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ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

シドモア桜の碑について

2016-02-26 20:16:56 | 日記
 JR石川町駅から、首都高速神奈川3号狩場線に沿って、海に向って歩いていくと山下公園通りの一本手前に谷戸橋を渡り切った右側に、シドモア桜とあったので、シドモア桜の会 編集発行により、調べると次のような記述がありました。
 エリザ・シドモアは、ウイスコンシン州の首都マデイソンに1855年に生まれ、カレッジに通い卒業後、通信記者としてニューヨーク・タイムズに入社し、アラスカに渡り、続いて日本、中国、ジャワ、フィリピン、ヨーロッパと数年を過ごしている。初めて日本に訪れたのはエリザ28歳とされる。日本と日本の人々ことに桜に魅せられたエリザは、延べ3年間日本に住んでいた。
 米国農務省探査官は、日本の植木屋11代目子孫高木と会い選別した桜30種を本国に輸送し、カリフォルニアに移植したがすべて枯れてしまった。それ以前にも北海道 農業学校のクラーク博士が、1876年に桜の種を米国の実家に送っている。
 1904年(明治37年春、米国に帰ったエリザは、米農務省昆虫学者でカンザス州の観桜会に参加すると見事に桜が米国で咲いており、移植可能を信ずることとなった。たまたま、同年ワシントン市のホトマック河に面して造成された新しい埋立地を公園にするという計画をエリザは耳にした。「この埋立地に日本の桜を植え、ワシントン市の向島、東京の桜の名所にしたい」と関係者に働きかけ願いでた。
 1906年桜愛好者であり研究家でもあるD・fairchild氏が枝の苗木25種を(株)横浜植木に注文、ワシントン市の郊外、メリーランド州の森林地の一角を「森の中」と称し、横浜から取り寄せた25種の桜をそこに植え、5年後には、森の中の桜が満開となり、ワシントン市でも十分桜は育つことに確信を得た。
 方やエリザは、高名な文筆家として、また永年の海外生活での経験と知識を評価された彼女は、政府の外交政策へのアドバイザーでもあり、政府代表として海外での会議にも派遣されていた。そして、名実ともにワシントン社交界のトップ・レディーとして処遇され、エリザは親友となった大統領夫人ヘレンに、ポトマック河畔の公園予定地に日本の桜の移植計画を説明し、夫人の賛同を得る。
 1912年3月27日ホトマック公園にて、ささやかな桜移植式を挙行。最初にタフト大統領夫人ヘレン、珍田日本大使夫人、そしてエリザ・シドモンが鍬をとって移植した。
 1925年(大正14)エリザ69歳は、ワシントンを去り、ジュネーヴ、スイスに移住。理由は、米国会議が「排日移民制限法」を通過させたのに激怒した。とも伝えられている。同法は、1924年7月1日に施行された。ジュネーヴでは、当時、新渡戸稲造博士は、同連盟事務局次長を勤めいて、国際連盟に尽力されていた。
 1927年ポトマック河畔に於いて、第一回桜祭りを開催。チェリー・ブラッサム・フェスティブァルと呼ばれ、以降毎年4月に開催され、全米各州から集まるチェリー・ブラッサム・プリンセスから、その年のチェリー・ブラッサム・クイーン、いわゆる桜の女王が選出されるようになった。
1928年(昭和3年)11月3日エリザは、72歳で同地ジュネーヴ、スイスにて逝去。ニューヨーク・タイムズはその死を大きく報じ、現地追悼式には、吉田伊三郎公使がベルリンより駆け付け哀悼の辞をささげた。日本の政府の要請により遺骨は、日本に移送されることとなる。
 1929年(昭和4年)11月3が0日、横浜山手外国人墓地にて、納骨式。母と兄の眠る墓(墓地番号11地区)入る。新渡戸稲造博士、桑原外相代理、植原前駐米大使、有吉横浜市長、米国代理大使ネヴィル氏ら内外著名、およそ100名が参列。植原前駐米大使の司会で新渡戸稲造博士が、英語の弔辞を送った。(墓に眠る兄は、2歳年上で米国外交官1854~1922山手246番地の自宅で逝去、母は、1823~1916横浜で逝去)
 1987年(昭和62)3月27日午後、ポトマック公園での植樹式の日にちなみ、横浜山手外国人エリザの墓の脇に「シドモア女史顕彰会」の顕彰碑が寄金により建立され、約50人の集いの中で除幕式が行われ、大理石の碑には「日本の桜を愛した女性ここに眠る」牧野あざみ、香港さくらの会会長の筆がきざまれ、エリザが愛した桜の苗木が植樹された。1991年(平成3年、ワシントン市から里帰りした桜の苗木4本が墓の前面に植樹している。とあったので、投稿いたします。

(谷戸橋の袂にあるエリザ・シドモアの碑)

(エリザ・シドモアが眠る外人墓地入口)

(外人墓地について)

(外人墓地資料館にあるエリザ・シドモアについての説明)

消防救急発祥の地の碑について

2016-02-20 10:35:18 | 日記
 JR関内駅から、大桟橋通りを海に向って歩いていくと横浜情報文化センターが左に見えてきます。この敷地に消防救急発祥の地の碑がありましたので、「横浜ことはじめ」半次正時著者によると次のような事柄が、掲載されていた。
 消防団の組織化は、1863年(文久3)末12月22日のクニフラー商会の火事が契機であった。翌1864年(元治元年)1月11日J・ C ・フレーザーの招集によりS・J・ガワー宅で最初の会合がもたれ、フレーザー、ガワー、E・ピケ、W・C・クラーク、J・ハドソンからなるボランティア・ファイア・ブリケード委員会が組織された。これが居留地消防隊の創始と見ることが出来る。 勿論それ以前に個人で消防車を所有し、消火にあたっていた。2月4日の会合ではO・E・フリーマンが初代消防隊長に就任し、「本国に注文」された3台の消防車は1864年末に到着し、ロス・バーバー商会、キングドン宅、ピケ宅にそれぞれ配置されたが、翌1865年(慶応元年)1月19日には市場予定地の背後(現在の日本大通り出張所あたり)に新築された消防車庫の竣工をもってそこに移されるとともに、消防隊の規則も制定された。
 1864年2月26日の会合で、居留地80番横浜天主堂のムニク神父と協議のうえ天主堂の鐘をファイア・アラームとして使用し、監視人置くことが提案され可決された。天主堂の鐘は、1863年10月5日の聖別といわれることから、その頃トンガリ屋根の鐘楼が建設されたのであろう。警報は、居留地内の火事では一撃、日本人街2撃、弁天のドイツ領事館一帯3撃、元町方面4撃と決められ、1864年4月23日の告示から実施された。
 天主堂の鐘楼を借りたとはいえ、消防火の見の最初になる。ちなみに、居留地消防隊が自前で火の見櫓を建てるのは1871(明治4年)のことになる。
 さて、1964年に居留地消防隊が購入した3台の消防ポンプ車は何れも手動のものであった。1866年の慶応大火後、アメリカン・アフイアー・カンパニーは、サンフランシスコ経由で消防ポンプ車(ボランティア号)を取り寄せ1867年(慶応3)7月3日放水試験を行ない、水平放水距離150フィート、垂直距離70フィートの性能を示したが、これも手動ポンプであった。
 明治4年(1871)2月6日ついにロンドンのシャンド・アンド・メーソン社製の蒸気消防ポンプ車が横浜に到着し、2月15日海岸通りでデモンストレーションが行われた。ビクトリア火災保険会社が取り寄せたもので(ビクトリア号)と名付けられ、一分間に400ガロンの放水能力を有した。これが横浜における最初の蒸気消防ポンプ車である。
 次いで、1874年には、居留地消防隊が同じシャンド・アンド・メーソン社製の蒸気消防ポンプ車(リリーフ号)を導入して、消防能の力の増強を図った。リリーフ号の放水量は1分間に350ガロンであった。
 明治初年の横浜居留地には、1864年創始のボランティア・ファイア・ブリゲードの流れをくむ居留地消防隊(ヨコハマ・ファイア・ブリゲード、Y・F・Bと略す)の他、ボランティア号を持つアメリカン・ファイア・ブリゲード(A・F・B)、ビクトリア号を持つビクトリア・スチーム・ファイア・エンヂン・カンパニー(V・S・F・E・C・O)、そしてH・W・ホーンホルツ率いるブライベート・ファイア・ホック・アンド・ラダー・ブリゲート(P・F・B)の消防隊あるいは消防会社があり、協同して消火に当たっていたようである。P・F・Bの行末は不明である。(人名録では1881年から消える)がA・F・Bのボランティア号は明治13年(1880)にY・F・Bに移され、1882年には、Y・F・Bの改革がなされ、ジェームズ・ウォルターが新たに設けられた総監督に就任した他、海難救助隊の設置、山手に5台の消防車を配置するなど1層の組織強化が図られた。
 この改革は、居留地消防隊の採用した「ウオッチマンス、クロック、システム」法実施のため、神奈川県の居留地警察署巡査が居留地消防隊に貸与された時期に一致する。それはともかく、明治22年(1889)にはビクトリア号もY・F・Bの所属となり、居留地消防隊の一本化が果たせた。と記述があったので投稿いたします。

(消防救急発祥の地の碑)

電気発祥の地について

2016-02-13 07:20:17 | 日記
 関内から、ベイスターズ通りを海に向って一丁ほど歩いて行くと神奈川県電気発祥の地という碑が建立されていましたので、「横浜もののはじめ考 編集・発行横浜開港資料館」によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 明治22年7月横浜の田沼太右衛門が発起人となり、横浜共同電灯会社の設立計画に基づき出願され、11月に関内と居留地を営業区域として許可された。役員選挙の結果、初代社長には高島嘉右衛門が就任し、翌年、常盤町一丁目に火力発電所を建設。電柱の設置や電線の架設など工事が進められ、9月に完成して試験送電を開始した。
 開業したのは10月1日からであった。12月には、関外を営業区域として設立許可を得乍ら、まだ事業に着手していなかった横浜電灯会社の営業権を吸収している。26年から横浜電気会社と社名が変わり、大正10年東京電灯株式会社に合併された。
 また、「市史稿」によると、高島町遊郭の移転にともない、明治17年、神風桜も真課金町に新築移転するが、これを日本人用とし、外国人用として、神奈川7軒町埋立地碧海橋祭に建物を移築、これに「自家用の発電所」を設え「煌々たる電光は、構内停泊の艦船に乗り組む人々の魂を刺激した」という。黒沢正尾の談話によると、この自家用発電所が明治29年、附近一帯への供給権を得て独立し、神奈川電灯会社になったという。34年市域拡張によって神奈川が横浜市に編入されたのを機会に交渉が進み、明治40年横浜共同電灯会社に合併された。
 一方、東京では、明治11年3月25日、工部大学校で、英国人教師エアトンの指導によってアーク灯が点火された。これが日本で最初の電灯点火とされ、この日が電気デーになっている。
 明治15年、大倉喜八郎らが米国デラッシュ商会の勧めで電灯事業を計画し、11月1日には、同商会から派遣された技術師により、事務所が置かれた銀座の大倉組の前で「公開実物宣伝」が行われた。この8月11日付け「東京横浜毎日新聞」に、「ブラツシ電気灯会社代理店」ウォルシュ・ホール商会が「工事及ヒ其他一切ノ場所ヘ電気灯布設セット欲スル御人ハ下名ヘ御来談アラン事ヲ迄フ」という広告を出していることからみて、ウォルシュ・ホール商会が仲介したものと思われる。
 会社の設立は、明治19年7月5日開業した。架空電線による配電が開始されたのは、20年11月のことであった。21年には神戸、22年には大阪・京都・名古屋に、それぞれ電灯会社が設立されている。「東京電灯株式会社史」による。という記述がありましたので、併せて投稿いたします。

(電気発祥の碑)

(碑のある街角)

ヘボン邸跡の碑について

2016-02-06 08:44:51 | 日記
 JR石川町駅から、首都高速神奈川3号狩場線に沿って、海に向って歩いていくと山下公園通りの一本手前に横浜地方合同庁舎があります。その敷地内にヘボン邸跡の碑があり、港が見える丘公園の大仏次郎・イギリス館などがある山手111番館から、更に、100m程歩いて行き丁字路を右ヘに行くとボン博士山手居住地跡があったので、「横浜山手中華街スケッチ散歩 著者・編集 吉村俊文」よると次のように記述があった。
 近代化というのは、最早都市の歴史や美術をも犠牲にせねば果たせないものなのだろうか。往時には堀川を挟んで外国人居留地間を結ぶ最重要の架橋だった谷戸橋も今や上空を飛ぶ首都高速道路の下敷きとなり、殆どコンクリート化石となりつつある。親柱には昭和2年7月竣工の銘板、やはり関東大震災直後架け替えられたものとかんがえられる。
 震災前は現在より約20メートル位下流、谷戸坂を下り切った地点にあったらしく明治20年すでに鉄製トラスト・ガーター方式の立派な橋として写真で残されている。しかもその背景に、かなり大きな合掌作りの建物まで撮られているのだが、それこそ旧横浜居留地39番のヘボン博士邸。現在は横浜地方合同庁舎が建っており、勿論その前庭には博士のレリーフを嵌めこんだ大きな石碑と掲示版。そして開港と共に来日、聖書の翻訳・和英辞典の編さん、医術の普及など幕末・明治初期日本文化の開拓に力をつくしたと手短なプロフイルも紹介され、なにかお座なりで物足りない感じである。
 たしかに、ジェームス・カーティス・ヘボン博士はアメリカ長老派教会の一宣教医に過ぎなかったが、安政6年(1859)来日、いまだ物情騒然、キリスト布教師未解禁、攘夷浪士の出没する劣悪な治安下に拘わらず3年間も神奈川成佛寺に滞在。先ず日本語の猛勉強。居留地が出来るや此処に転居。ヘボン式ローマ字を創案。聖書翻訳辞典の編さんの傍ら日本人有志らへの英語教育。後年、辞典の版権2千ドル(当時)も全額明治学院創立に拠出。
 更に、横浜指路教会の創立、その上に医療活動では、江戸の俳優沢村田之助の脱疽手術後、義足を態々米国より取り寄せたことは有名である。更に、眼疾治療をうけた岸田吟香が博士の高邁な人格に心酔して助手となり、辞典を出版手伝ったこと、また、ヘボン塾生ギダーもフェリス女学院を創立したこと。
 明治25年(1892)には山手245番へ転居したが、七面六臂の活躍は変わらず、10年後に一旦帰国するときは、長年ヘボン家に仕えたコックの牧野条七へその報い、また、養老資金にと点眼水の処方を伝授している。とにかく博士は連日この谷戸橋を往来したに違ないのである。
 一方、横浜もののはじめ考 編集・発行横浜開港資料館」には、文久2年(1862)頃、横浜に移転直前のヘボンのもとに、神奈川奉行から幕府の委託生9名に幾何と化学を教授してほしいというが依頼あった。その中に大村益次郎や原田一道、沼間守一がいたらしい。教えてみると学生たちはすでに蘭学を通じて相当な知識を持っていたので、英語の教授に絞ったという。
 横浜移転後も授業が続けられたが、翌年3月(1870)、生麦事件の処理をめぐって世情が不安定になり、学生たちも警備の部署につくために去って行った。同年11月林桃三郎(のち馨)がヘボン夫人から英語を習い始めて、高谷道男氏はここにヘボン塾の起源を求めて、翌年には、仙台藩の高橋是清・鈴木六三郎、大村大三郎の3人が入塾している。林はのち外相に、高橋は首相になっている。林の兄佐藤桃太郎や益田孝、服部綾雄、三宅秀もこの塾で学んだ。
 明治にはいると熟生の数が増え、O・M。グリーンやルーミス、ジェイムズ・バラの弟ジョンらが応援し明治9年、(1876)ヘボン夫妻の山手移転とともに、ジョンとバラが塾を継承し、バラ学校と呼ばれるようになった。明治13年(1880)、東京の築地大学校に合流、これが発展して明治19年(1886)に明治学院となる。22年、ヘボンがその総理に就任した。と記述があったので投稿いたします。  

(ヘボンの碑)

(ヘボンについての掲示)

(ヘボンの碑付近)

(高速道路したの谷戸橋)

(橋柱)

(ヘボンの居住地の門柱)

(ヘボンの居住家)

(居住地附近)