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聖福寺についてNO75(西18)

2019-06-23 10:44:50 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 聖福寺は、建長六年(1254年)4月、北条氏が長く栄えること、また北条時頼の子時輔(幼名聖寿丸)と時宗(幼名福寿丸)の無事長命とをねがって建立された寺で、その寺の名は、二人の子の名の一字ずつとってつけたと伝えられている。
 この寺がなくなってしまったのが、いつであるかははっきりしないが、聖福寺が谷の名は今もある。

 {参考}
 聖福寺と正福寺谷
 聖福寺という寺は、正福寺谷という地にあったのであるが、「新編相模国風土記稿」では聖福寺は正福寺にあったのではないとし、「大日本地名辞書」も、これを支持している。
 吾妻鏡には、建長六年(1254年)4月18日の記録として、鶴岡若宮の別当隆弁が大勧進となって、この寺を建立したとある。同じ日に聖福寺の鎮守諸神(十二社)の神殿を上棟したとあり、この地に熊野神社のあったことを伝えているから、おそらくこれと一致するものであろう。
 聖福寺を守護する十二社については、この様に記録に残しながら、時頼の二人の子の息災延命をねがって建てた寺の建物についてはふれてない。これはおそらく神仏混淆による神宮寺として、この聖福寺があったのであろうことを想像させる。
 なお、円覚寺の正続院に残る文書によると、鎌倉攻めのとき、新田義貞が合戦の最初に、ここに陣取ったとあるから、時頼が北条氏の長久をねがい、子息の安穏をねがって建てたこの寺が、八十年の後には、北条氏覆滅の総大将新田義忠が本陣を布いて、鎌倉総攻撃の軍議を評定するところとなったとは、まことに皮肉なめぐりあわせである。

 どうじょう
 この聖福寺跡の裏山に「どうじょう」と呼ぶ地があるが、おそらく、熊野神社、聖福寺の社僧の道場であったと思われる。
 古老の話によれば、五、六十年前までは大きな鐘がうずまっていて、その竜頭につるを巻きつけてよく遊んだ記憶があるという。

 陣鐘山
 聖福寺阯の碑の前に立って海に向かう谷戸道の、左手につづく丘の先の方を陣鐘山という。この山にのぼると、海が眼下にひろがり、極楽寺の谷戸も見おろせるので、新田義貞はここに立って指揮したとも伝えられている。陣鐘をならしたり、陣太鼓をここで打ったろうということで、この名がついているのであろう。
 極楽寺には、その時に使った陣太鼓だという。太鼓の胴だけがのこされているという。

 姥力谷
 今立っている碑の前の谷戸道を、海まで出て江の島の方へあるくと、500メートルも行かぬうちに、右手の山あいに入る谷戸道がある。地元ではここを姥ガ谷(うばがだに)と呼んでいるが、鎌倉攻めのとき、義貞はここへ兵士を隠して目に立たぬようにしたといい、古老は今も「武者かくれ谷」と呼び名を知っているという。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(聖福寺跡の碑)

(聖福寺あとは菜園)

(聖福寺跡は突き当り左であります)「後方は相模湾」

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