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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

夷堂橋(えびすどうばし)

2017-10-28 15:42:49 | 日記
「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
鎌倉郵便局とスルガ銀行の間を入ってゆくと、右手にあるのが日朝様・本覚寺である。横門をくぐって広大な境内を山門に向って行き、表へ出ると目の前に古風な橋が見える。夷堂(えびすどう)橋(はし)である。これを渡って、細道をずっと入れば比企ケ谷妙本寺。日蓮宗の寺が、こうして橋の向こうとこちら側にあって、どちらも巨大な寺であることは、いかにも仏都・鎌倉らしい。超スピードで鎌倉見物をする人は、駅を降りたらタクシーで妙本寺の下まで乗り付け、一気に階段を昇ってしばし冥想などしてからゆっくりと降り、本覚寺を通って帰れば20分くらいで済む。 
本覚寺は「日朝さま」といわれるが、初代は日出(にっしゅつ)上人という。日朝は二代目で、日蓮の生まれかわりといわれるウルトラ秀才だった。本覚寺には大物すぎたか、身延山へ移って法王となり、日蓮宗の総本山たる偉容を名実ともに整えて有名になった人である。
さて、開基の一乗院日出上人であるが、はじめは仏教学者あって駿河国(静岡県)三島で研究を続けていた。
日蓮教えに入ると鎌倉へ出てきて、この辺にあった夷堂に住んで布教を始めたが、宗祖同様他宗の反対にあい、執権足利持氏に捕らえられて、大町六地蔵にあった刑場に引かれて行った。
あわや風前の灯と消えるかと思われたが、不思議にも無罪放免となったばかりか、夷堂のあった付近にお寺を建てるようにと、200平方メートルの土地と、建築費の一部にあてるようにと十二貫二百文のお金さえ賜わった。理由は単純明快。ある夜持氏の夢枕に夷神があらわれ「日出を殺すな許してやれよ」とのお告げがあったからという。
この辺は大倉の頼朝幕府の裏鬼門にあたるので、頼朝は夷神を祀って幕府の守護神としたのである。そういう神様のお告げであるから、流石剛気な執権持氏もナメクジに塩をぶっかけたように恐縮してしまった……。
許された日出さんの方も、夷様のおかげで助かったのであるから日々お参りして感謝したことであろうし、本覚寺と夷堂とは明治時代までは密接不可分の間柄であったらしいのだ。
神仏分離の政策がとられるに及んで、夷堂は警察署左側の道の突き当りに移された。
夷神と山王大権現が合祀され名前も蛭子神社と変わったが、本質は昔と同じものという。
蛭子とは、いざなぎ、いざなみ二柱の日本国生みの神が最初に生みそこねたという、目も鼻も口もない、いわば奇形児の元祖である。
この不気味な蛭子が舟で流され、海上を漂っているうちにたくましく生まれかわったのが夷神という。夷とは語のニアンスからしても「どこの馬の骨かわからぬ……どこか遠いところからやってきた」という語感がある。
夷神が漁民の間では外来のもの(漂着神)と信じられているのも、こういった理由による。江戸期の民間信仰では恵比寿と書かれ具体的には、風折帽子に狩衣指貫姿で鯛の大きな奴を抱え釣り竿をもってニコニコとしてござる。誠人に陽気な庶民的な神であって、漁業、航海、商業のシンボルとされている。
筒袖姿、袖短い作業着で米俵に腰を掛け、ベレーのダブダブみたいな頭巾を被り、何やら詰め込んだ袋をかついで打出の小槌というのを携えている福の神もいる。これぞ農民の守り神大黒天であり、サンタクロースの国産品である。
大黒主命を読みかえて、だいこくと言ったのであろうが、どうも日本創成神話から発する厳かなイメージは薄れてしまい、田舎の大地主(すなわち五反百姓のあこがれの的)を漫画化したような神である。大漁に酔いしれる網元をシンボライズしたような夷神と良いコンビというべきか。
民間信仰の神々というのは、どこか愛嬌たっぷりで、鹿爪らしくなく、人間臭ぷんぷんとしていて、民衆の欲求をストレートな反映であって微笑ましい。
毘沙門天なども、印度伝来の神で仏教の守護神であるが、不思議に民衆の人気が集まって親しまれている。とぼけたような風貌が原因らしい。どこにでもいる三枚目の男。働き者で平凡で、まじめで、腕力があって、好色で‥‥。というような記述がありました。

(夷堂橋(えびすどうはし)の表示標)

(欄干からの本覚寺)

(妙本寺の)案内板)

(欄干からの日蓮宗の寺(妙本寺))

(日蓮宗の寺(妙本寺)行事案内板)

針磨橋(はりすりはし)

2017-10-21 15:40:20 | 日記
鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 橋の欄干が片側だけ,いやに分厚いコンクリート製の不細工なシロモノに改変されている。きっとトラックか何かが橋を壊したので、修復する際、今後の見せしめに、うんと頑強なやつにしてしまったのだろう。今度はぶつけた自動車の方が破損するように……。
 川幅3m。道幅5.5m。橋の長さは3.6m。川の名は極楽寺川。斜めにかかり、名前も風情があって、小粋な姐さんが蛇の目傘をさして春雨煙る中を通れば申し分ないところであるが、現実はかくの如き有様であって、通る人も教育ママなどの、こわいオバサンたちの、買い物籠片手の周囲を睨みながらのお通りだ。
 橋は情趣を求めたいむきは、映画館の椅子に座って、ロバート・テイラー、ヴィヴィアン・リー主演の「哀愁」や佐田啓二・岸恵子の大甘メロドラマ「君の名は」でも観ることだ。不巧の名作?というから、東京の空の下では、今日もどこかで上映しているだろう。
 さて、橋の名前の由来は、昔この橋の近くに針を磨る者が住んでいたことによる、というだけである。針と言えば注射器を連想する。
 1965年の9月から12月にかけて、千葉医大の若い医師、鈴木充がチフス菌、赤痢菌をバラまいて70名ほどの罹災者を続出させ、中には死んだ人もあって世の中を震え上がらせ、すくなからず医者の信用を傷つけたことはまだ記憶に新しい事件である。多少精神に変調を来しているとは言え、堂々と白衣を着て礼儀正しく振舞えば誰もが無条件で信用する。それを悪用するとは、まったくもってけしからん。医者というより、人間の風上にもおけない奴である。
 こんな出来そこないの話はやめて、立派な医学者で、人格者で、わが国細菌学界に大きな影響を与えたロベルト・コッホ博士の記念碑に触れてみることとしょう。
 博士は、結核菌や破傷風菌の発見者、ツヘルクリンの創造者として知られる。
北里紫三郎の恩師であり、両人の協力で破傷風血清も創り出された。北里先生は日本へ帰ると細菌学の開祖となり、後進を育成した。北里研究所は有名であるし、そこに育った野口英世は日本のお医者さんではビカ一の人気者であって、ちょうど野球の長嶋、プロレスの力道山のような存在である。
細菌相手のなりふり構わぬ力闘ぶりやアフリカで黄熱病の研究途上に倒れた悲劇的生涯は教科書にも採録されて、知らぬ人はいない。
もしもコッホ博士の感化がなかったとしたら、野口英世博士も田舎医者で一生を終えていたかも知れないところである。
1905年(明治38年)北里先生の招きで、老いたるコッホは旅路はるかに来日し、鎌倉も親しく見物して行かれた。老先生中心に、かつての弟子たちで今は日本医学界の泰斗たち、鎌倉の名士や案内人などが随行し、この針磨橋の脇から左手に入った下手窪というところを登り、霊仙山の頂に立って相模湾一帯ら富士箱根伊豆、三浦半島の展望をほしいままにしたのである。
鎌倉に住む医博・吉川桂太郎の「コッホ博士の碑について」(衛生時報1962年10月発行183号 第3面) は間然するところのない麗筆で1800字にわたり、すべてを活写して教えられるところが多かった。(石碑の全文もあり)
記事によると慈恵医大の学生二人にコッホのことを尋ねられ、一応道筋は教えたものの自分も未だ行ったことがない。ある人はコッホを尋ねて霊仙山に登ったのはよいとして、身の丈に余る草にはばまれて碑は見つからぬ、日は暮れる。とうとう進退きわまって一夜を草のしとねに明かすという破目に落ち入った。かように難物で、道はあるようでないも同然であるから、慎重な吉川先生は針磨橋脇の下手窪に往診に行った際、患家の子供の稲村小学校の生徒をガイドにつけてもらって、ようやく碑にたどりついたという。
「夏草が茂っている時期は、とうてい行くことは困難である。行くなら冬の季節を選ぶべきである」と吉川氏は語る。産経新聞1965年8月7日神奈川版には四段ヌキの大見出しで、
草に埋もれるコッホ記念碑
 宅地造成のあおり
 古都鎌倉残そう ゆかりの細菌学者
という記事が出た。要約すると
 さいきんこの山の登り口が宅地工事のため壊され、訪れる人もとだえて、石碑は2メートルを越す夏草に埋もれ、場所もわからなくなりかりている。
石碑は大正元年(1911年)9月、このとき同博士らを案内して山に登った同市在住の文化人でベルギー大使などもつとめた故陸奥広吉伯爵と、当時の町長の大山初蔵氏、サナトリウムを同市で経営していた勝見正成氏が発起人となって建立されたものである。
仙台石製、高さ2メートル、幅1メートル、表面には日独両文で「コッホ博士の碑」と刻まれ、由来などが書き込まれている。
戦前までは多くの見学者もあったが、今はすっかり忘れ去られ、さいきん同市教育委の係員が調査したところでは、草ボーボーとして地元の人たちにも場所もわからないほどであり、碑の表面も無残に傷ついていて、文字も判読できないほどである。云々。
由緒あるもの、尊いものを捨ててかえり見ない。だから細菌を撒き散らすようなとびあがり者もあらわれ出る。なお、昭和58年(1983年)ロベルト・コッホ博士記念碑は、霊仙山の頂から稲村ケ崎公園に移された。公園の一番高い所にある休憩所の東側に石碑は立っている。霊仙山は地盤が軟弱で石碑保存に不適当であることと「針磨橋」の中に書いてあるように、石碑までのアプローチが困難な場所だったので、鎌倉市医師会が各方面に働きかけ寄付金を集め稲村ケ崎へ移転したものである。記念碑の左側には移転の由来を記した小さな石碑が立っている。澤寿郎撰、小島寅雄筆による。筆者が鎌倉市民誌にかいた「針磨橋」の一文は微量ながら強烈な毒を含んでいた。その効き目はあったというべきか。と云うような記述がありました。

(針磨橋のかかる道路)

(針磨橋欄干 )

(針磨橋の表示版)

(橋の下を流れる川)

(コッホの碑のある稲村ケ崎公園を眺める)

(稲村ケ崎公園)

(コッホの碑)

(コッホの碑と碑についての標示版)

(遠くに江の島と天気が良ければその奥に富士山が望める)



乱れ橋(みだればし)

2017-10-14 08:45:59 | 日記
今回から、10回にわたり鎌倉十橋を投稿いたしますので、ご観賞ください。
「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
昭和39年10月から鎌倉市は新住居標示が施工されることとなり、イの一番に材木座地区が改正されました。メチャメチャな飛び番地がスッキリと整理されたのは実に気持ちの良いことでございますが、三段式の一連番号で、覚えにくくて困るという苦情も始めのうちはあったようです。数字の天才というのも稀には居るが、大ていの人は数を忘れる方の天才ですからね。
 乱橋材木座と言われていたのが、地番改正以後は乱橋の二字はいらなくなり、手間とインクの節約になったようで……。
 一体この乱橋という橋はどこにあるのか。大町四つ角から横須賀線の踏切を超えて南へ、つまり材木座海岸へ向かいますとまず史跡としては、元八幡社があります。この小さな社ですが、治承4年(1180年)頼朝が現在の雪ノした小林郷へ鶴岡八幡宮を移す以前は、ここに源氏の始祖・八幡太郎源義家が祀られ、京都石清水八幡の支社として源氏の人々に厚く信仰されていたわけです。
 一寸踏切の手前へ戻りますと辻の薬師堂がございます。古ぼけた、堂守なしの小さなお堂ですが、中に収められた藤原時代作の薬師如来と脇侍の日光・月光両菩薩(室町末期)、それから鎌倉期、室町期に半数づつ出来たという十二神将たちは仲々の名作ぞろいで1966年4月22日、神奈川県の重文に指定されました。くわしいことは国宝館の方へどうぞ。…‥
 さて、これより海岸へ向かって400メートルほど行くと乱橋であります。新倉金物店の脇に史跡指導標が立っています。一寸八分の御本尊に一丈六尺、いや5.3メートルの仁王様が立っているようなものです。
 鎌倉市民73号に、乱橋なんてとり外して、モーターバイクに積んで持っていけると書いたらまじめな読者の方からお叱りをうけました。それほど小さいという「たとえ」なのですが……。
 乱橋は濫橋とも書かれたようです。
 名前の起こりは、新田義貞鎌倉攻めの際守る北条方の軍勢は、この橋の辺りから敗走をはじめた。つまり乱はじめた、ということに由るようです。
 テキは稲村ケ崎を突破したときから、すでに士気は天をつき、勝算満々としていましたから、材木座海岸ではもはや水際作戦もうまく行くはずはありません。鎌倉方の足並は乱れ、さんざんの負け戦で多くの将兵が討ちとられたのです。
 橋の南方に連理木があって有名だったといいますが、今は枯れて見えません。
 バートンの「恋愛病理学」という、イギリス17世紀の愉快な本ですが、お医者様でも草津の湯でも治らないという恋の病いを当時の医学書の鹿爪らしいスタイでもって機知縦横に書きまくっている珍しいその本の一節に、草木などの植物でさえ恋する!という例が幾つかかいてあります。妙なことを研究してものです。という記述などがありました。

 おしまいに「乱橋喧嘩一件始末」記というのご紹をご紹介します。
 郷土史研究の大家、小丸俊雄氏が英勝寺の御用留帳、つまり古文書の中から発見され、「鎌倉」第4号(昭和35年4月発行)にお書きになり、のちに単行本「英勝寺」のなかに収められた。実にくわしく大喧嘩の記録でございます。
 寛政元年(1789年)3月3日夕方。
 英勝寺の召使いの利八、長五郎、久八の3人が飯島・小坪へ潮干狩りか何かの帰りに乱橋村の太郎吉酒屋で先客の八名とつまらことから大喧嘩となり、長五郎はナマクラ刀を抜く、それを仲間が後ろから抱き止める、その間にもう一人が刀をもぎとって、それでもって八人を相手に大立ちまわりを演ずるという騒ぎでありました。八人の中には大町の神官、森戸の神官、大町の名主、木材座の名主が混っていたし、百姓も大工も医者も居ます。
 材木座の名主と森戸の神主がカスリ傷をうけ、この野郎とばかり興奮した一同は三人を取り押さえて縄をうち、独断で一晩抑留してしまいました。
 寺ではカンカンに怒って江戸表へ訴えるとおどします。なにしろ水戸様のお寺といわれる格式の高い英勝寺の事だから、八名の者は平ぐものように謝るばかりでした。けがをさせられた上に念書始末書をとられ、高徳院(大仏様)の住職のとりなしによって一週間目にようやく内済にしてもらうこととなり、事件は落着しました。というような記述がありました。

(元八幡社の標示の石標)

(元八幡社)

(元八幡社の石表示標)

(元八幡社から乱橋への道)

(乱橋のランカンと川)

(乱橋のランカンと石柱標)

(乱橋の表示標)

扇の井について

2017-10-07 12:18:14 | 日記
「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
扇の井は、泉の井の泉ケ谷から引き返して、JR横須賀線沿いに北に進み、扇電気商会の手前の路地を入れば左手の三軒目が扇の井の所在地の本田さんのお宅であった。
 本田さん夫婦がお帰りになったので聞いた。「もうこんな古井戸は、物好きな連中しか見に来ないでしようね」「いえ、とんでもありませんわ、付属小や小坪小学校の生徒さん、それに国大生なんか見えました。」
 「社会科の勉強ですか。大学生は一体何しに来るのかな。それにしてもにぎやかなことですね」
 「ええ。大勢のときは一人づつ順に見て家の裏から玄関の方へ回ってもらいます。」ええ、お帰りはこちら、というわけだ。史跡が庭の中にある有名税と、マダムは割りきっておられるらしい。
 井戸はまさしく扇形、正しくは扇の地紙をひろげた形である。
 どうやら猫の額のような小字が扇谷と呼ばれたらしい。「本来此の扇谷は総名亀谷の中なりしが、扇谷在住の上杉定正、家名を揚げしにより、其名大に顕れ、遂に亀谷に代りて総名と偽る」(大日本地名辞書)というわけである。扇谷最古の地名が亀ケ谷だったのである。東鑑にはまだ扇谷という名は出てこないそうだ。
 亀ケ谷切通は、七口中でも最古のものだったことと、鶴ケ岡・亀ケ谷と文学的に対句になっていることで名が売れていたのだろう。この地最古の禅寺の寿福寺は亀谷山と号していて、扇谷山海蔵寺が建立されたのはそれより二百年ほど後のことであるし、開基は例の「扇ケ谷の上杉氏」なのである。蛇足だが、亀谷山のお株をとられた亀ケ谷切通し直下の長寿寺は宝亀山と号して、お茶をにごしている。
 周囲の古い地名を列挙してみると下記のようである。
 亀ケ谷          (扇ケ谷最古の地名)
 会下谷          (海蔵寺の付近)
 清涼寺谷         (海蔵寺外門の東側)
 法泉寺ケ谷        (扇ケ谷ガードの辺)
 御前谷          (法泉寺ケ谷西向側)
 山王ケ谷          (源氏山直下住宅地)
 梅ケ谷(綴喜里)       (化粧坂下)
 藤ケ谷          (扇の井の辺り)
 勝緑寺ケ谷        (岩船地蔵堂の所)
 智岸寺谷         (英勝寺の境内)
 泉ケ谷          (浄光明寺付近)
 今小路          (寿福寺から巽荒神まで)
 無量寺ケ谷        (正宗井のある付近)
 藤ケ谷と呼ばれる飯盛山直下の扇の井の所在は、旧扇谷の平地を見渡して、丁度扇の要にも相当する場所だったのではないか。そこで井戸の姿態にも一工夫あって、地下までも扇形に堀り抜くという凝りようを見せたのだと思えてくる。それは本田さんの祖先だったか、それ以前の何者か風流人がしたことか、一切不明である。
 井戸の上部の山の根には幅広いやぐらがあって、細川という墓が数期ある。
 コップに汲んだ井戸水は冷たく、クセのない良質のものだった。三年に一度は人夫賃数千円也の出費をして、井戸替えをする。夏場以外は大して使う用もない井戸を、こうしてベスト・コンディションにしておくのは、見学者がいくら試飲しても腹をこわさぬようにという配慮もあってのことだろう。(本田さんはふだん水道を使っている)
 十井戸で実用になるのは、ここと鶴岡八幡宮脇の鉄の井、明月院の瓶ノ井の三ケ所だけだが、あとの二つは通行人がたまに使ったり、お寺さんが洗濯用に使うだけなので、水質ではここが第一位の栄誉に輝くのである。
 本田さんの祖先は、徳川四天王の本多平八郎である。字がちがっているのは明治維新の頃、系図買いにつけこまれて系図を売ってしまった為である。扇ケ谷全体で六十三棟しか家がなかった頃からの住人であるという。当主の本田隆雄氏は、1965年当時には日本ソーダ勤務「扇井」と号し俳句をよく詠まれていた。以上のような記述がありました。
 井戸の存在場所
 扇ケ谷 個人宅


(扇の井戸への道)

(板で蓋をしてあります)

(手前のホンプは今使っている井戸)

御鑑賞りがとうございます。次回からは、鎌倉十橋について投稿の予定です。引き続きご観賞いただければ幸いです。お知らせまで。