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日本における新聞誕生地について

2016-03-05 11:40:21 | 日記
 JR石川町駅から中華街入口の右側に日本における新聞誕生地の碑がありましたので、「横浜もものはじめ考」」著者 半澤正時により調べてみると次のように記述がありましたので、紹介します。
 当初の新聞は、サーキュラー(商館通信)貿易に従事する商社や商人が、顧客を対象に発行するものである。例えば広東に本店を置くハード商会は、出身地ボストンの注文主を主な対象として、「プライシズ・カレント」というサーキュラーを発行し、隔週出港する郵便船で送っていた。その内容は、商況を主体とし、政治事件等のニュースを添えたものである。
 トーレルの「トレイド・サーキュラー」文久2年(1862)の横浜駐在英領事報告によると、開港以来、トーレルが、貿易に関する多くの貴重な情報を含む「トレイド・サーキュラー(貿易回報)」を発行していた。トーレルは国籍別商館番号英1番、「最近までイギリスの保護を受けていた一流のドイツ商人」である。
 ジョセフ・ヒロの「プライス・カレント」の第1号は、1861年5月20日付け(文久元年)ヒロ自身が保持の控えを持現存する。第1次東禅寺事件や幕府の遺欧使節についてのニュースと商品相場のリストがその内容である。当初は手書きであったが、後には、印刷されたらしい。
 ショイヤーの「ジャパン・エクスプレス」万延元年(1860)正月、妻子と共に60歳で来日し、初期の居留民の中では例外的な高齢であって、ユダヤ系アメリカ人である。ロジャーズによると、横浜最初の競売屋であり、居留民からは「ショイヤー老人」と呼ばれていた。初仕事は、同年2月5日に殺害された2人のオランダ人船長、フォスとデッケルの遺品の競売であった。夫人は画家として知られる。建築家ブリジェンスの夫人は、ショイヤー夫人の妹だという。
 1865年(慶応元年)に発足した居留地参事会の初代議長に選ばれたが、同年8月21日、その席上で大演説を行い、終わると同時に発作を起こした。参事会財務委員として同席していたヘボンの治療もむなしく、その場で急死した。
 最初の新聞としては、ショイヤーが「横浜で初の最新聞」を発行した。和紙に書いた版下をもとに、日本人の彫刻師が木版に彫刻し、和紙に印刷して配布されたと云う。バラも「ガゼット50年史」のなかで、これが「最初の新聞」であり、木版1枚刷りであったと述べている。
 また、「ウィークリー・メイル」1902年(明治35)1月11日号に掲載されているブルークの追悼記事に、ある古参居留民の投書が添えられており、それによると「居留民が読み耽(ふけ)った最初の新聞は、手書き原稿を複写した1枚刷りのチラシ」であった。
続いて「最初の活字印刷の新聞」として、ハンサードの「ヘラルド」が登場したという。これらの回顧談においては、「最初の新聞」の名称が明確でないということに注意しておきたい。
 かつて小野秀雄氏は、「ジャパン・エクスプレス」という表題の木版刷り英字新聞が、フランス外務省文書に添付されているのを発見し、これがショイヤーの発行した新聞であろうと推定された。などの記述がありましたので、投稿いたします。
 

(新聞誕生の碑)

(碑付近の街並み)

(碑付近の街並み)



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