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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

芥川・直木賞宣言について

2015-06-27 09:01:45 | 日記
 文藝春秋60年記念芥川・直木賞展 昭和58年2月1日編集・発行文藝春秋によると明治21年(1888)から昭和23年(1948)本名菊池寛(ひろし)四国高松の士族の家に生まれ、幼くして秀才の名をほしいままにしたが、貧しいために東京高等師範学校に進む。しかし、校風になじめず中退し、第一高等学校に入学し、ここで芥川龍之介、久米正雄などという生涯の友と出会うが、持ち前の義侠心のためある学友の罪をかぶり、卒業直前に放学されるが、援助する人がいて、次に入学したのが京都大学英文科に入り、大正5年ようやく卒業をした。
 京大時代に芥川らとともに第三次、第四次(新思潮)に参加。東京にいる芥川が、夏目漱石の知遇を得て、若くして華々しく文壇にデビューしたのにくらべ、菊池寛は、屋上の狂人、父帰るなど傑作を発表するも文壇的には不遇であった。
 しかし、大正7年に至っては「無名作家の日記」「恩讐の彼方に」「忠直卿行状記」など代表作を矢継ぎ早に発表し、流行作家としての地位を確立し、更に、毎日新聞に発表した「真珠夫人」小説でも成功を収め大センセーションをまきおし、単なる流行作家の地位から、大正文化を代表する社会的名士となった。
 菊池寛の次に目指すものは、自分の雑誌を持つということで、大正12年に文藝春秋創刊した。それは、「頼まれてものを云うのではなく、自分で考えていることを読者や編集者に気兼く、自由な心持で云って見たかったからであった。」とあった。菊池寛の経営の才覚も恵まれており、その後の文藝春秋の発展は目覚ましいものがあった。
 こうした力をバックに文学者の社会的地位向上にも貢献し、「文壇の大御所」などと云われるようになった。
昭和10年文藝春秋1月号に、次のように芥川・直木賞宣言なるものを発表した。
芥川・直木賞宣言
一 故芥川龍之介、直木三十五両氏の名を記念する為茲に「芥川龍之介賞」並びに「直木三十五賞」を制定し、文運隆盛の一助に資することとした。
二 右に要する賞金及び費用は文藝春秋社が之を負担する。
                                    芥川・直木賞委員会

  芥川龍之介賞規定
一 芥川龍之介賞は、個人賞にして広く各新聞雑誌(同人雑誌を含む)に発表されたる無名若しくは新進作家の創作中最も優秀なものに呈す。
二 芥川龍之介賞は、賞牌(時計)を以ってし、別に副賞として金五百円也を贈呈す。
三 芥川龍之介受賞者の審査は「芥川賞委員」之を行ふ。委員は故人と交誼あり且つ本社と関係深き左の人々を以って組織する。
菊池寛、久米正雄、山本有三、佐藤春夫、谷崎潤一郎、室生犀星、小島政二郎、佐々木茂索、瀧井幸作、
横光利一、川端康成(順不動)
四 芥川龍之介賞は、六ケ月毎に審査を行ふ。適当なるものなき時は授賞を行はず。
五 芥川龍之介賞受賞者には「文藝春秋」の誌面を提供し創作一篇を発表せしむ。

直木三十五賞規定
一 直木三十五賞は、個人賞にして広く各新聞雑誌(同人雑誌を含む)に発表されたる無名若しくは新進作家の大衆文藝中最も優秀なものに呈す。
二 直木三十五賞は、賞牌(時計)を以ってし、別に副賞として金五百円也を贈呈す。
三 直木三十五受賞者の審査は「直木賞委員」之を行ふ。委員は故人と交誼あり且つ本社と関  係深き左の人々を以って組織する。
  菊池寛、久米正雄、古川英治、大佛次郎、小島政二郎、三上於菟吉、白井喬二、佐々木茂  索、(順不動)
四 直木三十五賞は、六ケ月毎に審査を行ふ。適当なるものなき時は授賞を行はず。
五 直木三十五賞受賞者には「オール読物」の誌面を提供し大衆文藝一篇を発表せしむ。
  一 第一期受賞資格を昭和10年1月号より6月号迄の各新聞雑誌に発表の作品と定む。
  一 審査結果発表は「文藝春秋」十月号及び「話」「オール読物」の各十一月号誌上を    以ってす。
  一 受賞者には、各賞授賞興式を行ひ、又委員会及び委員より、広く各新聞雑誌へ引続き   作品紹介の労をとる。
 この様にして、両賞が誕生してかくして半年後の昭和10年9月号に第一回の受賞者が発表され、芥川賞は石川達三の「蒼民」直木賞には、川口松太郎の「風流深課唄」「鶴八鶴次郎」その他近作に受賞が決まった。
 この賞の発表に当たっては、選考委員会を4回に亘る審査結果発表を8月10日柳橋・柳光亭で午後4時から開催して、午後7時に各新聞社へ決定を発表した。しかし、当時の新聞社側は、一出版の企画としか受け取らず、申し訳のような記事しか掲載しなかったことは、10月号「話の屑籠」の「芥川賞、直木賞の発表には、新聞社各位を招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いてくれない新聞社があったのには、憤慨した。
 一方、二科の初入選などは、写真付きで発表して幾つもある展覧会の幾人もある初入選者と、たった1人しかない芥川賞、直木賞とどちらが、社会的に云っても、新聞価値があるか。あまり、没分(わから)暁(ずや)だと思った。と云う一文によってもわかる。
 現在は、選考会場に詰めかけた新聞記者にたいして、代表委員が選考経過を説明し、別のホテルのロビーでは駆け付けた受賞者の記者会見があり、テレビ、ラジオで速報され、翌日の新聞にも詳細に報道される。とあった。
 さて、前述の芥川賞は創作文藝、直木賞は大衆文藝となっているが、直木三十五全集の別巻平成3年7月6日発行者宗野信彦、直木三十五が大衆文藝作法として、1章では「大衆文藝の定義」2章では「大衆文藝の意義」3章では「大衆文藝の歴史」に分けて論理付けている。

(直木三十五宅址への坂道)

(直木三十五の文學碑)

(直木三十五を祀る長昌寺への路)

(直木三十五を祀る長昌寺、祥月命日「2月24日には」南国忌の会が開かれる)


直木三十五について

2015-06-20 11:22:08 | 日記
 今日は、直木三十五の宅址にある文学碑などを見に行ってきました。場所は、京浜急行富岡駅で下車して改札口出た左側の壁に、直木三十五と富岡と題して、案内版(慶珊寺・長昌寺等)があります。
 冨岡駅を後に、京急のスーパーの前の小路にはいり、国道16号線に出て横浜方面に500mほど歩くと右手に国道375線方面の道路標識がある。ここを右に入り、更に、400m行くと歩道橋がありますが、この手前を右手に曲がるとほどなく慶珊寺があり、この寺の敷地境界に、直木三十五宅址と云う1.3m位の石柱に表示があります。
 この緩やかな坂道を100mほど上って行くと、右手に直木三十五文学碑(「芸術は短く 貧乏は長し」と刻む)がありました。なお,碑文の筆跡は、自身の筆跡から取って刻まれているそうです。
 直木三十五は、この地に昭和7年から8年にかけて住居を新築され同8年に移住されてきて、翌年の2月に永眠されたと「武州金沢文学資料」に記述されていました。
 直木三十五の菩提寺は、この慶珊寺とは反対に歩道橋手前を左に入って行くと芋観音で有名な長昌寺があり、この寺の敷地にお墓が祀られており、毎年2月24日の祥月命日に近い最後の日曜日に「南国忌の会」があり相当数の会員が集い語らうそうでありす。
 さて、直木三十五と云う大衆文学の流行作家は、武州金沢文学資料によれば、本名は植村宗一、明治24年大阪に生まれ、大正11年に植村の植を分割して、「直木」その年の年齢をとって「三十一」と称した。その後三十五歳の時、直木三十五と改め没するまでこの筆名を通した。
 一方,直木三十五全集別巻の発行者「宗野信彦」には、本名植村宗一、父 植村惣、母 静の長男として、大阪市南内安堂寺町(現在の大阪市中央区)に明治24年に生まれとあり、筆名は前述同様に、本名植村の植えを2分して、直木とした。この時の年齢は、31歳なりし故「直木三十一」と称した。
 この名にて書きたるもの、文檀時評一編のみ、翌年、直木三十二。この年月評を二編書く、関東大震災にて、大阪に戻り、プラトン社に入り「苦楽」の編輯(へんしゅう)に当たる。三十三に成長して三誌に大衆物を書く。三十四を抜、三十五となり、故マキノ省三と共に、キネマ界に入り「総合映画芸術家協会」を組織し、沢田正二郎、市川猿之助等の映画をとり、儲けたり、損をしたりし・・・後、月形龍之助とマキノ智子との恋愛事件に関係し、マキノと袂を分ける。と記述があり、キネマ界の愚劣さに愛想をつかし、上京して、文学に専心することになる。
 直木三十五の習癖=無帽、無マント、和服のみ。机によりては書けず、臥て書く習慣あり、夜半12時頃より、朝8 9時まで書き、読み、午後2 3時頃起床する日多し。
 速筆にて=1時間5枚から10枚を書き得、最速レコード、16枚(「踊子行状記」の最後24は、この速度にて書く)
 酒は嗜(たしな)まず、野菜を好む。煙草は、マイミクスチュアかスリーキャッスルのマグナムに限る。ただし、金がないとバットにても結構。飛行機好きにて、旅客中、最多回数を搭乗し、レコード保持者。
 パノール号ロードスターを自家用自動車として所有する。中古1500円なりし品にて、菊池寛氏と共有の物なり。同氏と文藝春秋社と三者にて使用し、毎月の経費を三分割してそれぞれが持分を支払うことになるも、円タクより安し。と記述がありました。
 趣味=囲碁二段に2 3目 将棋八段に2枚落。カッフェ、待合、旅行、競馬、嫌いなもの無し。資産=自動車半台分。刀剣少々と記述されていた。
(註)として、昭和6年3月平凡社発行の現代大衆文学全集続8巻の巻末に載せたもので、唯一の著者自筆の小自伝である。
 昭和6年であるから、実際の年は40歳で、最も油の乗りきっていた時代、爾後数年、万人周知の驚歎󠄀すべき大活躍を続け、昭和9年2月24日午後11時4分、所謂「優れた剣豪の悲壮な斬死にも似たる直木三十五の死!」と万天下から哀悼されつつ、帝大呉内科13号室で終焉(しゅうえん)をとげる。文学碑にあるとおり、お金には苦労された模様であります。
 次回は、大衆文学についての定義などとともに、直木賞・芥川賞の経緯について投稿することといたします。


(京浜急行富岡駅の直木址碑の案内版)

(国道16号への小路)

国道357号への入口)

(正面舗道橋)


(直木邸址への案内指導標)

(直木邸址への坂道)

(直木三十五の文学碑)

(直木三十五の邸宅見取図)

(自然に委ねられた跡地)

(直木三十五の邸址の入口にある慶珊寺)

小野光景について

2015-06-13 23:06:58 | 日記
 今日は、小野光景氏の碑がある横浜市民公園に行って来ましたので、その様子を投稿いたします。
 この横浜市民公園は、幕末の激動がようやく鎮まった安政6年(1859)横浜開港の創始者といわれた横浜町名手小野兵右衛門光賢の長男小野光景の広大な別荘地で当時小野公園と呼ばれていた。豪華な洋式別邸は外国使節団等招致の場とされ、開港にかかわる歴史的重要な場所であった。
 明治5年(1872)光景は父光賢の職を継ぎ、次いで明治13年(1880)わが横浜商工会議所の創設を始め、横浜学校の始め壮行、如春の2学舎の開設、横浜正金銀行開設、横浜商法学校設立、新横浜埠頭の建設、八王子横浜間鉄道の新設等々揚げて枚挙にいとまなく主唱者として貢献し、更に、明治16年(1883)には自ら貿易業小野商店を開業するなど、生涯の前半を政治に、後半を実業に捧げて燃えつくし、横浜の地鶴見の総持寺の一隅に、父光賢の墓とならんで葬られている。
 このように、この地は横浜発展の礎を築いた小野光景を偲ぶことのできる場所であり、ここに一碑を建て光景の実績を永く後世に伝えることを願ってやまないものである。平成15年11月横浜商工会議所会頭高梨昌芳と碑に刻まれてあった。
 一方、ネットには、小野 光景(おの みつかげ、弘化2年3月15日(1845年4月21日) - 大正8年(1919年)9月18日)は、近代日本の実業家、政治家 信濃国伊那郡小野村(天領、現長野県上伊那郡辰野町)の名家、小野兵右衛門光賢の子として生まれ、高遠藩藩校進徳館で学ぶ。明治15年(1882年)、横浜商業高校の前身にあたる横浜商法学校を創立。翌16年(1883年)、絹糸輸出商社の小野商店を創業。その後横浜正金銀行(東京銀行の前身)頭取、横浜商工会議所会頭、貴族院議員などを歴任。郷里の小野で小野駅の開設や、私財を投じての学校、図書館、病院等の建設に貢献した。
弘化2年(1845)生まれ
明治11年12月(1878)横浜本町外713カ町戸長
明治12年12月横浜正金銀行創設に参画、取締役就任
明治15年1月 副頭取に就任
明治15年7月 頭取就任
明治16年1月 頭取・取締役辞任
明治16年6月 生糸売り込み問屋を開業
その後横浜商工会議所会頭、蚕糸売込商組合会頭等を歴任

(写真中央が小野光景氏の碑のある公園です。)
 
(小野光景氏の碑)

(小野光景氏の功績)

(小野光景氏邸宅)

(公園に訪れる市民)

(市民公園のある当時の本牧海岸)

(埋立が始まる本牧海岸)

(ベンチで休む市民)

一方・江耆桜美山の句碑について

2015-06-07 09:40:34 | 日記
 今日は、能見台跡地の最終章として、一方・美山の碑について投稿いたします。
 新版「かねぞわの歴史事典」によれば、一方は不詳・・・で、次に、江耆桜美山の句碑でありますが、能見堂(現在能見台森)の石段脇に文化9年(1812)に建てられたのが、最初で、高さ1.5m弱の石碑で。その句は、「百八の鐘の別連(わかれ)や本登ゝ(ほとと)幾(き)す 美山」と刻まれている。
 能見堂に碑を建てたのは、江戸時代後期の俳人で江戸吉原に住んでいた二世美山.句は父の一世美山が金沢を愛で詠んだもので、二世が反古になるのを惜しみ碑に刻んだ。この碑は、野島の永島牡丹園に移されていたが、平成16年(2004)能見堂跡地に戻された。と記述されていた。
 また、横浜の句碑(古往今来)著者中島邦秋によれば、一方の句碑は、国道16号線横須賀街道の「宮の前」信号を斜め南西方向に入った辺りの鹿島邸宅に一方の句碑あった。鹿島邸の左右背後は樹木に囲まれた斜面で、その西斜面に、一方の碑があったが、これは、能見堂が焼失廃墟当時に移設したものであるが、建立不明と記述されている。
 また、江耆桜美山にあっては、明治2年(1869)の能見堂の焼失にともない、野島町の水島家(亀巣句碑)の邸内に移り、再び平成16年(2004)に現在の能見堂跡地に戻ってきた。二世江耆桜美山の俳句で、初代である父の好んだ地に、父を偲んで文化9年(1812)建立したものである。二世江耆桜美山は江戸に住み、雪中菴対門(せっちゅうあん)の人と結んでいる。
 何時の時代にも親を思う孝行子弟がいるのですね。

(二世江耆桜美山が建てた句碑)

(一方の句碑)

(現在句碑が建てられている能見堂跡地)

(それぞれの碑の説明)

(能見堂について)

(能見堂跡地への入口)

(能見堂への路)

(能見堂跡への路)

(能見堂跡への路)

(明治時代の能見堂附近)

(明治時代の能見堂附近)

(明治時代の能見堂附近)

(現在の能見堂跡付近)

(現在の能見堂跡付近)

(能見堂跡地附近からの背景)