「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
鎌倉十橋の一つであって、そのむかし此の近くに針磨{はりすり}をなりわいとしている者が住んでいたので、此の名がつけられたという。
{参考}
針磨橋
極楽寺坂から稲村が崎に向って、だらだら坂を下りきり、稲村が崎へは、ここからまたのぼり坂になるというところで、この針磨橋の下を、極楽寺川が流れている。
この橋も、鎌倉十橋の一つである。
この橋の近くで針を磨るなりわいをしていたのは、老婆だったという言い伝えと、極楽寺の塔頭に住む「我入道」という僧が、針を磨る業をもっていた、という伝承とあって、この橋を「我入道橋」という人もある。
極楽寺
江ノ電の極楽駅のすぐ上にあるこの寺は、真言律宗奈良西大寺の末である。正元元年(1259年)北条重時が開基した。開山は奈良より迎えた良観房忍性である。
極楽寺古絵図によると、隆昌時には、金堂、講堂、塔等の伽藍をはじめ、四九の支院を有して、鎌倉有数の大寺であった。室町時代に入ってからは、すっかり衰微してしまったけれど、古い寺だけに、清涼寺式の釈迦如来立像をはじめ、すぐれた文化財が多く、寺の裏の高台には忍性、順忍両和尚の美しく大きな五輪塔、北条重時と伝える立派な宝篋印塔もある。
月影地蔵
針磨橋から江ノ電の踏切を通って、谷戸道を行くと月影ガ谷である。ここには月影地蔵が古くからまつられていたが、いつのころか極楽寺裏の西ガ谷に移され、そこの地蔵堂に安置されてある。そして、その地蔵像も江戸時代につくられた木造の像と変わってしまったので、いにしえの地蔵像を仰ぐことはできない。などという記述がありましたので、投稿いたします。
(針磨橋の碑)
(針磨橋のらんかん)
鎌倉十橋の一つであって、そのむかし此の近くに針磨{はりすり}をなりわいとしている者が住んでいたので、此の名がつけられたという。
{参考}
針磨橋
極楽寺坂から稲村が崎に向って、だらだら坂を下りきり、稲村が崎へは、ここからまたのぼり坂になるというところで、この針磨橋の下を、極楽寺川が流れている。
この橋も、鎌倉十橋の一つである。
この橋の近くで針を磨るなりわいをしていたのは、老婆だったという言い伝えと、極楽寺の塔頭に住む「我入道」という僧が、針を磨る業をもっていた、という伝承とあって、この橋を「我入道橋」という人もある。
極楽寺
江ノ電の極楽駅のすぐ上にあるこの寺は、真言律宗奈良西大寺の末である。正元元年(1259年)北条重時が開基した。開山は奈良より迎えた良観房忍性である。
極楽寺古絵図によると、隆昌時には、金堂、講堂、塔等の伽藍をはじめ、四九の支院を有して、鎌倉有数の大寺であった。室町時代に入ってからは、すっかり衰微してしまったけれど、古い寺だけに、清涼寺式の釈迦如来立像をはじめ、すぐれた文化財が多く、寺の裏の高台には忍性、順忍両和尚の美しく大きな五輪塔、北条重時と伝える立派な宝篋印塔もある。
月影地蔵
針磨橋から江ノ電の踏切を通って、谷戸道を行くと月影ガ谷である。ここには月影地蔵が古くからまつられていたが、いつのころか極楽寺裏の西ガ谷に移され、そこの地蔵堂に安置されてある。そして、その地蔵像も江戸時代につくられた木造の像と変わってしまったので、いにしえの地蔵像を仰ぐことはできない。などという記述がありましたので、投稿いたします。
(針磨橋の碑)
(針磨橋のらんかん)
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