今日は、横浜市金沢区の野島にある旧伊藤博文金沢別邸にやって来ました。目的は、先に投稿した横浜市の水道の生い立ちで知った、伊藤博文公の執った手段に感心を持ち、やって来たものであります。
それは。横浜市が始めて公営水道を補助事業として、実施する計画を明治政府に伺いを立てたところ、当時、宮内伊藤博文から、その事業規模が壮大で横浜市の年間予算7万円に対し、100万円の工事費を費やすると云うもので、非常に関心と心配をもたれた。
当時、内宮伊藤博文は、一旦、これを神奈川県の水道工事として実施させ、これが完成の暁には、横浜市に引き継ぐという大胆な手法で完成させたと云うことを横浜市水道70年史より、知ったので、この伊藤博文別邸に何かあるのでは、と思い来たところであります。
別邸内は、管理事務に入館を告げて、自由に見学をすることが出来ます。受付でパンフレットをいただき開いて見ると建物が3っに分かれ(客間棟、居間、台所棟)それぞれ廊下で繋がっており、外回りは、回廊になっておりました。
この別邸は、伊藤博文公が初代の内閣総理大臣を務めた明治31年に建てられ、屋根は茅葺の田舎風の海浜別荘建と書いてありました。この地は、東京近郊の海浜別荘地として、注目され松方正義や井上馨などが別荘を設けたとなっていますが、現在は、この伊藤博文別邸だけが残っており、平成18年11月に横浜市指定有形の文化財に指定されたとなっていました。
また、平成19年に建物の老朽化が著しいかったので、解体し、当時、別邸を管理していた地元の旧家、松本家に保管されていた古図面に基づき、現存していなかった部分を含めて、平成21年10月に庭園と併せて復元し竣工したとなっていました。
さて、本題の伊藤博文公の功績として、氏は、山口県の百姓の林十蔵の長男として生まれ幼名は、利助といいましたが、利助が12歳の時、父十蔵が萩藩の中間伊藤直右衛門の養子となり、以降伊藤の性を名乗るようになり、安政4年(1857年)に松下村塾に入り、吉田松陰学び、桂小五郎や高杉晋作、井上馨、山縣有朋らと統幕運動に奔走した。
維新後は、政府の近代化政策の中心的役割を担い、明治18年(1885年)弱冠44歳で初代内閣 総理大臣に就任し、4度の内閣組閣と枢密院議長、初代韓国総監を経て、明治40年(1907年)公爵を授与、その2年後の明治42年(1909年)10月26日、現中国の黒龍江省ハルピン駅で68歳で生涯を閉じました。となっておりました。
また横浜金沢ガイドMAPによれば、明治憲法の草案をこの横浜金沢区の料亭「東屋」で草安作りをしていた。
ある日、その草案資料の入った鞄の盗難事件が起きて、それを機に旧別邸で練り上げられたとありました。
昭和10年に金子堅太郎により「東屋」の庭に「憲法草創之碑」が建てるが、昭和30年に「東屋」の廃業に伴い現在の場所に移されたとありました。
一方、前述の松本家に保管されていた古図面に、「赤坂仮皇居御会食所」を移築し、金沢別邸に廊下で繋ぐ案が確認できたとあります。
伊藤博文公の発想は、一般人には考えられない別邸に「赤坂仮皇居御会食所」を廊下で繋ぐ等奇想天外な事を発案するので、横浜市の水道の補助事業を神奈川県が実施し、完成の後に、横浜市に引き継ぐらい容易に考えられる。とうなずくことが出来ました。
最後に、別邸内には、内閣総理大臣当時の資料などを各棟の部屋に展示されていました事をお知らせし致します。
(野島公園)
(別邸正面)
(別邸海岸側から)
(回廊)
(見取図)
(展示物)
(展示物)
(展示物)
(展示物)
(説明)
(建物内からの海の眺め)
(隣接する牡丹園)
(同牡丹園)
(憲法草創案記念碑)
(記念碑説明)
それは。横浜市が始めて公営水道を補助事業として、実施する計画を明治政府に伺いを立てたところ、当時、宮内伊藤博文から、その事業規模が壮大で横浜市の年間予算7万円に対し、100万円の工事費を費やすると云うもので、非常に関心と心配をもたれた。
当時、内宮伊藤博文は、一旦、これを神奈川県の水道工事として実施させ、これが完成の暁には、横浜市に引き継ぐという大胆な手法で完成させたと云うことを横浜市水道70年史より、知ったので、この伊藤博文別邸に何かあるのでは、と思い来たところであります。
別邸内は、管理事務に入館を告げて、自由に見学をすることが出来ます。受付でパンフレットをいただき開いて見ると建物が3っに分かれ(客間棟、居間、台所棟)それぞれ廊下で繋がっており、外回りは、回廊になっておりました。
この別邸は、伊藤博文公が初代の内閣総理大臣を務めた明治31年に建てられ、屋根は茅葺の田舎風の海浜別荘建と書いてありました。この地は、東京近郊の海浜別荘地として、注目され松方正義や井上馨などが別荘を設けたとなっていますが、現在は、この伊藤博文別邸だけが残っており、平成18年11月に横浜市指定有形の文化財に指定されたとなっていました。
また、平成19年に建物の老朽化が著しいかったので、解体し、当時、別邸を管理していた地元の旧家、松本家に保管されていた古図面に基づき、現存していなかった部分を含めて、平成21年10月に庭園と併せて復元し竣工したとなっていました。
さて、本題の伊藤博文公の功績として、氏は、山口県の百姓の林十蔵の長男として生まれ幼名は、利助といいましたが、利助が12歳の時、父十蔵が萩藩の中間伊藤直右衛門の養子となり、以降伊藤の性を名乗るようになり、安政4年(1857年)に松下村塾に入り、吉田松陰学び、桂小五郎や高杉晋作、井上馨、山縣有朋らと統幕運動に奔走した。
維新後は、政府の近代化政策の中心的役割を担い、明治18年(1885年)弱冠44歳で初代内閣 総理大臣に就任し、4度の内閣組閣と枢密院議長、初代韓国総監を経て、明治40年(1907年)公爵を授与、その2年後の明治42年(1909年)10月26日、現中国の黒龍江省ハルピン駅で68歳で生涯を閉じました。となっておりました。
また横浜金沢ガイドMAPによれば、明治憲法の草案をこの横浜金沢区の料亭「東屋」で草安作りをしていた。
ある日、その草案資料の入った鞄の盗難事件が起きて、それを機に旧別邸で練り上げられたとありました。
昭和10年に金子堅太郎により「東屋」の庭に「憲法草創之碑」が建てるが、昭和30年に「東屋」の廃業に伴い現在の場所に移されたとありました。
一方、前述の松本家に保管されていた古図面に、「赤坂仮皇居御会食所」を移築し、金沢別邸に廊下で繋ぐ案が確認できたとあります。
伊藤博文公の発想は、一般人には考えられない別邸に「赤坂仮皇居御会食所」を廊下で繋ぐ等奇想天外な事を発案するので、横浜市の水道の補助事業を神奈川県が実施し、完成の後に、横浜市に引き継ぐらい容易に考えられる。とうなずくことが出来ました。
最後に、別邸内には、内閣総理大臣当時の資料などを各棟の部屋に展示されていました事をお知らせし致します。
(野島公園)
(別邸正面)
(別邸海岸側から)
(回廊)
(見取図)
(展示物)
(展示物)
(展示物)
(展示物)
(説明)
(建物内からの海の眺め)
(隣接する牡丹園)
(同牡丹園)
(憲法草創案記念碑)
(記念碑説明)
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