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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

万葉集研究遺跡についてNO38(南8)

2018-09-29 15:31:12 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 此の地は、比企が谷新釈迦堂、つまり二代将軍頼家の女で、将軍藤原頼経の室となった竹の御所夫人の霊を、まつった堂のあったところである。
 この堂に仕えていた僧で、権律師(ごんのりっし)仙覚という者が、万葉集研究の偉業を成しとげたのは、実にこの僧坊であった。
 今、竹の御所夫人の墓標として大石を置いてあるのは、ちょうどこの堂の須弥壇のま下にあたっているところである。
 この堂は、おそらく南面し、僧坊は西方を向いていたであろう。
 西方のがけの下のいわやは、仙覚等代々のこの堂に仕えた僧たちの、埋骨のところでなかろうか。くわしいことは、「万葉集新考」の付録の「万葉集雑攷」に述べてある。
(参考)
竹の御所
 今の妙本寺の本堂に向って左奥に、比企が谷新釈迦堂という廟があった。これは竹の御所といわれた女性の霊をまつったところである。
 竹の御所は美子といい、源家第二代の将軍頼家と若狭の局との間に生まれた女子で、小御所の変のときには、生まれてまもなくのころであったが、危うく命ながえて成人した。
 一説に、竹の御所の母は、木曽義仲の女であるともいう。
 実朝の死後、京都より第四代の将軍として藤原頼経(頼朝の妹の血すじをひく)が鎌倉に来て13歳になったとき、竹の御所は28歳で頼経の室となった。二人の年齢から見るとあまりにも不釣りあいを感ずるが、あるいは数年前に死んだ政子の遺言でもあったかもしれない。
 その竹の御所は天福二年(1234年)7月に出産したが、不幸にして死産であった。その上、竹の御所も難産のために悩乱のあまり、出産の翌日死去した。行年32歳であった。源家の最後の人として、生まれるより不遇の生涯にあけくれした。気の毒な女性であったが、この人が死にのぞんで、釈迦信仰にあついところから釈迦像をまつることをねがったので、その遺言により新釈迦堂が建立されたのである。
 幕府はこの堂のため供田(寺の維持をはたすための資産となる)を定め、初代の住職として仙覚律師が住むことになった。
仙覚
 常陸(茨城県)の人で、権律師にまでなった。早くから万葉集の研究に没頭し、寛元四年(1246年)には、従来訓読できなかった152首に新しい読み方を付し、翌年「仙覚奏覧状」と共に、後嵯峨院に奉った。
 その後も万葉集の校訂を続け、文永二年(1265年)には、時の将軍宗尊親王に書写本を献上している。文永六年(1269年)ついに「万葉集注釈」全二十巻を完成し、東国の地理についての豊かな知識を生かして、東歌の解釈に独特の意見をのせている。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(万葉集研究遺跡の碑)

(正面に妙本寺の本堂)

比企能員邸址についてNO37(南7)

2018-09-22 14:42:12 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 比企能員(ひきよしかず)は、頼朝の乳母であった比企禅尼の養子で、禅尼と共に此の地に住んでいた。このあたりを比企が谷と称するのはこのためである。
比企能員の娘は、二代将軍頼家の寵愛を受け、若狭局(わかさのつぼね)と称し、一幡という男子を産んだ。
 建仁三年(1203年)頼家が病いの床につくと、母の政子は、天下の地頭職を二分して、関東の地頭職を頼家の子の一幡に、関西の地頭職は頼家の弟の千幡(後の実朝)に分けて継がせようとした。
 能員はこれを聞いて怒り、ひそかに北条氏を倒すことを計画したが、密計が漏れて、逆に北条氏のために一族みな此の地で滅ぼされたのであった。
(参考)
源家と比企氏
 比企の尼は、頼朝が14歳で京から伊豆へ流されることになったとき、何人もいた乳母の中でただ一人、夫と共に関東に下り、頼朝が伊豆の蛭が小島にて20年間に及ぶ流人生活の間、その不自由なくらしをなにくれとなく支えて来た人である。
 頼朝は、比企の尼の恩義を深く心に感じていたればこそ、その養子比企能員を、とりわけとりたて、長子頼家の乳母には、能員の妻をあてるほどに重用した。さらに能員の女若狭局が頼家の室となり一幡を産むようにって、比企一族の権勢は、将軍の舅という立場から極めて強力となった。
頼家と北条氏
頼朝の死後、第二代の将軍頼家に比企一族が接近して、権勢を強めて来たことは、北条氏にとって好ましいことではなかった。頼家の乳母が比企氏であるのに対応する如く、実朝には政子の妹(頼朝の弟である全成の妻)すなわち北条氏が乳母となって比企の権勢に対抗した。
 当時は、生まれた子が女児であれば、母の手元において育てるが、男児であったときは、母の手元を離れて、専ら乳母の元でそだてられるのがしきたりであった。従って、乳母は育ての児の成長した後までも隠然たる力を持ち、育てられた者としても、乳母に対する恩義は深く忘れられぬものであった。
 それだけに、北条氏はライバルとしての比企氏に対して、その行動に警戒の目を離さなかったであろうし、その勢いの行くところ、頼家に対する態度も、実朝に対するそれとはおのずからちがう、冷やかなものがあったにちがいない。北条氏の圧力が政子を動かし、母としての政子の裁断をかさにして、頼家の将軍としての実権を滅殺したり、その病床の身となるや、いちはやく天下の地頭職を、頼家の子一幡と実朝とで二分することを強行したりしたことは、明らかに比企氏抬頭の頭打ちを策したものであろう。
小御所の変
 頼家と比企能員とが、天下二分の処置に反し、北条氏打倒の挙を図ったことは、北条方にとっては思う壺であった。
建仁三年(1203年)9月2日、北条時政は、自邸の薬師如来の供養にことよせて、能員を招待した。能員の子等は、時政の策謀を警戒して引き止めたが、能員は赴かねば、かえって疑いをまねくと言って、名越の時政の邸に参り、その場で謀殺されてしまった。
 小御所(現在の妙本寺の地)にあって、この異変を聞いた比企一族は、頼家の嗣子一幡を擁して小御所(一幡の館なる故にこのように呼んでいた)にたてこもって北条氏との決戦をかまえた。その日の午後4時に近い頃には、政子の指示を受けた北条義時、泰時、畠山重忠、三浦義村、和田義盛以下の武将が雲霞の大勢をもって、この小御所に襲い迫った。
 比企一族は、死を恐れず防戦につとめたが、衆寡敵せず、いずれも一幡の前で斬り死し、一幡もまたあわれ6歳の身で、火に包まれた館の中に果てたのであった。
 翌日、源性という者が、一幡の遺骨をさがしあてて、その遺骨を高野山奥の院に葬るべく、焼けあとを立ち去ったという。
 かくて、北条氏はライバルの比企一族を全滅させ、頼家は全く孤立無援の状況に追いこまれた。やがて将軍職を実朝に譲らせられ、淋しく伊豆修善寺へと、配流の身を移した頼家を待っていたものは、北条の魔手だったのである。頼家は、翌年7月に殺害されている。
五輪塔
 宇宙の森羅万象は、空、風、火、水、地の五元によって構成されると説く密教の教えをあらわしている塔で、平安時代頃から石造塔としてつくられ、鎌倉地方ではこのかたちの塔が特に多い。
 五輪の各輪には空風火水地とか、妙法蓮華経とか、あるいは梵字でキャ、カ、ラ、バ、アの五字を刻んだものもある。
 この一幡の五輪の塔は、後世のものなので形もちがっている。などとう記述がありましたので、投稿いたします。

(比企能員邸址の碑)

(現在の妙本寺 山門から)



夷堂橋についてNO36(南6)

2018-09-15 08:27:06 | 日記

 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 此の夷堂(えびすどう)橋は、鎌倉十橋の一つであって、このあたりには、昔夷堂があったと伝えられている。
 この下を流れる川は、上流では胡桃(くるみ)川と言い、浄妙寺の門前に至ると滑川と呼ばれ、文覚上人の屋敷あとの辺では座禅川と唱え、そして此の辺では夷堂川と称しているが、さらに下流の延命寺のかたわらからは、すみうり川と名づけ、閻魔(えんま)堂跡のあたりでは閻魔川といっている。
(参考)
 夷堂
 現在の夷堂橋と、日蓮辻説法跡とのほぼ中間点のあたりの道すじに、蛭子神社という小さな社がある。この蛭子神社は、明治の代になって神仏分離のため、現地点に移ったのであって、江戸時代までは、この橋のたもとにあり、夷堂と呼ばれていた。この橋が夷堂橋といわれるのは、この夷堂とのえにしでつけられたものである。
 このあたりは、小町と大町との境にあたっていて、鎌倉の世には、町大路とよぶ道すじにあたるので、材木座・小町を結ぶ重要な地点であった。
鎌倉十橋は、鎌倉には大きな川はないが、交通上の必要に応じて多くの橋がかけられている。その橋の中で、言い伝えを特にもつ橋、交通の要路にあたる橋を10上げて、鎌倉10橋と呼んでいる。
 鎌倉のJR・京急駅を基点に、
東コースでは、歌の橋、筋違橋(筋替橋)、南コースでは、夷堂橋、逆川橋、乱橋
駅裏コースでは、勝の橋、裁許橋、西コースでは、琵琶橋、針磨橋、十王堂橋の
以上10橋などの記述がありましたので、投稿いたします。

(夷堂橋の碑)

(夷堂橋の袂の本覚寺)

日蓮上人辻説法之址についてNO35(南5)

2018-09-14 16:25:23 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 此のあたりは、鎌倉時代には、屋敷町と商人町とのちょうど境をなす所にあたり、幕府にも近いので、まことににぎやかなところであった。
 建長五年(1253年)5月日蓮聖人は、房州(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ケ谷に草庵をつくり、日ごとに此のあたりの道すじに立ち、伝道の説法を行ない、民衆に獅子吼(ししく)を続けたあとである。世の人々は、辻説法の旧蹟として伝えている。
(参考)
日蓮上人
 貞応元年(1222年)安房国(千葉県)に生まれ、天台宗を学んだあと、鎌倉、比叡山、高野山をまわり修行につとめたが、「法華経」にこそ仏法の真髄ありとして、日蓮宗を唱えるようになった。
 建長五年(1253年)には、鎌倉松葉ケ谷(現在妙法寺のある地)に小庵を建てて、辻説法による布教活動をはじめた。北条時頼に「立正安国論」を上書したのはその7年後のことであった。「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と既成宗教を鋭く攻撃した為、日蓮は多くの宗敵を持つようになり、あわせて政治についても批判をきびしくしたので、竜の口であわや斬罪という法難を受けたり、伊豆、佐渡への流罪にもあった。
 国難到来の予言は、蒙古襲来の事実となってあらわれたことはよく知られているが、日蓮の鎌倉における活動の大きかったことは、今も日蓮宗の寺の多いことや、数多くの遺跡によってうかがい知ることができる。
 弘安五年(1282年)身延山を下って、今の東京、池上の本門寺の地にて60歳の生涯を終えた。
 辻説法跡
 今、碑の立つところは明治34年以来のことであって、それ以前は、妙勝寺(廃寺となって今はない。)の門前にあったという。
 この碑の立つ道は、当時小町大路と呼ばれて、武家の屋敷の多い北部と、商家・町屋の多い南部とを
つなぐ賑やかな道すじであった。
 日蓮がこの人通りの多い道すじに立って、説法活動を行なったにちがいないと思われるが、その位置が、この碑の位置にきまっていたと考えるべきではなく、随所にて布教の説法をなしたであろう。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(日蓮上人辻説法之址の碑)

(日蓮上人辻説法之址の告知標)

(日蓮上人辻説法墓標)

東勝寺旧蹟についてNO34(南4)

2018-09-13 16:52:53 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 元弘三年(1333年)5月、新田義貞の軍が鎌倉に攻め入ったとき、北条高時は、小町の邸を出て、父祖代々の墓所である東勝寺にたてこもった。
 150年もの間、にぎわい栄えた鎌倉の中にある邸や店は、すべて一面に焔の海となってしまった。
 北条高時は、この焔煙のうずまく有様を望み見つつ、一族縁のつながる者総勢870余人と共に、自刃したのであった。
 北条氏執権の歴史の最後の悲惨な一こまは、実に此の地にて演じられたのである。
 (参考)
 北条一族の最期
 太平記巻十より関係個所を次に引用する。
 去る程に、(由比ケ浜)在家ならびに稲瀬河の東西に(新田義貞の軍勢が)火をかけたれば、折りふし浜風烈しく吹きしいて、車輪の如くなる炎、黒煙の中にとび散って、十町二十町がほかに燃えつくこと、同時に二十余箇所なり、猛火の下より源氏の兵乱入りて、とほうを失える敵どもを、ここかしこに、射伏せ切り伏せ、あるいは引き組んで差ちがえ、あるいは生けどり、分どりさまざまなり。
 煙に迷える女、わらんべども追立られて火の中、堀の底ともいわず、逃げ倒れたる有様は、これやこの帝釈宮の戦に、修羅の眷族ども、天帝のために罰せられて、剣戟の上に倒れ伏し、阿鼻大城の罪人が、獄卒の槍にかられて、鉄湯の底に落ち入るらんも、かくやと思い知られて、語るにことばもさらになく、聞くにあわれを催して、、皆泪にぞむせびける。
去る程に、余煙四方より吹きかけて、相模入道殿の屋形近く火かかりければ、相模入道殿八千余騎にて、葛西ケ谷に引きこもり給いければ、諸大将の兵どもは、東勝寺にみちみちたり。(中略)総じて、その門葉たる人283人、我先きにと腹切って、屋形に火をかけたれば、猛炎さかんに燃え上り、黒煙天をかすめたり。庭上門前になみいたる兵共これを見て、あるいは自ら腹切って、炎の中へとび入るもあり、あるいは父子兄弟刺しちがえかさなり臥すもあり、血は流れて大地にあふれ、漫々として洪河の如くなれば、かばねは行路に横たわって、累々たる郊原の如し。死骸は焼けて見えねども、後に名字を尋ねれば、この一所にて死する者、すべて870余人なり、このほか、門葉恩願の者、僧俗男女をいわず、聞き伝え聞き伝え泉下に恩を報ずる人、世上に悲しみを催す者、遠国の事はいざ知らず、鎌倉中を考うるに、すべて6千余人なり、ああこの日いかなる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申すに、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蜜懐(ひきこもりがまんする心)一朝に開くるを得たり。
(東勝寺)
 北条氏の菩提寺である東勝寺については、その位置について明確に指摘できるまでに至っていなかったが、昭和50年の発掘調査によって、はじめて、位置、規模なとせが明るみに出るようになった。調査の実際を目のあたりにし、また調査報告をたよりにしたりして、ありし日の東勝寺を想見してみると次のようになる。
 東勝寺橋をわたって、「東勝寺旧蹟碑」に向って坂をのぼって行くと、右手にかなりの広さの草地があるが、このあたりが、およそ650年の昔、北条氏一門の終焉の地、東勝寺のあったところである。
 草地が住宅で終わるところで、右の草地へ住宅沿いに折れて入ると、①のあたりで、2メートルたらずの、地下から寺の入口と思われる石畳の坂道が見つかり、その石畳の脇には、鎌倉石5段位つみ重ねた石垣も出て来た。そしてこの石垣も、その積み方が一般の寺の石垣様式とはちがって、堅固な積重ね方は、まさに山城の石垣を思わせるものであった。寺は同時に館、とりでの働きをするものである。
 石畳の坂を進んで、住宅に沿って左折れするあたり②の所では、法条家の家紋(三つうろこ)のついた瓦が堀りだされ、そのあたりは門があったと推定された。その奥に入って③のあたりは、1メートル余りの土を掘りとると、岩盤があらわれ、多くの柱穴や溝のあとが数多く見出された。土台のしっかりした岩盤に穴をあけて柱をたてた建物のあったことは、もはや歴然とした事実となった。その岩盤からすこし離れて、④のあたりには、小さな堂のあった遺跡が見つかったし、その堂址の東の方からは、厚さ30センチにも及ぶおびただしい炭と灰の層⑤があらわれ、大火災のあったことのまぎれもないあかしとなった。
 今これらのあとは、再び土で覆われ、往時の遺跡は地下に埋められてあるが、この地に立つと、北条高時以下一族郎党が、悪銭苦闘の末、ついに力つきて、この伽藍に火をかけ、猛火の中に亡びていったその怨念の深さを思い、憶惻と胸を打たれる思いがする。
 発掘あとの草地から少しのぼると、「東勝寺旧蹟」の碑があるが、その左奥が腹切やぐらと言われるところであって、小さな供養塔の下には、おびただしい戦死者を集め、埋められているのではないかと考えられている。このやぐらについても、発掘調査の計画がたてられていると聞くので、この結果から、またあらたに往時を偲ぶあかしが日の目を見るようになるであろう。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(東勝寺旧蹟の碑)

(東勝寺旧蹟への階段)

(東勝寺旧蹟の告知標)

(切腹やぐら)