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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

渡辺はま子の歌碑について

2015-07-25 13:57:57 | 日記
 今日は、港の見える丘公園にいってきました。港が一望に見える展望台の真後ろに、渡辺はま子の港が見える丘の歌碑がありました。
 中区の歴史と碑もトーク、横浜市中央区役所編集に発行によれば、この歌は、世相の中で、港をテーマにした曲として広く人々に口ずさまれ、なにかほっとする安堵感を覚えるものです。
 このみなとの見える丘公園が歌の舞台であったかについては、様々な説がありますが、この歌が広く横浜市民にしたしまれていたこともあって、多くの市民の共感を得て、横浜市が「港の見える丘公園」と命名したものです。と記述されていました。
 さて、港の見える丘の歌詞の一番
  あなたと二人で来た丘は、港が見える丘
  色褪せた桜唯一つ 淋しく咲いていた
  船の汽笛咽び(むせび)泣けは゛ チラリホラリと花片(はなびら)
  あなたと私に降りかかる 春の午後でした。

 一方、ネットには、昭和22年当時、戦後の荒廃した横浜市に明治43年(1910)10月27日生まれで、本名加藤浜子武蔵野音楽学校(現:武蔵野音楽大学)太平洋戦争中は、支那の夜など歌手として、昭和7年(1933)から平成元年(1989)年まで歌手として、横浜生まれで横浜育ちの、文字通りハマっ子の渡辺は美貌で知られた歌手であった。
 また、戦中は、戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされるが、その間も渡辺はま子は、日本人捕虜仲間を美しい歌声で慰めることを忘れなかった。日本へ帰国後、外地から引き揚げてきた兄とようやく再会する事ができるが、不慮の病で失うという不幸に見舞われた。
 昭和27年(1952)、NHKラジオ「陽気な喫茶店」を司会していた松井翠声の元に送られてきた、フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」を渡辺がレコード化。日本政府の復員局と渡辺の奔走でモンテンルパの収容所へ慰問コンサートが実現。
 フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの首長であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したことは、渡辺の歌手人生におけるハイライトといえる。と掲載されていました。

(港が見える丘公園見取り図)

(港が見える丘公園展望台からの港)

(歌碑の建立)

(歌碑)

(公園内)

飯岡幸吉の碑について

2015-07-16 09:27:42 | 日記
 飯岡幸吉の碑が掃部山(かもんやま)公園に建立されているので行ってきました。さて、飯岡幸吉の碑について、「掃部山飯岡幸吉翁追歌碑建設記念発行飯岡幸吉歌碑建設委員会」によれば、飯岡幸吉は、横浜市花咲町(現在の西区花咲町4-25)に明治31年6月29日父藤蔵、母セイの長男として誕生しました。
 氏は、横浜商業学校(現在のY校)に入学して、同校の講師橋田にすすめられ「珊瑚礁」会員となった。卒業後横浜正金銀行横浜本店に入行し「覇王樹」の創刊同人となり、銀行員として勤め、方や短歌の活動にも打ち込む所謂二刀流。
 昭和2年29歳で小倉美代子女史と結婚2児の父親となり、昭和3年アララギ(正岡子規の短歌論を信奉派)に入会して、昭和9年11月アララギに萬葉集百選を発表。昭和11年の22.6事件に危うく巻き込まれることなく、新橋駅から終列車にて帰宅することが出来た。
 昭和16年11月満州大連支店に転勤するも、日本は、同年12月に太平洋戦争へと突入し、時々休暇を得て帰国し、短歌の同僚達の宅や同僚の部隊を訪問する傍ら、疎開先の葉山の母の健康を気使って訪問するなどしていたが、没し、昭和19年家族3人を大連に呼び寄せる。ところが、昭和20年8月終戦となり、銀行はソ連のダル・バンクに吸収されて、嘱託となる。
 昭和22年1月引上げのため、ダル・バンクを退職、3月博多に帰還し、6月には閉鎖機関横浜正金銀行整理部勤務となるが、昭和24年2月横浜正金銀行整理部を退職し、池田木工株式会社の監査役に就任したが、その後、横浜歌話会委員長など就任し、池田木工株式会社を辞職する。 昭和32年には、東京銀行に嘱託とし入行し、昭和35年同行を62歳で退職し、短歌一筋にまい進し、昭和43年には、「久木」の編集兼発行人となる。また、「港の丘」やエッセ・短歌集「横浜在住70年」を出版するなど歌人として、短歌にかける一代であった。
大連での終戦時の詩「港の風」より、抄出
* 自動機関銃砲へ銀行を占拠せる兵が最初に煙草ねだれり
* したたかに街に乱るるソ連兵を捕ふる古豪の少年憲兵
* 円標示ソ連軍票市(まち)に見えややほがらかになりし東洋人
* 呼び歩き日本紙幣を売る彼等マーケットの中を行きつ戻つ
これらの詩を妻美代子女史が回想し、”思い出遥か”と題し、久木に投稿、当時の横浜正金銀行は、世界に百を超える支店を持ち、為替を扱う特殊な銀行であったが、終戦当時を夫が詠んだ短歌集「港の風」で、大連での貨幣価値が市場では、朝鮮、満州中央、ソ連の真赤な軍票に日本銀行券と四種類の紙幣を使い分ける時代陥った。
 それは、朝鮮からお米が入港すると朝鮮券の値上がり、日本から迎えの船が来ると日銀券の値があが上る始末。また、満人が卵を売る振りをして「満州紙幣買います」と呼びかける。これは、後の昭和56年の正月に、NHKで経済小説作家「城山三郎」の作で、昭和初期の「浜口内閣」時代の経済恐慌を書いた「男子の本懐」と云うドラマを視ていた妻美代子が、テレビで放映した映像それは、大連の過渡期を思いわせ、妻は、感激深いものがありました。と結んでいる。
 飯岡一家は、銀行員でありながら、満州と云う地で終戦を迎え、金券に惑わせられる一時期を体験さられ、これを短歌として一句を詠み、また、家族がそれを回想する。真に人生を感じさせられました。
なお、碑には、
まちなかに 緑をたもつ 掃部山 ましてや虫を 聴く夜たのしき 幸吉 と刻まれていた。

(掃部山公園日本庭園への路)

(日本庭園の一角に建てられた飯岡幸吉の碑)

(日本庭園)

(日本庭園)

(庭園あずまや)

(珍客赤トンボ)

(公園に隣接する横浜能楽堂)

西洋理髪発祥の碑について

2015-07-09 15:47:20 | 日記
 今日は、山下公園にある西洋理髪発祥の地の碑を見に行ってきました。日曜日の為か老若男女が行楽を楽しんでいるのに加え、花壇には、紅白色とりどりのバラを始め、サルビヤ、マリーゴールドなどおなじみの花々に包まれた山下公園のほぼ中央付近の木々陰に、余り目立たないがよく見ると人の頭と顔を形ち取った西洋理髪発祥の地の碑が建立されていました。
 日本に西洋理髪を職業として開業されたのは、「横浜もののはじめ考」によれば、元治元年(1864)3月5日付け「ヘラルド」紙によると、横浜ホテルにサロンがオープンしたのは「経験豊富なヨーロッパ人理容師の経営だという。翌年10月14日号には、ファーガスンが横浜ホテルから51番のパーカーのスタジオ跡に移転という広告が出ているので、横浜ホテルで開業した理容師はファーガスンであったろう。
 元治元年(1864)年6月には、香港の「パリジャン・サロン」にいたユージエールも同6月25日に開業している。これらは、現在の理容室と美容室を兼ねたものだったと思われる。
 明治31年(1899)8月7日・14日号に「理髪の沿革」と題する記事だと思われるが、それによると、開港後、日本人の結髪師たちは、入港する異国船に「一挺の剃刀」を携えて出入りし、船員の顔を剃って「存外の金儲け」をしていた。なかでも、小倉寅吉、原徳之助、松本定吉、竹原五郎吉など7・8名は、時勢を察し、異国船で西洋理髪師を見習ってハサミの使い方を覚え、明治1.2年頃、「今の148番館即ち,俚俗支那(りようしな)屋敷(やしき)に散髪床」を開いた。「之を横浜に於ける日本人散髪業の嚆矢(こうや)とす」と述べている。
 雄小倉寅吉、松本定吉は横浜で、他の者は東京に移って仕事を続けた。竹原五郎吉は東京の結髪師の間で奪い合いになったと云う。
 「側面史」に収録されている「無名の一老翁談」は、開業の時期を明治2年、場所は「148番アコン宅の階下」なっている。明治3年(1870)版人名録によると、147番にペンキ職のAhQuamがいる。これがアコンだとすると、場所は147番でなければならないが、「時事新報」はアコンの名を挙げておらず、正確なとこは分からない。
 また、明治4年8月9日に断髪令が出た。西洋理髪業が本格的に始まるのは、やはりこれ以降になる。この年11月24日付け「横浜毎日新聞」には、「外国人より伝習仕、流行の西洋風薙髪撫附等相始候」という「洲干町ふぢどこ」の広告が出ている。
 「市史稿」は、桜木町に「西洋髪刈所」を開業した富岡浅次郎という人を「理髪業の嚆矢(こうや)」とする説のあることを伝えているが、詳細は不明である。また、「名譽鑑」の「高等理髪店・柴垣久太郎君」によると、先代の栄吉は、開港と同時に来浜し、文久2年(1862)に開店したという。
 しかし、最初から西洋理髪業を営んだとは記されていない。他の多くの理容師同様、古来の結髪業から洋風の散髪業に転じたのであう。となっており、何時から、日本人が西洋風の理髪業を開業したかは、明確な記述はなかった。

(西洋理髪発祥の地の碑) 

(西洋理髪発祥の地の碑のプレートの記述内容)

(氷川丸をバックにバラの花壇)

(美しのサンディエゴの噴水附近)

(山下公園からの横浜港後方はベーブリッチ)

(後方横浜桟橋方向)

テニス発祥の碑について

2015-07-04 08:58:41 | 日記
 今日は、英国ウンイブルドンで錦織圭選手が世界ランキング5位で二回戦に進みながら左足ふくろはぎの怪我のため棄権となりましたが、日本でのテニスの発祥碑は横浜山手公園にありました。
 碑が建てられている場所は、港が見える丘公園から北西に歩くと程なく、横浜カトリック教会が見えてきます。この教会の丁字路に左入る山手公園入口と云う標識があります。ここを入って行くとテニス資料館への道標に従って150メートルほど行くとテニス発祥の地という碑が見えてきます。
 このテニス発祥の碑の横に、現在もコートが6面存在し市民が楽しんでいました。
 さて、「横浜もののはじめ考」によれば、慶応元年(1865)英国の陸軍第20連隊のブランント大尉を代表とするラケット・コート・クラブが設立され横浜山手127番にコートはあった。これは、ラケットを持った2人が壁にボールを打ち返し合うゲームで、近代テニスの前身とされるものであり、クラブは明治9年まで存在した。
 また、明治7年(1874)イギリスのウィングフィールドが、近代テニスに近いかたちのルールを作ったが、コートの形が中央でくびれたり、ネットの高さやコートの広も自由であった。これを1877年に、ジョーンズによって規則やコート・ボールなどの規定が現在のかたちに改良されて、全英選手権大会が開催さされるようになった。これが近代テニスの起源とされる。とあった。
 一方、「横浜のテニス100年」横浜市庭球協会発行によれば、テニスというスポーツが、わが国に伝来したのは明治3年英国人が、ミナトヨコハマに渡来した。現在山手公園(横浜市中区)になっている附近の山林を切り開き、そこにコートを作ったと記録されている。当時、この一帯は租界であったため、日本人はめったに近づけなかった。
 それは、コートを作るに当たって資材はもとより、人夫までも英国から連れて来る時代であったことから、テニスを身近に見聞した最初の日本人は、おそらくコートキーパーとして雇われた人であろう。とにかく、明治3年が日本におけるテニス事始めであり、発祥の地は横浜の高台であった。
 明治11年になって、租界地でのテニスを米国人リーランド教授から、東京高師(現在の東京教育大学)の学生に手ほどきして、高師を巣立ち、全国に散っていった。これがテニスの普及の夜明けである。しかし、ラケット及びボールは輸入品で高価なため、庶民には手がとどかなかった。そこで考案されたのが、わが国独自の軟式テニスであった。
 軟式テニスの考案は、普及という意味では決定的な出来事で、明治18年頃には、東京高師の外に、東京高商(現在の一橋大学)、慶応、早稲田などで盛んに行われ、テニスと云えば軟式を意味するようになり、全国津々浦々に広がって行った。言うなれば、日本流のテニスの元年といっても良いかも知れない。
 しかし、外国人居留地のある横浜、神戸、東京などの外国居留地には、硬式テニスクラブを次々に設立されて、明治17年には、横浜でも本格的なテニスクラブが出現した。と記述されていた。
 更に、「山手公園物語」有隣新書刊行の「テニスの全国への普及」では、明治30年代にテニスと野球ほど山間に至るまで全国に普及したスポーツ少ない。明治26年(1893)には、青森県、岩手県、山形県などの寒い東北地方にも、茨城県、徳島県、愛媛県などでもローンテニスとベースボールが師範学校付属小学校の遊戯にとりいれられている。
 田山花袋の小説「田舎教師」には、群馬県境に近い三田ケ谷村の教師となった青年がテニスをやる情景が書かれている。島崎藤村の「破戒」では、長野県飯山町の小学校でのテニスの様子が感動的に書かれている。
 当時、テニスは、女子学生に人気があり、ラケットをもって記念写真を撮ることが流行しり、山川菊栄、市川房枝など女性解放の先駆者達が、女学校の生徒のとき夢中でテニスをやったのも、明治30年代のことであった。
 また、軟式テニスは同じゴムボールを素手でやる野球と一緒に全国にひろまった。ローンテニスを庭球、ベースボールを野球と訳したように、イギリスとアメリカから別々に入ってきたこの二つの外来スポーツは、わが国では兄弟みたいなものになった。旧制一校では、一時庭球部と野球部が同一部で、1人が両方の試合に出たりしており、「しゃもじ踊り」の庭球と「すりこぎ踊り」の野球とは仲が良かった。
 硬式テニスは明治時代には、横浜の外国人クラブ、東京ローンテニス・クラブ、軽井沢クラブなどで行われる一部の上流社会のスポーツであった。しかし、軟式テニスの方が大正初期までは硬式テニスに替わって全盛で、「軟式テニス世界統一論」が新聞で論じられたり、「硬式テニス」は外国に尾尻を振る者達と非難されたりしたものであった。
 こうして「軟式テニス」は地元の小中学校からはじめ、庶民のスポーツとして地域社会のなかにしっかり根づいていた。野球クラブや硬式・軟式テニスのクラブが今日も地域で活動している事由である。と結んでいる。

(山手公園入口付近)

(山手公園)

(道標)

(テニス発祥の碑)

(テニスを楽しんでいる市民)

(当時のテニスウアー)

(日本初のテニスコート場所)

(右手前は当時日本の竹製のラケット)

(史料館でのラケットの展示)

(史料館でのラケットの展示)

(史料館でのラケットの展示)

「左奥にある仮面のようなものは、テニスの原型となった競技に使われていたグローブ型ラケット」(フランス500年ぐらい前)