「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
此の辺はむかしの須崎郷の中にはいるところである。
元弘三年(1333年)5月新田義貞が鎌倉攻めの折、新田方の武将堀口三郎貞満、大島讃岐守守之らがこの須崎口から攻め立てた。
北条方は、赤橋相模守守時を大将として防ぎ戦ったが、戦闘十数度に及んで北条方はついに敗れ。守時以下90余人が自刃したが、此の所がその古戦場である。
{参考}
須崎と鎌倉街道
八幡宮前から化粧坂までの武蔵大路については、「化粧坂」の碑でふれているので、ここでは、化粧坂まで来る、いわゆる鎌倉街道の「上の道」・「中の道」・「下の道」を図示すると、次のようになる。
新田義貞が大軍を率いて鎌倉めざしてつき進んだのは、この「上の道」である。
この「上の道」が化粧坂口の難所に迫る直前にある須崎は、その位置の重要さを物語っているであろう。
今この碑の立っているそばを、モノレールが通っているが、鎌倉街道「上の道」は、深沢の駅に向かって下り、信号灯の所で、モノレールの下をくぐつて、右手に入る道がそれである。この道を少し入って行くと、左手の国鉄工場の中に、小さな丘があって、その丘の上に「泣塔」という宝篋印塔が立っている。この塔は、鎌倉攻めのとき、ここで大合戦が行われ、その戦死者のための供養塔であると伝えている。(墓には文和5年2月20日の銘があるので、あるいは別の意味をもつ供養塔かもしれない。)「泣塔」「供養塔群」は国鉄工場の正門で許可を得ないと見に入れない。
この泣塔のあたりを陣出と呼んでいるがここから北の方、山崎天神のある丘のあたりにかける一帯を洲崎といっていたようである。現在は、深沢、寺分、町屋といった字がこの中にふくまれている。
宝篋印塔
五輪塔と共に、密教系の石塔で、方形の台上に角柱の塔身をのせ、その上に飾り突起のある屋蓋(笠)を置き、さらにその上に相輪をのせて、これを宝篋印塔といった。
この塔の起こりは、中国の呉越の国王銭弘俶が、自分の延命を祈願して、宝篋印陀羅尼経を納める八万四千の小塔をつくったのにはじまるが、その形をまねて、鎌倉時代にさかんにつくられた墓塔、供養塔である。
須崎の合戦
新田義貞が、一路鎌倉をめざして南下するのを防ぐため、赤橋守時は6万の兵を率いて洲崎に向かった。
化粧坂の峠にて守よりも前に出て新田軍を迎え討とうという計略であったのだろう、この洲崎に陣を備え、合戦のかまえをしていた。
戦いは、5月18日に始まり、1日1夜の間に65度もの切り合いがあったという激戦であったが、そのすさまじい合戦のようすを、太平記によって再現してみよう。
かかりける処に、赤橋相模守(守時)、今朝は洲崎へ向われたりけるが、此の陣の軍剛くして、1日1夜の
其の間に、65度まで切り合いたり。されば数万騎ありつる郎従も、討たれ落ち失する程に、僅かに残る其勢
は、3百騎にそなりにける。
侍大将にて同陣に候いける南条左衛門高直に向かって(守時が)宣いけるは、(中略)万死を出でて一生を得、
百度負けて一戦に利あるは、合戦の習いなり、今この戦いに、敵いささか勝ちに乗るに似たりといえども、
さればとて当家の運今日にきわまりぬとはおぼえず。しかりといえども、盛(守)時に於いては、一門の安否
を見果つるまでもなく、此の陣頭にて腹を切らんと思うなり、其の故は、盛(守)時、足利殿に女性方の縁に
なりぬる間、相模殿(高時)を始め奉り、一家の人々、さこそ心を置き給うらめ。それ勇士の恥ずるところな
り、(中略)此の陣戦い急にして、兵皆疲れたり。我何の面目かあって、堅めたる陣を引いて、しかも嫌疑の
中に、しばらく命を惜しむべきとて、戦い末だ半ぱならざる最中に、帷幕の中に物具脱ぎ捨てて、腹十文字
に切り給いて、北枕にぞ伏し給う。
南条これを見て、大将すでに御自害ある上は、士卒誰がために命を惜しむべき。いでさらば御供申さんと
て、続いて腹を切りければ、同志の侍90余人、上が上に重なり伏して、腹をぞ切ったりける。
さてこそ、18日の晩程に、洲崎一番に破れて、義貞の官軍は、山内まで入りにけり。
この文中で、守時が女性方の縁と言っているのは、足利尊氏の妻は、守時の妹の澄子という者であって、守時と尊氏は、義理の兄弟の仲にあったのである。しかも澄子の産んだ尊氏の子義詮は、幼ながらも新田義貞と共に、鎌倉攻めに加わっているのであった。守時は、北条高時以下の面々と身内のつながりに心臆したと思われるのが、恥ずかしいと死を急いだのであった。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。
(須崎古戦場の碑)
(須崎古戦場の碑は、江の島と大船間のモノレール沿線下の大船から1.5Km)
)
此の辺はむかしの須崎郷の中にはいるところである。
元弘三年(1333年)5月新田義貞が鎌倉攻めの折、新田方の武将堀口三郎貞満、大島讃岐守守之らがこの須崎口から攻め立てた。
北条方は、赤橋相模守守時を大将として防ぎ戦ったが、戦闘十数度に及んで北条方はついに敗れ。守時以下90余人が自刃したが、此の所がその古戦場である。
{参考}
須崎と鎌倉街道
八幡宮前から化粧坂までの武蔵大路については、「化粧坂」の碑でふれているので、ここでは、化粧坂まで来る、いわゆる鎌倉街道の「上の道」・「中の道」・「下の道」を図示すると、次のようになる。
新田義貞が大軍を率いて鎌倉めざしてつき進んだのは、この「上の道」である。
この「上の道」が化粧坂口の難所に迫る直前にある須崎は、その位置の重要さを物語っているであろう。
今この碑の立っているそばを、モノレールが通っているが、鎌倉街道「上の道」は、深沢の駅に向かって下り、信号灯の所で、モノレールの下をくぐつて、右手に入る道がそれである。この道を少し入って行くと、左手の国鉄工場の中に、小さな丘があって、その丘の上に「泣塔」という宝篋印塔が立っている。この塔は、鎌倉攻めのとき、ここで大合戦が行われ、その戦死者のための供養塔であると伝えている。(墓には文和5年2月20日の銘があるので、あるいは別の意味をもつ供養塔かもしれない。)「泣塔」「供養塔群」は国鉄工場の正門で許可を得ないと見に入れない。
この泣塔のあたりを陣出と呼んでいるがここから北の方、山崎天神のある丘のあたりにかける一帯を洲崎といっていたようである。現在は、深沢、寺分、町屋といった字がこの中にふくまれている。
宝篋印塔
五輪塔と共に、密教系の石塔で、方形の台上に角柱の塔身をのせ、その上に飾り突起のある屋蓋(笠)を置き、さらにその上に相輪をのせて、これを宝篋印塔といった。
この塔の起こりは、中国の呉越の国王銭弘俶が、自分の延命を祈願して、宝篋印陀羅尼経を納める八万四千の小塔をつくったのにはじまるが、その形をまねて、鎌倉時代にさかんにつくられた墓塔、供養塔である。
須崎の合戦
新田義貞が、一路鎌倉をめざして南下するのを防ぐため、赤橋守時は6万の兵を率いて洲崎に向かった。
化粧坂の峠にて守よりも前に出て新田軍を迎え討とうという計略であったのだろう、この洲崎に陣を備え、合戦のかまえをしていた。
戦いは、5月18日に始まり、1日1夜の間に65度もの切り合いがあったという激戦であったが、そのすさまじい合戦のようすを、太平記によって再現してみよう。
かかりける処に、赤橋相模守(守時)、今朝は洲崎へ向われたりけるが、此の陣の軍剛くして、1日1夜の
其の間に、65度まで切り合いたり。されば数万騎ありつる郎従も、討たれ落ち失する程に、僅かに残る其勢
は、3百騎にそなりにける。
侍大将にて同陣に候いける南条左衛門高直に向かって(守時が)宣いけるは、(中略)万死を出でて一生を得、
百度負けて一戦に利あるは、合戦の習いなり、今この戦いに、敵いささか勝ちに乗るに似たりといえども、
さればとて当家の運今日にきわまりぬとはおぼえず。しかりといえども、盛(守)時に於いては、一門の安否
を見果つるまでもなく、此の陣頭にて腹を切らんと思うなり、其の故は、盛(守)時、足利殿に女性方の縁に
なりぬる間、相模殿(高時)を始め奉り、一家の人々、さこそ心を置き給うらめ。それ勇士の恥ずるところな
り、(中略)此の陣戦い急にして、兵皆疲れたり。我何の面目かあって、堅めたる陣を引いて、しかも嫌疑の
中に、しばらく命を惜しむべきとて、戦い末だ半ぱならざる最中に、帷幕の中に物具脱ぎ捨てて、腹十文字
に切り給いて、北枕にぞ伏し給う。
南条これを見て、大将すでに御自害ある上は、士卒誰がために命を惜しむべき。いでさらば御供申さんと
て、続いて腹を切りければ、同志の侍90余人、上が上に重なり伏して、腹をぞ切ったりける。
さてこそ、18日の晩程に、洲崎一番に破れて、義貞の官軍は、山内まで入りにけり。
この文中で、守時が女性方の縁と言っているのは、足利尊氏の妻は、守時の妹の澄子という者であって、守時と尊氏は、義理の兄弟の仲にあったのである。しかも澄子の産んだ尊氏の子義詮は、幼ながらも新田義貞と共に、鎌倉攻めに加わっているのであった。守時は、北条高時以下の面々と身内のつながりに心臆したと思われるのが、恥ずかしいと死を急いだのであった。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。
(須崎古戦場の碑)
(須崎古戦場の碑は、江の島と大船間のモノレール沿線下の大船から1.5Km)
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