「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
その昔、鶴岡八幡宮に参詣の武人たちは、此の地で馬をおり、徒歩で参拝したというしきたりがあったので、下馬の位置が、今も地名として残っている。
此の下馬の地点は、鎌倉の道路の中でも、重要なところであったので、いくたびか戦場の巷となったが歴史書の中にしばしば出てくる。
なお、文永八年(1271年)9月12日、日蓮聖人が、名越の小さないおりから、竜の口の刑場に送られる途中で、鶴岡八幡宮に向って、八幡大菩薩神として法門をまもるため、どうぞ霊験をあらわしたまえと大音声で祈ったというが、その地は下馬橋付近であると伝えられている。
{参考}
下馬
現在碑の立つ下馬は、鎌倉にある三つの下馬橋の中の、下の下下馬の位置にあたる。
このちは、南北に直行する若宮大路と、それにほぼ直交する、当時は大町大路と呼ばれた道路の交差点にあたり、この当たりから、小町小路が大町大路と交差する(今大町四つ角という)あたりにかけては、鎌倉中の最も繁華をきわめたところであった。
そして、今は二の鳥居と三の鳥居の間に残る段葛(当時は置き石といった)が、この下馬の地点まであったことが、善宝寺領図と称する図面によってあきらかである。
下馬は名の如く、身分によってはこの地点で馬をおり、鶴岡八幡宮に敬意を表したのであろう。
鎌倉の最大の要路にあたるこの地点は、いざ戦いとなると、この地点の奪取には、両軍しのぎをけずる烈しい修羅場となったことは、想像に難しくない。和田一族が、北条に決戦をいどんだ和田合戦(1213年)でも、新田義貞の鎌倉攻め(1333年)でも、この地点で、すさまじい攻防がくりかえされたようである。
碑にいう日蓮がこの所で鶴岡八幡に向って祈願した如く、この地を東西に行きかう人々は、ぞれぞれ八幡宮を遙拝したのであろう。
なお、この場所では、江戸幕府の末頃、元治元年(1864年)10月に、英国の士官ポールドウィンとバードの二人が浪士に斬られるというような事件もあった。
三つの下馬橋
今、碑の立つところは、下の下馬橋であって、若宮大路には、他に二か所に橋があったことが、「大庭文書」によってあきらかにされている。
中の下馬橋は、二の鳥居の前にあった。江戸時代の図によると、不浄の人は、若宮大路を横切ることをゆるされず、川のわきにそって橋の下をくぐるようになっているが、このようなところにも、八幡宮崇敬のならわしがあらわれていて興味が深い。
上の下馬橋は、今、三の鳥居をくぐるとある赤橋のことをいうのであろう。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。
(下馬の碑)
(二の鳥居から八幡宮を望む)
(若宮大路)
(第一の鳥居 ここまで昔は若宮大路がたったが、道路拡張のため取り壊し)
(先が大町大路)
その昔、鶴岡八幡宮に参詣の武人たちは、此の地で馬をおり、徒歩で参拝したというしきたりがあったので、下馬の位置が、今も地名として残っている。
此の下馬の地点は、鎌倉の道路の中でも、重要なところであったので、いくたびか戦場の巷となったが歴史書の中にしばしば出てくる。
なお、文永八年(1271年)9月12日、日蓮聖人が、名越の小さないおりから、竜の口の刑場に送られる途中で、鶴岡八幡宮に向って、八幡大菩薩神として法門をまもるため、どうぞ霊験をあらわしたまえと大音声で祈ったというが、その地は下馬橋付近であると伝えられている。
{参考}
下馬
現在碑の立つ下馬は、鎌倉にある三つの下馬橋の中の、下の下下馬の位置にあたる。
このちは、南北に直行する若宮大路と、それにほぼ直交する、当時は大町大路と呼ばれた道路の交差点にあたり、この当たりから、小町小路が大町大路と交差する(今大町四つ角という)あたりにかけては、鎌倉中の最も繁華をきわめたところであった。
そして、今は二の鳥居と三の鳥居の間に残る段葛(当時は置き石といった)が、この下馬の地点まであったことが、善宝寺領図と称する図面によってあきらかである。
下馬は名の如く、身分によってはこの地点で馬をおり、鶴岡八幡宮に敬意を表したのであろう。
鎌倉の最大の要路にあたるこの地点は、いざ戦いとなると、この地点の奪取には、両軍しのぎをけずる烈しい修羅場となったことは、想像に難しくない。和田一族が、北条に決戦をいどんだ和田合戦(1213年)でも、新田義貞の鎌倉攻め(1333年)でも、この地点で、すさまじい攻防がくりかえされたようである。
碑にいう日蓮がこの所で鶴岡八幡に向って祈願した如く、この地を東西に行きかう人々は、ぞれぞれ八幡宮を遙拝したのであろう。
なお、この場所では、江戸幕府の末頃、元治元年(1864年)10月に、英国の士官ポールドウィンとバードの二人が浪士に斬られるというような事件もあった。
三つの下馬橋
今、碑の立つところは、下の下馬橋であって、若宮大路には、他に二か所に橋があったことが、「大庭文書」によってあきらかにされている。
中の下馬橋は、二の鳥居の前にあった。江戸時代の図によると、不浄の人は、若宮大路を横切ることをゆるされず、川のわきにそって橋の下をくぐるようになっているが、このようなところにも、八幡宮崇敬のならわしがあらわれていて興味が深い。
上の下馬橋は、今、三の鳥居をくぐるとある赤橋のことをいうのであろう。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。
(下馬の碑)
(二の鳥居から八幡宮を望む)
(若宮大路)
(第一の鳥居 ここまで昔は若宮大路がたったが、道路拡張のため取り壊し)
(先が大町大路)