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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

下馬についてNO58(西1)

2019-02-23 08:33:31 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 その昔、鶴岡八幡宮に参詣の武人たちは、此の地で馬をおり、徒歩で参拝したというしきたりがあったので、下馬の位置が、今も地名として残っている。
 此の下馬の地点は、鎌倉の道路の中でも、重要なところであったので、いくたびか戦場の巷となったが歴史書の中にしばしば出てくる。
 なお、文永八年(1271年)9月12日、日蓮聖人が、名越の小さないおりから、竜の口の刑場に送られる途中で、鶴岡八幡宮に向って、八幡大菩薩神として法門をまもるため、どうぞ霊験をあらわしたまえと大音声で祈ったというが、その地は下馬橋付近であると伝えられている。
 {参考}
 下馬
 現在碑の立つ下馬は、鎌倉にある三つの下馬橋の中の、下の下下馬の位置にあたる。
 このちは、南北に直行する若宮大路と、それにほぼ直交する、当時は大町大路と呼ばれた道路の交差点にあたり、この当たりから、小町小路が大町大路と交差する(今大町四つ角という)あたりにかけては、鎌倉中の最も繁華をきわめたところであった。
 そして、今は二の鳥居と三の鳥居の間に残る段葛(当時は置き石といった)が、この下馬の地点まであったことが、善宝寺領図と称する図面によってあきらかである。
 下馬は名の如く、身分によってはこの地点で馬をおり、鶴岡八幡宮に敬意を表したのであろう。
 鎌倉の最大の要路にあたるこの地点は、いざ戦いとなると、この地点の奪取には、両軍しのぎをけずる烈しい修羅場となったことは、想像に難しくない。和田一族が、北条に決戦をいどんだ和田合戦(1213年)でも、新田義貞の鎌倉攻め(1333年)でも、この地点で、すさまじい攻防がくりかえされたようである。
 碑にいう日蓮がこの所で鶴岡八幡に向って祈願した如く、この地を東西に行きかう人々は、ぞれぞれ八幡宮を遙拝したのであろう。
なお、この場所では、江戸幕府の末頃、元治元年(1864年)10月に、英国の士官ポールドウィンとバードの二人が浪士に斬られるというような事件もあった。
三つの下馬橋
今、碑の立つところは、下の下馬橋であって、若宮大路には、他に二か所に橋があったことが、「大庭文書」によってあきらかにされている。
中の下馬橋は、二の鳥居の前にあった。江戸時代の図によると、不浄の人は、若宮大路を横切ることをゆるされず、川のわきにそって橋の下をくぐるようになっているが、このようなところにも、八幡宮崇敬のならわしがあらわれていて興味が深い。
上の下馬橋は、今、三の鳥居をくぐるとある赤橋のことをいうのであろう。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。

(下馬の碑)

(二の鳥居から八幡宮を望む)

(若宮大路)

(第一の鳥居 ここまで昔は若宮大路がたったが、道路拡張のため取り壊し)

(先が大町大路)

間注所旧蹟についてNO57(裏11)

2019-02-16 07:55:37 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 元暦元年(1184年)に、源頼朝は、大蔵幕府の建物の東西の廂のところを、訴訟を受けつけたり、また裁断する役所とし、これを問注所(もんち床廊下うじょ)と称した。
 ところが、この問注所へはいろいろの人々が群れ集まって、時にはひどくさわがしくなることもあったので、頼家は、正治元年(1199年)に間注所を大蔵幕府の外にうつした。此の地がその間注所のあったところである。
 {参考}
 間注所
 鎌倉幕府の行政上の一機関で、訴訟、裁判のことをつかさどった。
 元歴元年(1184年)10月20日、三善康信が初代の執事となった時、大蔵幕府の東廂に設けられ、諸人の訴論対決の事を処理するようにしたと、吾妻鏡が記している。
 始めのうちは、将軍が訴訟を親裁していたから、間注所は事務局的な性格をもつものであったが、やがて訴訟文書の審理、訴論人の召喚、対決、訴訟記録の作文などの権限を持つようになった。
 訴訟の処理について、鎌倉中のものは政所(まんどころ)が、諸国の訴えは間注所が所轄するというように管轄を分担したようである。
 頼朝が正治元年正月に死ぬと、頼家が将軍職をついだが、同年4月1日、執事はひきつづき三善康信であったが、間注所の位置を幕府外に定めた。それは、今まで幕府の敷地内に間注所を置いた為に、訴論にかかわる諸人が群集して、騒がしいばかりでなく、無礼狼籍のもとにもなったからである。このことについては建久3年(1192年)熊谷直実が久下直光と、土地の境について争論し対決をした折に、幕府の西侍において、忿怒のあまり、みずから刀を抜いて鬂を切落とし、言葉荒げて頼朝に近くつめよったという騒ぎがあったので、それ以来、幕府内での審理をやめて、三善康信の家にて訴訟の処理をしていたという事情もあって、内々間注所の場所については評議していたのであったが、この日に、この碑の立つ辺に新築したのであると、吾妻鏡は述べている。
 後年、引付衆という役職が設置される(1249年)と、それ以後、次第に間注所の権限は縮小し低下するようになった。
 裁許橋
 この碑のある道を、南へ百メートルばかり行くと、小さな流れにかけられた橋がある。これを裁許橋という。
 間注所にて裁きを受けた者で、死罪を言い渡された者は、この橋をわたって、さらに南へ3百メートルほど引かれたうえ、そこにある刑場(「飢渇畠」の碑で処刑されたのである。
 一説に、「さいきょ橋」は「さいぎょう橋」が訛ったのであって、頼朝が在世のころ、西行法師がこの辺をよく往来したので、里人が「西行の橋」というようになったとも伝えている。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。

(間注所旧蹟の碑)

松谷寺及佐介文庫阯についてNO56(裏10)

2019-02-09 08:32:35 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 昭和五年、金沢文庫に伝えられた仏教書の奥書から発見されて、佐介文庫の存在が世に明らかとなったが、この文庫は、松が谷文庫または、佐介松が谷文庫とも言われている。
 創立は金沢文庫とほぼ同じ時代と推察できるが、その創立者からびに所在地、規模、存続の期間等については、あきらかではない。
 おそらくは、北条氏の一族である佐介氏が、その邸内に寺院と文庫とを創建し、その地名を寺号や文庫の名称にあてたものであろう。
 此の辺を、今も松が枝とか、松が谷と伝える呼び名のあるところから、松谷寺と佐介文庫は、いずれも此の付近にあったものと推定している。
 {参考}
 松谷(しうこく)寺
 金沢文庫所蔵の古文書によると、この松谷寺において、一切経の木版刷りを出版したらしく、この寺については、同文書に、相州松谷山、鎌倉松谷山、松谷房主、松谷房、相州深沢松谷山等と、いろいろに記されている。
 松谷(まつがや) 文庫
 佐介文庫、二千石書閣、侍中亭などとも呼ばれていて、この地にあったと推定される松谷寺に、附属していた文庫である。
 嘉元(1303~1305)から元亭(1321~1323)年代にかけて、さかんに仏書が書写されたり、校合(きょうごう)(原本と照合して正すこと)が行なわれたことが、金沢文庫伝来の仏書の奥書によって明らかとなった。
 北条氏の一族である佐介氏の、個人文庫を前身とするものと思われ、当時の武将が別業(別邸のこと)を寺院にする風習があったので、佐介氏も松谷寺を建て、松谷文庫と称したのであろう。
 もしも、佐介氏の祖である時盛が松谷文庫を創設したとすると、それは金沢文庫の創設よりも古いかもしれないので、金沢文庫は、松谷文庫を模倣したものであるということになろうか。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。

(松谷寺及佐介文庫阯の碑)

蓮華寺阯についてNO55(裏9)

2019-02-02 09:01:55 | 日記

 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 蓮華寺は、仁治元年(1240年)に北条経時が創建し、僧の良忠を開山としたが、寛元元年(1243年)に木材座に移して、光明寺と寺号も改めたと伝えられている。
 また一説では、蓮華寺は経時の菩提をとむらうために、建長三年(1251年)に北条時頼が建立し、後、弘安二年(1279年)のころ、武州(東京都・埼玉県)へうつしたとも言う。
 此の谷を佐介が谷と称している。
 {参考}
 蓮華寺と光明寺
 木材座にある光明寺は、浄土宗で、天照山蓮華院光明寺と号している。その光明寺については、「鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝」なるものに、次のように述べられている。
―――然阿良忠という者が鎌倉入り、浄土宗を弘めていたが、時の執権経時が良忠を尊崇して、佐
   助谷に蓮華寺を建立し、ついで光明寺と名を改め、前の寺号蓮華の二字を残して、方丈を蓮
   華院と名づけた。建立後数年もたたずして、寛元元年(1243年)5月に、現在の木材座に移建
   した。
 右によれば、蓮華寺は光明寺の前身ということになるが、その他の史料と照合して見ると、これを事実とは定めがたく、両寺の関係は今なお不明の点が多い。
 佐介が谷と佐介稲荷
 鎌倉駅の西、源氏山をトンネルでくぐりぬけたところにある谷あいを佐介が谷(やつ)という。
 この谷あいに、上総介、千葉介、常陸介と三人の介の屋敷があったので、三介が谷が転訛して佐介が谷となったというし、また、源頼朝がまだ伊豆にあっで病になったとき、夢にあらわれた老人の告げのおかげで病を治し、鎌倉に幕府を開くこともできたと、頼朝はその老人のかくれ里をたずねさせ、今の佐介稲荷を建てたという。当時頼朝は、「すけ殿」とよばれていたところから、すけ殿を助けた稲荷ということで「たすけ稲荷」とよぶことにしたのが、いつのまにか「さすけ稲荷」と言い変わり、このあたりの地名も佐介というようになったとも伝えている。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。


(蓮華寺阯の碑)