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義経宿陣之跡についてNO77(西20)

2019-07-09 07:12:44 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
文治元年(1185年)5月源義経は平家を亡ぼして、平家の総大将前内府平宗盛を捕慮として引きつれ、鎌倉に凱旋して来たのであるが、兄の頼朝から疑いを受けて鎌倉に入ることを許されなかった。
 腰越の宿駅にとどまってつもるうらみのあまり、因幡前司大江広元にたのんで、一通の嘆願書を送ったことが「東鑑」(吾妻鏡)に記されている。
 世に言う腰越状とはすなわちこの書状を言うのであって、其のときの下書きと伝えているものが満腹寺に保存されている。
(参考)
義経と頼朝
 寿永四年(1185年)3月、平家は壇の浦に亡びた。すでにこの年は、元暦二年と鎌倉では称していたし、8月には文治元年と改正された。
 義経は、討滅の総大将として、京都でも、後白河法皇より賞詞を受け、鎌倉へは、兄頼朝に会えることに大きな期待をかけて、東海道を下つった。
 しかし、腰越まで来た時、迎えの法条時政は、これ以上鎌倉の内に入ることを許さぬという兄頼朝の厳命を伝え、虜因としの平宗盛父子等を引き取って、戻ってしまった。
 ここ数年、兄頼朝の心証を害している自分であることは、義経も気付いてはいた。木曽攻めのあと、一の谷に平家を破って平家総攻撃となった時、頼朝は、戦陣においては到底義経に匹敵できない源範朝を総司令官とし、義経は京都に謹慎を命ぜられた。その間に、頼朝は範頼については官位奏請しているのに、義経についてはそれを許さなかったこともあった。範頼が晴れ晴れとした姿で、平家追討の軍を西国に向け京都を通りぬけるとき、義経はじっとそれを見送らねばならぬ口惜しさに耐えねばならなかった。その折に後白河法皇は、義経に左衛門少尉、検非違使の宣旨を下したのである。天下の武将の棟梁たる頼朝の内奏のない任官は許さないとする頼朝と、敢えてそれを承知の上での任官をした義経との溝は、これを機に一段と深まらざるを得なかった。
 だから、範頼の平家追討が苦戦に陥ってうごきのとれぬ状況になるまで、頼朝は義経の起用に踏み切ろうとはしなかった。不本意な頼朝から平家討伐の指令を受けた義経は、たちまちにして屋島の平氏を追い落とし、軍を起こして2か月とたたずして、平家の息の根を壇の浦に止めてしまったのであった。
 義経には、この晴れがましい軍功によって、頼朝の自分に対する悪感情をやわらげてくれることと思い込み、大きな期待をかけて、この腰越まできたのであろう。
 しかし、その期待は完全に裏切られた。というより、武家の天下掌握という大業を守りぬく為には、頼朝以外は、すべてその威令に従うべきであるとする鎌倉の体制に対して、義経の認識が浅く、今なお、自分は頼朝と血のつながる弟であることに甘えて、おおきな時代の流れに気づいていなかったという方があたっているであろう。
 思い余って、かの腰越状と称する書面に、悲痛の愁情を吐露し、大江広元に託して、頼朝へのとりなしをねがったのであるが、武家政治体制確立のブランナーである広元が、頼朝によしなに取り次ぐはずがない。
 鎌倉の中枢部が義経を見る目は、戦いの終わったあとの悍馬としか見ず、義経の働きは、この時点ですでに必要とされなかったのである。
 万策つきて、むなしく京都に戻らねばならなかった義経の心の中は、落胆、虚脱、痛憤、あるいは激怒も交錯した思いであったろう。鎌倉の体制側に立つ吾妻鏡すらも、さすがに
平氏を征する間の事、つぶさに芳間にあずかり、また大功を賞せられ、本望を達すべきかの由思いもうくる
の処、忽ち以て相違し、あまつさえ、拝謁をとげずして、むなしく帰洛す。その恨み、すでにいにしえの
恨みよりも深し。
と、義経に衰惜の情をおくっている。
 「土佐坊昌俊邸址」の碑にある義経襲撃の事件は、この四か月あとのことである。

 腰越状
 今、腰越の満幅寺に、腰越状の下書きと称するものが残っているが、伝承としてであって、吾妻鏡にのせられている、腰越状の全文ですら、その真偽は明らかでない。
 寺伝では、ここで弁慶が池の水を汲み、墨をすって書いたといい、その池、腰を掛かけた石が今も残るものであるという。

 源の義経最期
 切々と訴えた腰越状も、ついに頼朝の固く閉じた心を開くことできず、むなしく京に戻った義経は、ついに頼朝に追手を向けられる身となってしまった。
 海路を西国へ落ちようとしたが、嵐に遭って望を果たせず吉野山に潜行した義経は、ここで側室の静と別れたのであるが、その静はやがて捕らわれて鎌倉に連れ行かれる身となった。義経は、吉野、大峯の山中にひそみ、心を寄せる人々の支えによって、はるばる第二の故郷ともいうべき奥州へと落ちのび、藤原秀衡の庇護を頼ったのであった。頼朝のぎびしい探索をくぐって、東に下る義経主従の苦難の途次が「安宅」「勧進帳」等の謡曲、歌舞伎としてあることはよく知られている。
 たよりにした秀衡が歿すると、その子泰衡に対する頼朝の圧力はいっそう強くなり、泰衡はついに義経を衣川の館に襲い、義経とその家族はついに悲運の最期をとげたのであった。時に義経31歳であった。兄頼朝の挙兵に胸躍らせて走せ参じ、黄瀬川で感激の涙を流したときから9年め、壇の浦に平家殲滅の栄光をかざしてから4年めのことである。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。

(義経宿陣之跡の碑)

(満幅寺の門から境内を望)

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