木などいわゆる地方並木とは区別されている。
 日本における街路樹は、明治以降、欧米都市の影響を受け、樹種の選択、植栽手入法の改良などによって、著しく進歩、普及した。
 慶応3年(1867)開港場横浜の馬車道では、各々の商店が競って柳と松を連植した。これが、日本での近代的な街路樹の先駆けとなった。明治5年(1872)になって、馬車道に日本最初のガス灯が点灯されると、この街路樹はさらに美しく映え、夜の涼を楽しむ人々で賑わった。
 馬車道のほか、本町通り、海岸通りにも松が移植され、「当時の俗謡に「私ゃ横浜本町通外に木(気)はない、松(待つ)ばかり」と唄われている。
 都市計画に基づいて組織的に植樹したのは、大正8年(1919)4月28日の千歳町の大火事で付近一帯が焼け野原となったため、翌大正9年(1920)に長者町車橋から千秋橋の間、不老町通の扇橋から港橋の間、松影町通りの亀ノ橋から港橋までの間にプラタナスを植栽したのが始めである。と記述がありました。

(近代街路樹の碑)

(近代街路樹の碑の裏面)

(牛馬の水飲み場)

(馬のミニ象)

(現在の馬車道)

ガス灯の碑について

2015-10-10 16:24:41 | 日記
 馬車道にガス灯の碑があったので、「マイウェーイ」財団法人はまぎん産業文化振興財団、発行 小川是、編集清水照雄を見ると次のようなことが書かれていたので、投稿いたします。
 明治3年、フランス人技師プレグランの指導のもとに高島嘉右衛門のガス会社が伊勢山下にガス工場を建設。明治5年9月29日〈陽歴10月31日〉大江橋から馬車道、本通りにかけて、日本初のガス灯が点灯され、居留地にガス灯が点されたのは、日本人街より2年ほど遅れた7年12月のことです。電灯は、明治11年3月25日、工部大学で英国人教師エアトンの指導によりアーク灯が点火されたのが最初で、この日が電気デーに。その後、明治22年に横浜共同電灯会社が設立され、初代社長に高島嘉衛門が就任。翌年には火力発電所の建設や電柱の設置、電線の架設工事が進められ、横浜の夜を明るく照らし出した。
 一方、「明治事物起源事典」 著者 湯本豪一 発行 渡辺周一によると、次のようなことが述べられている。
 文化の代表ともいえるガス灯の登場に関して、一つのエピソードが伝えられている。カス灯が初めて点ったのは、明治5年(1872)9月29日、場所は横浜である。そして、そのガス灯の建設は、日本人の手で行われたが、そこに至るまでには外国との摩擦と、1人の日本人のガス灯建設に対する執念があったのです。
 そもそもガス灯の建設を考えたのは居留地に住む外国人達だった。居留地を明るくしょうと、明治4年12月までにガス灯を建てる計画のもと、イギリス人W・Hスミスを中心に準備を進めていた。一方、明治3年8月には、ドイツのシュルツ・ライス商会もガス灯建設の申請を神奈川県庁に出した。神奈川県は、スミスの申請を却下したが、外国人達のガス灯建設申請に対抗して、「日本社中」というガス灯建設のための会社を創設する動きが日本人の間にでてきた。その中心となったのが、高島嘉衛門である。
 高島はひとたび外国人にガスに関する権利を与えると、永久に権利が外国資本に握られてしまうことを憂えて、同志を集めて日本人によるガス灯建設を推進していった。高島らの動きにたいしシュルツ・ライス商会も外務省に働きかけなど強硬な姿勢を崩さかった。遂には、ガス灯設置応募者数の多い方が許可を受けることとなり、「日本社中」が勝利をおさめた。
 かくて、高島らは明治3年12月に正式に許可を受けて、フランス人Hペルグランの技術協力を得て横浜の夜空にガス灯をともすことに成功している。
 明治7年12月には、東京でも銀座、日本橋にガス灯が点り、やがて全国に普及して行き、ガス灯点灯作業夫が点灯する新しい職業もつくって行った。また、花瓦斯とよばれるような装飾や広告のためのガス灯も作られているが、これはネオンサインの元祖のようなものであった。
 明治11年3月25日、工部大学校で英国人教師エアトンの指導によってアーク灯が点火され、これが、日本での最初の電灯点火とされ、この日が電気デーになっている。横浜でも田沼太右衛門らが発起人となり、横浜共同電灯会社の設立が計画され、明治22年7月に出願、11月に関内と居留地を営業区域として許可されて、役員選挙の結果、初代社長には、高島右衛門が就任した、翌年、常磐町1丁目に火力発電所を建設、電柱の設置や架線などの工事が進められ、9月に完成して試験送電を開始して、開業したのは、10月1日からであった。
 そして、12月には、関外を営業区域として設立許可を得乍らまだ事業に着手していなかった横浜電灯会社の営業権を吸収している。明治26年から横浜共同電灯株式会社、明治42年には横浜電気株式会社と社名を変え、大正10年には、東京電灯株式会社に合併された。と記載されていましたので、併せて投稿いたします。

(山下通りにあるガス灯のガス灯の生い立ち)

(当時を思わせる風景)

(山下公園入口にあるガス灯)

(同じ)

(馬車道にあるガス灯の碑)

(標示版)

(馬車道のガス灯)

日本洋裁業発祥顕彰碑について

2015-10-03 09:25:09 | 日記
 文久3年(1863)に英国人ピアソン夫人がこの地に近い居留地97番地にドレス・メーカーを開店した。これが、横浜の洋裁業の始まりと云われている。とあったので、「日本百科全書」編集著者 秋葉隆によれば、次のように記述されていたので、投稿いたします。
 日本に西洋の衣服が入ってきたのは16世紀で、戦国時代の武将など特権階級にあった者が、ポルトガル人やスペイン人の南蛮服をまた、江戸の鎖国時代には長崎の出島に在留していたオランダ人の紅毛服を愛用した。
 安政5年(1858)には、横浜商会内に軍服や既製服を輸入する商会がつくられた。その2年後の万延1年(1860)日米修好通商条約批准交換使節団に随行した通詞、「中浜万次郎」が、ウイルソン会社製の手回しミシンを咸臨丸で持ち帰った。これが我国におけるミシンの第1号であろう。
 翌年の文久2年(1862)に宣教師夫人「ブラウン」より、「沢野辰五郎」らがミシンの使用方法や婦人服の裁縫技術を習っている。同年、服装の簡素化を図る幕府の服制改革が行われ、慶応2年(1866)には、調練用に着物式軍装の戎服(じゅうふく)(筒袖陣羽織、陣(じん)股式(こしき))が採用された。
 これより前の元治1年(1864)に「沼間守一」は、イギリス軍州征伐の兵が着用した軍服を作っている。また、「中兵万次郎」の持ち帰ったミシンを買い取った東京・芝の洋服屋、「植村久五郎」は軍服の調製にあたった。
 慶応3年(1867)ドイツのロスモンド・ウィルマン商会やラダージ・オエルケ商会と云う注文仕立てのテーラーが、既製服の輸入を始めた。一方、ドレスメーカーのミセス・ピールソンは衣料商と帽子の製造を始めた。翌年、幕府の手で開成所が開設される。この開設所で、ミシンの技術の教授と仕立物の注文を受ける旨の「西洋新式縫物器機伝習並びに仕立て物之事」と題する広告記事が「中外新聞」1号に掲載され、ミシンの発達と裁縫界に一大転機がもたらされた。
 明治元年(1868)西洋人によりテーラーやドレスメーカーが開かれた。これらは主として、前者は、香港から進出してきたイギリス人や上海に支店を持つラダージ・オエルケ商会系のドイツ人、後者は、滞日西洋夫人の経営の店が多い。横浜のほか、長崎や神戸にも西洋人が開業していたが、渡来した中国人の洋裁技術者の開業した店の数は、西洋人のそれをしのいだ。明治4年(1871)に慶応義塾内に仕立て局が設けられ、後に丸善洋服部に変わった。
 明治3年(1870)に軍服が制定され、陸海軍服が洋式になったほか、官公吏、警察官、郵便配達夫、鉄道員の制服は、すべて洋式になり、明治5年(1872)太政官布告が発せられ、男子の礼服は、衣冠を祭服とするほかは洋装化することとなった。
 明治6年(1873)我国初めての洋服裁縫書「改服裁縫初心伝」(勝山力松著)発行されたが、これには礼服(燕尾服)平服(フロックコート)達(だる)摩服(まふく)(詰め襟)背広の裁ち方が詳しく述べられている。明治11年(1878)に原田次郎訳「西洋裁縫教授書」が出版され、採寸、製図、グラージュ尺(比例尺)とインチ尺の図引法、補正など解説が載っていた。
 明治18年(1885)皇后宮思召書により洋装が奨励された。翌年に宮廷婦人服が洋装化し、一時的な洋装模倣時代になったが、極端な西欧化への移行に対する非難によって長くは続かなかった。しかし、明治21年(1888)には、大家松之助編訳、「男女西洋服裁縫独案内」なる本が出ており、このころ、最初の服装雑誌も刊行されている。
 その後、日清、日露戦争となり、大量の軍服の制作の必要に迫られ、洋裁技術の進歩とミシンの普及を促し、明治後期には、来日西洋人の増加、日本人の洋服着用の流行から洋服業も発展し、西洋人、中国人、日本人の洋服屋は横浜に集中していた。
 明治39年(1906)にシンガー裁縫院が設立されると次第に洋裁学校が設立されるようになって、女学校の教科書にも洋裁が取り上げられ、大正中期の生活改善運動や大正デモクラシー思想の影響で、洋服は女子学生の制服、運動着、職業、職業婦人の服、子供服、肌着にまで及んで、大正11年(1923)の関東大震災、昭和7年(1932)の白木屋の大火などを契機にして洋装化が普及した。
 一方、すでに洋装のモガ、モボが出現しており、学校の制服やバスガールの制服などにも洋服が採用され、更に、女性の社会進出に伴う職業婦人の増加が洋装化に拍車をかけた。
 関東大震災後は、横浜の西洋人の洋服屋は帰国し、中国人、日本人の洋服屋は、東京や神戸へ分散して行ったが、その後、東京が洋服業の中心となった。
 すでに、大正10年(1922)に文化裁縫学院(1936年文化服装学院と改称)が、大正14年(1926)には、ドレスメーカー女学院が設立されていた。と記述されていた。

(日本洋裁業発祥顕彰碑に面する通り)

(日本洋裁業発祥顕彰碑)
 
(あん板)

(ビルの一角を陣取る碑)